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風の強い夜半だった。
昼夜を通しての行軍は慣れていようともやはり兵士の体力を消耗する。斥候を放ってから少数の部下だけを連れた雑賀孫市は大和へと向かっていた。
道程を計算して休息を入れながら夜道を急ぐ雑賀衆の面々は、旅装に身を窶してはいるが衣の下には鎖帷子と銃火器を備えた戦支度だ。目立つわけにはいかないので日が落ちてからは街道を外れて二手に分かれ、山道を利用した。
大和の地も充分に孫市の行動範囲に入る。獣道も隘路も抜け道も、知り尽くしている雑賀衆にとっては街道とそうかわらない。
数分の小休止を命じて孫市は山中で脚を留めた。先に出した斥候の一人が戻ってくる頃あいだろう。数名の部下が互いに死角を補う位置に立ち、二名が周囲に散る。
木立を通して月明かりが射し込んでいる。竹筒の水を一口だけ口に含んで息をつくと、孫市は傍らの木の根元にしゃがみこむ小柄な背中に声をかけた。

「姫、水は摂っておけ。斥候の報告次第では夜明けまでかかるやもしれない」

孫市の言葉に首筋で切りそろえられた栗色の髪を揺らして鶴姫はこくりと頷いた。大分口数が少なくなっているのは疲労によるものだろう。戦巫女とは雖も船上に慣れている身にとって山路はきつかろう。それでも鶴姫は気丈で弱音一つも零さない。
言われたとおりに鶴姫は竹筒から水を一口飲んだ。

「姉様、あの、すみません私、急にこんな無理を言って」


吐息と一緒に吐き出された言葉は、遠慮がちで少しだけ不安に揺れているようだった。珍しいことだ。

「謝られる理由は無い。姫の依頼を受けたのは我らであるし、これは我らの意思でもある」
「姉様」
「お前はお前の宣託に映ったものを信じたのだろう。ならばそのために尽くすことだ」

淡々と告げられる孫市の声音は普段と変わりなく揺らいではいない。鶴姫は暫くそれを聞いて俯いていたが、不意に顔を上げた。ごしごしと手の甲で顔を擦ると、いつもの軽快な仕草でぴょんと立ち上がる。孫市を見上げたその顔は疲労の影こそあれ、明るい笑みを湛えていた。

「そうですよね!私、ちゃあんと見えたんですもん!家康さんは生きてるって!」
「ああ、我らもそれを信じよう」



雑賀荘に隠し巫女が息せき切って飛び込んできたのは一昨日だった。鶴姫の来訪が唐突なのはいつものことなので、特に驚くこともなく招き入れた孫市だった。
だが、屋敷内へと案内しようとした彼女の手を掴んで鶴姫は開口一番に言った。

「家康さんが生きているかもしれません」

思いもしない衝撃的な言葉に、その場に居合わせた慶次も一緒になって場は騒然となった。当然だ、関ヶ原にて突如乱入してきた正体不明の軍の襲撃を受けた混戦の結果、何者かによって大谷と本多は討ち取られ、三成は重傷を負った。そうして家康は殺された揚句に遺体さえ持ち去られたというのが、彼らが目にした事実であったからだ。
元は東軍総大将だ。生きていれば何かしら消息も知れるだろう。しかし三河の残勢力や雑賀衆が手を尽くしても行方は杳として知れず、死んだと考える以外になかった。唯一の生存者である三成の言も同様だった。
丁度、その三成が暫く前に失踪した。時化で当初の予定より到着が遅れた元親が訪れた時には、既に身を寄せていた禅寺に三成の姿は無かったという。最後に目撃したのは寺の雲水で、彼曰はく三成はその直前に寺を訪れた客人が忘れ物をしたので、それを追いかけて出て行ったということだった。
すぐさま方々を探したのだが、忽然と姿を消したかのように行方はわからないままだ。雑賀衆の情報網や長曾我部軍の船などの機動力を駆使しても見つからず、未だに行方知れず。所縁の地所は勿論、広く東―――三河にまで手を尽くしたがなしのつぶて。
鶴姫が言うには元親から頼まれてご神託を幾度かやったという。

「全然だめだったんです、宵闇の羽の方の時よりも、もっともっとぼんやりして。黒い霧に捲かれたみたいに、全然見えないんです」

鶴姫の答えにさては伊予河野の隠し巫女の神通力でさえ見通せぬかと、西海の鬼は肩を落としたという。

「それが、昨日ちょっとだけ見えたんです!」

船を走らせばびゅーんと(本人曰く)飛んできた鶴姫は、出された茶を飲んで一息つく間も惜しいというように言った。元親から頼まれた後も、何度か三成の行方を占っていたらしい。

「ずっとずーっと黒い霧で見えなかったんですけど、それが昨日は急に霧が晴れるようになって、少しだけ見えたんです」

何処かの城郭らしき景色が見えたという。場所は大和の方角。
探していた三成の姿があった。それだけではなく、その傍らによく知った姿を見つけて鶴姫は驚きのあまり涙が零れたという。三成の側に居たのは、死んだと思われていたかの東軍総大将にして三河国主、徳川家康だったのだ。
不思議な目映い金の光のようなものが黒い霧を一瞬晴らしたらしい。すぐにかき消されて見えなくなってしまったけれど、間違いなく三成と家康の姿だった。城には瀟洒ながら荘厳な天守が見えた。季節外れの彩の罌粟畑、槐に枸杞、竜胆と鳥兜が咲き乱れる狂おしの城塞。
全ては一瞬のことで、再び黒い霧に閉ざされた視界にもう一度同じ光景を覗くことはできなかった。まるで何かの結界だった。

