終幕 REINCARNATION




開いていた図面から視線を上げて、元親は軽く眉を顰めた。
いつの間にか午後の日差しが畳の上に伸びている。集中していると時間が経つのを忘れてしまうな、と思いながら一つ大きく伸びをすれば、思った以上に背筋がぎしりと悲鳴を上げて、もう一度顔を顰めた。
手にした絡繰りの製図は、暫く前から手を付けているものだった。戦闘用だったものを、大幅に改良して土地の開墾や土木作業の運搬用に作り直しているのだ。
今の四国に必要な他国に攻め込む戦力ではなく、国を立て直すための力だ。
筆とものさしを文机に戻して胡坐を解くと立ち上がる。半開きの障子窓から外を覗けば、見下ろす浜の方には藻塩を焼く煙が立ち上っているのが幾筋も見える。耳を澄ませば木々のざわめきと一緒に潮風に乗って働く人足たちの掛け声も耳に届く。
騒がしいのは漁に出た船が戻ってきた所為だろうか。そろそろ夕餉の支度の時間じゃねえか。日の傾きと喧騒からもうそんな時間かと欠伸をして、元親は腹が減ったなと呟いた。
図面と睨めっこをしていた所為で疲れた眉間を揉みながら、ふっと現れた気配に振り返る。廊下に面した障子ではなく奥の障子窓を見遣って、元親はにやりと顔を歪めた。窓に影が落ちてそのままからりと障子が開く。

「よう、随分とやんちゃになったじゃねえか」

はかったようにかけられた鬼の声に、窓枠を乗り越えてひょいと飛び込んできた男は悪戯がばれたような顔をして、くしゃりと笑った。

「ははっ、すまんすまん。裏手を通ってきたら窓が見えてなあ。懐かしくて、つい」

聞きなれた声は確かに元親の耳に届いた。縹色の着物が潮の香りと一緒に室内に縺れ込んできたようだった。
深い金褐色の髪はおさまりが悪くあちこちにはねて、やや長めの前髪の間からやや吊りぎみの丸い双眸が覗いている。少しこけた頬と鼻梁の高い顔立ちは、限られた僅かな者が面と向かえば、もしかすると奥州の竜と謳われた男の面影を見出すかもしれない。

「港はどうだったあ、家康」

元親の言葉と同時にさっと金気が虚空にほどけた。金褐色の髪色が黒へと変わり、顔立ちが変化する。縹色が秋の稲穂のような藤黄に染まってはたりと揺れた時、元親の目の前にはよく知る男が立っていた。
きりりと上げた黒い前髪に秀でた額。精悍だがどことなく懐っこく愛嬌のある顔立ちの中で、黄金色の丸い瞳が炯々と耀いている。喉から顎にかけて凄惨な火傷痕が目を引くが、それを柔らかな藤と竜胆色の飾り布が巻いて隠している。

