第七幕 神葬ル者
月影を遮ったのは雲ではなかった。
黒い影が背中を覆っても、三成は微動だにしないままじっと畳の上を見つめていた。焼け焦げて千切れた深緋と藤黄の飾り帯は片方の端を柱の根元に巻き付けたまま、捉えた獲物の姿は無い。
白い肌の上を彩る爪痕に咬み痕、どれも鮮やかなまでに生々しいのに、それを刻んだ手指は此処にはやはり無かった。
赤い痕の残る剥き出しの背中は痩せぎすでありながら強靭な獣のようにも見えた。独りきりで畳の上に脚を投げ出して座る三成の後ろ姿を暫く眺めた後、徐に松永は脚を踏み出した。人ならざると雖もこの現世に存在する以上、影はある。黒く伸びた松永の影はするりと滑って畳の上に蟠った。
密やかな衣擦れの音を立てて松永は静かに身をかがめた。手の中の刀を一振り、畳の上に投げ出されたままの三成の左手の横にそっと置く。
竜胆と藤の色味の貴石が細やかに組み合わされた螺鈿と象嵌の鞘づくり。通常よりも長めの柄と二重鍔の業物。幾ら斬っても血脂に刃が捲れぬその鋭さは、持ち主の魂に似て美しいがどうしようもなく鋭すぎる、難物でもあった。
置かれた刀を一顧だにしないまま三成の薄い唇がゆっくりと動いた。
「今更、何をしに来た。梟」
「卿から預かっていたものを返しに来ただけだよ、凶王」
松永の声音は凪いだ海のようだったが、同時に底知れぬ深みを湛えている。含まれた本意など微塵も嗅ぎ取ることを許さない、虚ろな色ばかりだ。
「好きにするといい」
そう、松永は嘯いた。
「選ぶのは卿だ。私はただ草木に水を注ぐが如く、人の魂に与うるべきものを贈るのみ。結んだ実が愛でるに値すべきものであれば摘み取りもするが、他に手を入れるつもりはない」
だから卿が選びたまえ、とそう言って松永は静かに三成に背を向けた。
再び独り残された室内で三成は漸く身じろぎをした。
徐に伸ばされた手指に刀が触れる。久方ぶりに触れたその感触は、元から其処にあったもののように三成の左手に納まる。
「好きにするさ。最初から私はずっとそうしている」
もう、左手は震えてはいなかった。
眼下に木の梢がさざめいている。
夜風の声を聞きながら家康は深く呼吸をした。足元に硬い瓦の感触がある。四層櫓の天守からの景観は家康がこの城で気に入っている数少ないものの一つだった。
眼下に遠く見下ろす大和の地はまだ昏い。同様に夜明けは尚遠く日ノ本の国はまだ昏いままだ。冷たい風が頬をなぶり家康の長い黒衣の裾を棚引かせる。
軽く目を閉じると家康は静かに口を開いた。
「色々と積もる話はあるが、まずは感謝を。独眼竜」
眼差しを虚空に投げたままの囁きのようなそれは独白にも聞こえたが、果たして返事はあった。
夜風に紛れて低く唸り声のようなものが耳に届く。剣呑だがそれは竜が喉を鳴らす笑い声だった。組んでいた腕を解いて手元を見下ろす。夜目にもはっきりと蒼の燐光を零す指先に、鱗のような文様が浮かんでいた。
「感謝される覚えなんざねェなァ」
耳元に届く声は直接身体の奥から響くようでもある。
いつから彼が「此処」に居たのか家康自身は知らなかったが、また知らぬうちに支えられていたのだということだけはよくわかった。至らないなあと自嘲する。己はまたこの天を翔ける竜を、絆という綱で縛りつけてしまっていたのだろうか。
「なあ、独眼竜、ワシはお前をまた」
「Shut up。繰り返すんじゃねェぞ。謝罪は俺に対する侮辱だ、Okay?」
「しかし」
「くだらねえこと考えてる暇あんなら、テメエのこと考えろ。俺は俺のやりてえようにやってんだ、テメエほどお優しいわけじゃねえ」
勘違いすんな、と投げられた政宗の言葉は悉くを先回りして家康の言葉を断ち切った。小気味良すぎるほどの鋭さに、胸の苦しくなるような懐かしさを覚えて家康は暫時、息を詰めた。
どれもこれも捨てると決めたのに、断ち難いものがまだここにもある。切望だけがいや逸り、この世に対する未練ばかりが残ってしまって、家康はこのままで何処へ行けるというのだろうか。自分自身あまりにも身勝手だ。
「……ワシは優しくないよ、独眼竜」
「違いねェなァ」
ため息に似た吐息と一緒に政宗の声が応えた。今度は返事と言うよりは諦観に似た独白にも聞こえた。
「テメエは悍ましい程優しいくせに、残酷で冷徹だ。酷い男だぜ」
「ふふ、そうだなあ」