「急いで探しにいかなくちゃ!このままでは悪い予感がします」
「……畿内にそのような心当たりの場所はあるか?」

鶴姫の見たという予言の内容に孫市は眉をひそめた。
此処から場所はそうは遠くない。既に虱潰しにあたったつもりだったし、見落としとも思えない。
屋敷の広間に一瞬落ちた沈黙を破ったのは、孫市の傍らで胡坐をかいて険しい顔をしていた慶次の声だった。

「なあ、孫市」
「どうした」
「あんまりいい予想じゃないんだけど、むしろ外れた方がいいんだけどさあ」

珍しく歯切れの悪い様子でもごもごと口籠る男を横目で睨むと、肩の上で子猿が首を傾げた。

「……信貴山、ってことはないかなあ」

唐突に出された霊峰の名に、鶴姫がぱちくりと大きな目を瞬かせた。

「毘沙門の霊峰が?」
「ううん、寺じゃなくて、城の方」
「城……!」

夢吉と一緒に小首を傾げる鶴姫とは違い、その一言で孫市の顔色が変わった。
到底結びつかなかったため考えもしなかったが、信貴の山には梟雄と名高い男の城がある。一時はかの第六天魔王に叛き、御仏を銅の湯に変えたような化け物じみた男だったが、今は大和の小国でひっそりと隠棲しているとしか思っていなかった。
例えばそれが、一枚噛んでいたとしたら。

「三成だけだと繋がりなかったんだけどさ。もし本当に家康が生きてるなら、あいつ、家康とは織田に居た頃から面識があるだろ?」

思い出すのも憚られるというように、慶次はその名を口にした。

「姉様!」

切実な色の鶴姫の呼び掛けに孫市は膝の上に置いた拳を握った。

「すぐに発つ準備をしろ。斥候を河内から大和へ」

命を下す孫市の声音はいつになく硬かった。



「それに、我らも引っかかることがあったのだ」
「え、なんですか?姉様」

独りごちるように呟いた孫市に鶴姫はやはり小首を傾げた。木に背中を預けたまま少しだけ視線を寄越して孫市は少しだけ口角を上げる。

「他愛ないことだ。予感と言うべきか……夢枕に立ったのだ」
「夢ですか?」
「ああ、鈍色の毛並みに黄金の数珠が映えていた。角ぶりが見事な……」

そこまで言いかけて唐突に言葉が途切れる。
不思議に思って鶴姫は孫市を見上げた。呆然としたように瞠られた目の先を追って首を巡らせた鶴姫の視界に、動く影があった。
木立を縫って青白い月明かりが暗い茂みを照らしている。雑草が生い茂る斜面の向こう側、大きな岩が張り出したあたりに美しい角ぶりの牡鹿が一頭、じっと鶴姫たちの方を見下ろしていた。
月の光にしなやかで隆々とした体躯が照らされている。岩場の上にすくと首を延べた牡鹿は、はっきりと孫市達を見、それから身を翻した。
ひらりと岩の向こうに消えた獣の姿に、鶴姫が声を上げる。

「姉様!あれって!あれって!」
「行くぞ、姫。休憩は終わりだ」

低く響いた孫市の叱咤に慣れ雑賀の面々はすぐさま従った。迷いもなく岩場を乗り越えて孫市は鹿の後を追った。山林の難所を飛ぶように走る牡鹿の後を追うのは至難の技だったが、見失うことは無かった。
鹿は一定の距離を開けてまるで孫市達が追いつくのを待つかのように暗い木の下、岩場の上、せせらぎの傍で逐一脚を留めて佇んだ。月の光にきらきらと鹿の体を飾る黄金色の数珠が耀いている。
まるで神様の御使いですね、と鶴姫が少し上がった息の下で呟くのが聞こえた。鹿は山道を突っ切り、街道の方へと降りて行く。
脳内に呼び起した周辺の地形図と照らし合わせて孫市は眉をひそめる。信貴の山々からはやや進路が逸れる。しかもこの時刻、街道の関は開いていない筈だ。
後に続く雑賀衆に緊張が走る。草木を踏んで走る音に混じって聞こえた足音と気配に、孫市は腿に差した愛銃へ手を伸ばした。走らせた視線に牡鹿の姿が翻る。木の梢が割れて覗いた夜空を背に岩場に立つそれが、ぱっと身を返して視界から消える。
同時に岩場の影から人影が二つ、現れた。

「ね、姉様!」

鶴姫の緊迫した声に返す余裕が、珍しく孫市にはなかった。苔むした岩を足場に立つ二人の男の姿に息をのむ。
例え微かな月光のもとであったとしても、見間違う筈などなかった。

「雑賀、か?」

三成の問いかけに構えた銃を降ろして孫市は呟いた。

「石田と……徳川か」

問いかけに無言で頷く三成の横、黒い衣を纏った男は驚愕と懐かしさがないまぜになったような表情を浮かべていた。

「家康さん!」

感極まったように鶴姫の声が涙に滲んで掠れる。
彼女の声に家康はしっかりと頷いて、懐かしい声で答えた。

「ああ、久しぶりだな」





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20140325