「今日は海が穏やかだったよ。投網の修繕を手伝っていたんだが、山の方で人手が足りないと言われて午後はそちらへ行っていた」

笑いながら肩を竦めた家康は少し土埃にまみれている。

「元親の方はどうだ?例の絡繰りは順調か?」
「おうよ、試作段階で調整中だがな。これがありゃあ仕事も楽になる」
「それはいい、山から木を運ぶのも一苦労だからなあ」

実際に民に紛れて手伝っていたのだろう、感慨深げに頷く家康は、以前と同じようでまた少し違っていた。国主として上に立つ者としてのしがらみから離れた家康は、また違う目で世界を見るようになったのだろうか。
人ならざる身となった今では深く世間に関わることは許されない。姿を変えて各地を転々としながら、家康は人の世を見守ることにしたらしい。暫く前までは越後の方に居たらしいが、先頃雑賀荘へ立ち寄り、今は四国に滞在している。
その方がいいと家康は言う。永い刻に飽いて梟の城の鳥籠で飼殺しにされるより、痛みや悲しみを抱えても人の世との繋がりを絶たず、出来る限りで傍に寄り添ってゆくことが、家康の望んだ道だ。
あの夜、三成の手を取ることを選び、家康はあの梟雄の籠から外へと出た。それが陽の神でもなくただの徳川家康としての偽りなき選択だった。
人ならざる身である松永を殺すことはできず、二人して山城を抜け出すのが精一杯だった。今になって思うことは、このことさえもあの梟雄の意図だったのかもしれないということだ。
「東照」を手に入れ損ねたあの男は、また人界を肴に悠久の時間の暇を潰すのだろう。松永の脅威は去ることなく、人々の知らぬ間にもこの乱世を脅かす影を未だ投げかけている。だが、家康はもう独りで戦うことはない。
政宗が居る。元親も居る。そして何よりも、三成が共に居る。
そういえば、と元親は文机に歩み寄ると、螺鈿造りの文箱を開けた。中に入っているのは今朝届いた書簡の束だった。
大坂から届いた三成からの文書は、国内の復興状況や政についての情報、周辺諸国の情勢について記されている。雑賀衆からの定期報告の書簡も同封されている。
文面からするにあちらもまずまずの進み具合らしい。大坂に戻った当初は、今まで碌に政に興味も持たなかった所為で四苦八苦していた様子の三成だったが、元々勤勉なたちもあって、今ではだいぶ卒なくこなすようになってきたようだった。
書簡の束から封をしたままの一通を取り出すと元親はそれを家康に渡した。

「元親?」
「三成からの文だぜ、お前宛てだ」
「おお、三成からか!」

受け取った家康はもどかしげに封を開けて書簡を開いた。それほど長くないらしい文に目を走らせていた家康が破顔する。つられて頬が緩んでしまうような、眩しい笑みだった。

「朗報でも書いてあったかよ」
「いや、……ははは、なんていうかなあ」

少しだけ照れたように目元を朱に染めて、家康は双眸を緩めた。

「なあ、元親、次の大坂行きの船の予定はいつだろうか?」

続いた言葉に一瞬目を丸くした元親は、思わず噴き出した。それでもう、短い手紙の内容が知れるというものだ。腕を伸ばして家康の背中をばしばしと叩きながら、緩んだ頬を抓り上げる。

「おうおう、三日後の予定だが、待ちきれねえんなら竜の兄さんに乗っけてってもらえよう!」

北の竜神はといえば、近頃は奥州の様子を気にかけて北の地に腰を据えている。ひとところにじっとしているたちでもないが、竜の力は天候に影響しやすいからおいそれと動けねえんだ、などとぶつくさいっていた。
けれど、あの男のことだから声をかければ口実とばかりにやって来るに決まっている。なにより家康の願いとあれば尚更だ。
案の定、元親の提案に家康は大慌てで首を横に振った。

「そ、そこまで独眼竜に甘えられない!ワシは既に随分お前にも甘えているというのに!」
「なに言ってやがるんでえ。お前はもっと我儘言わなきゃ釣り合わねえんだよ!」

ぐしゃぐしゃと童にするように頭を乱暴に撫でられて、家康は元親の腕の中で楽しそうに笑った。
生と言う名の長く険しい道程には幸福以上に痛みと悲しみが溢れかえっている。人は進み続けることしかできず、痛みに吊り合う代償は必ず与えられるとは限らない。それでも、選んだその道を貫くことができるのならば、痛みも苦しみも不要なものなど何一つ無いのだ。
真理はない。正しきこともない。けれど、ただ己が心には偽ることのできない想いと尽きることのない火が燃えている。今生で相容れぬのならば、秘めて隠し通して地獄の底まで一人で持っていくことも、或いは良いのかもしれない。けれどありのままにぶつけ合うことができたなら、例えどれほどの痛みを伴おうとも、それは無意味ではなく、不幸ではない。それさえもが二人の偽りない本心であるのだから。畢竟、人とはそういうものだ。それが、人であることの幸いだ。



三成の寄越した書簡は濃い墨痕も潔くたった一言。


「疾く会いに来い。ひとでなしめ」





ENDE






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20140325