突き放すような口調でいながら、まるで乱暴に頭を撫でられる心地で家康はまた泣きたくなる。いつもの倣いでそれを隠すように眉を寄せて笑った。三成には何故笑うのだと詰られた。政宗には笑うのばっかり上手くなりやがってと呆れられた。捨て去ろうと思っていたのに蘇る記憶は懐かしく手放し難いものばかりで家康を苛む。自分はいつからここまで弱くなってしまったのだろうか。
封じ込めていた記憶が戻った今、家康は捨て去ったはずのものを思い出した。何をしていたのか、何をしなければならないのかを思い出した。
今度こそちゃんと、往かなければならない。
月光に翳した腕に掌に、順に視線を落としていく。火傷痕、刀傷、銃創。生涯消えることのないそれらの傷は家康にとって、人としての痛みであり苦しみであると同時にかけがえのない想いだった。捨てられぬと思っていたそれは、今こそ捨てなければならないものだ。
うっすらと光を放ちながら徐々に薄れて消えていこうとする傷跡を見つめながら、家康は願う。もう二度と繰り返さぬようにと。忘却の彼方に己の心を葬り去り、『己』と死別することが今の家康にとっての最後の仕事だ。
「ありがとう、これでお前ともお別れだな、独眼竜」
握った拳を額に押し付けて俯いた家康の耳に、政宗の低い囁きが聞こえた。
「その前にひとつくらい餞でも受け取っていけ」
ほんの少しだけ違う声色は、家康の良く知る政宗の癖だ。よからぬ悪巧みを考えて悪童のように唆す、楽しげに家康の耳朶を噛む竜の声。
「死出の旅路の餞にゃあ、ちいとばかし物騒だがな」
同時に背後でかたり、と瓦を踏む音がした。背後から吹きつけた覇気は氷雨のように不可視の痛みさえ伴って家康の膚を穿つ。
しまった、と思ったがもう遅い。政宗の笑む気配だけがして蒼い光が失せた。
何故、と思いながらも何処となく予感のあった展開に家康は唇を結んでゆっくり振り返った。夜闇にも紛れず黒曜を刷いたかのような黒瓦の上に危なげなく立つ、月色の男。桔梗と藤に染めた袴と白練りの着物の三成は左手に愛刀を携えていた。
翡翠色の眼差しを真っ向から受け止めて、家康は何度も気づかされる。心臓は震えているが心は驚くほど凪いでいる。恐れながらも家康はこうして三成と向き合うことを希っていたのだ。あの日途切れた関ヶ原の続きがあるのならば、信貴山城天守の屋根の上、今この場所でしかありえない。今度こそが一期一会だ。
「よく、ここがわかったな」
此処には旗印も率いる軍勢もいない。帰する国も守るべき民もいない。運命の軌道はねじ曲がり状況は変わり、無常だった。だが、家康と三成が居る。間違いなく此処が関ヶ原のあの続きなのだ。
家康の言葉に激することなく、三成はふんと鼻先で一蹴した。
「記憶を失くしている間に呆けたか、家康。竜の鱗光はきつくてかなわん」
視線でしらりと指された足元につられて目を落として、家康はやや瞠目した。裸足の足指にも手と同様に鱗のような文様が浮かび上がり、絡みつくように蒼い燐光が漂っている。足元から点々と糸を引くように虚空に漂う蒼の光は、三成に見えるということは人間の目にも見えるものなのだろう。独眼竜か、思わず呟いた脳裏によぎるのは先程の含み笑い。
「……独眼竜はいったいどちらの味方なんだ?」
思わず口を衝いて出た呟きはどちらかというと己自身の迂闊さに対するものだった。こんな単純なことに気づきもしなかったなどと、なるほど自分は思った以上に平常ではないらしい。
瓦を踏みしめて立つ三成は、そんな家康を笑いもせずにただじっと睨めつけている。低く唸るような声が噛み締めた牙の間から滴った。
「思い出したな。家康。この狸め」
「ワシを殺しに来たんだな、三成」
「易く死ねると思うか、愚か者が。貴様には本心からの釈明を要求する」
何よりも困難なことを要求されて、動揺に息を噛み殺す。その要求は何よりも家康がのめなかったものだ。信念のため大義のためには語るべき嘘と語ってはいけない真実がある。心のままに泣き笑い怒り、喜び悲しんではいけないことがある。本心を殺して微笑み、血と泥と汚名を被らなければならない。
だから、それはできないのだと、ずっと貫いてきたのに。三成の目はそれを許さないと告げていた。
「貴様は何を恐れる。何を望む。その心臓の裏、この私に隠し通したまま死ねると思うな、家康!」
吐き出された言葉は怨嗟に程近く、しかし違う音色で家康の胸をまっすぐに抉った。たった一突きで家康の心臓を貫く、真っ直ぐで迷いの無い刃。三成は変わらないと思う、家康が羨み焦がれて、そうして諦めて手放したものだ。最前までそう思っていたことを、しかし家康は今ここにきて撤回せざるを得なかった。
(三成は変わらない。けれど、変わっていたのか)
揺るぎなくひた向きな眼差しのまま、けれど今はもう彼は己と己以外の世界に目を向けている。そうしてその目が今や、晦まし続けることの敵わなくなった家康の本心を引きずり出そうとしていた。
「答えろ家康。私が欲するのは貴様のその誑かし続ける化けの皮の、その下にあるものだ!」
逃げを許さない気迫であった。盲信しひたすら貫き通すことしか知らなかった男が、初めて家康の深いところに斬り込んだその切っ先に、家康は畏怖さえも感じた。
「先程、閨で私に告げた言葉は嘘か?何故またも黙って独りで去ろうとする!」
「そ、れは、」
「今更目を背けてなんになる。貴様はそうやって私から逃げてばっかりだ!」
「……すまない」
「謝罪は肯定であり否定だ。貴様は後悔しているのか。私とともに歩み血を流し殺しあった今までの全てを、否定するのか」
三成の言葉に一瞬で家康の脳裏をあらゆる過去の光景がよぎった。否定するわけがない。全ては家康にとってもかけがえのないものだった。喜び悲しみ、懊悩の果てに切り捨てたものさえも全てが真実であった。
声が震えた。
「後悔など、していない。だからこそワシは恐ろしいのだ」
欲するままに手を伸ばし、己の我儘のままに傷つけあったことさえも悔いてはいない。それが恐ろしい。
「まだ、残っているのだ。全て棄てて殺してしまったはずなのに、ワシの心はまだ此処に残っている。それをお前が暴くんだ、三成」
大切だと思っていた三成を己の信念のために傷つけ、とうとう絶望しか与えることができなかったというのに。己の所為でこのような闇の淵まで突き落としてしまったというのに。あの時、三成を欲して手を伸ばし、そうして触れたことを家康は後悔していない。
それが恐ろしかった。
「ワシはこれ以上迷ってはいけない」
「だからまた独りで去るというのか!全てを棄てろと言うのか!それは否定だ。私に対する冒涜だ。そうだろう。私を否定する権利が貴様にあると思うのか」
「ち、がう!他に方法が無かったんだ!」
「それは答えにならない。言え、家康!もう一度嘘偽りなく私に、告げろ!」
追い詰められた獣の心地を家康は初めて味わった。
「……どちらも、大切だったんだ」
言ったとて詮無いこと。二つの道が交わらぬ以上、どちらも欲しいと子供の我儘は通らない。それを家康は知っていたから言わなかった。
この想いは地獄まで持って行くつもりだった。持って行くべきだったのだ。
「お前も、自分の信念もどちらも大切だったんだ。お前と共に歩んで傍で共に生きたかった。だが、駄目だった。秀吉殿の進む覇道と、ワシが願う泰平の世はどうしても違ったんだ。そしてワシは、自分の信念を棄てられなかった」
「……」
三成は何も言わずに家康を見ている。理屈などなく秀吉の進んだ道が正しいのだ、とは言わない。ただ黙って家康の言葉に耳を傾けている。そのことに家康は震えた。
もう、その双眸を偽れない。
「憎んだわけでも貶めたわけでもない。どちらの方が大切だなどと、比べられもしなかった。だから」
その結果、すべてがどうなるかを承知の上で、家康は秀吉に叛く道を選んだ。
家康と三成、どちらが正しいかなどという問いは無意味だ。真理は個にしか宿らない。義が数多あれば悪は数多ある。光と闇が裏表であるように、唯一たる真実は存在しない。梟の言は確かにある意味真実だったのだ。正しいこととそうでないことの区別は、一定の定義でしか図るほかない。否定すべきものはどこにもない。
ただ、不倶戴天のさだめだったのだ。互いの譲れぬ信念のために生きる以上、相容れることができなかった。同列に比するものではなかったけれど、前に進むには天秤にかけるしかなかった。それは理屈ではない。
だから、家康は天下と己の心を秤にかけて、天下を取った。
「許してくれとはいわない。ただ、ワシはお前のその穢れなき生き様が、羨ましかった。己を偽らず怯まず囚われぬ、お前がとても眩しくて美しいと、思っていた。だから…お前に触れたんだ。嘘じゃない」
どうしようもなく惹かれた。相容れることができないとわかっていながら、惹かれたのだ。だがその所為で家康は多くを傷つけ失った。
「わかっていたならば不必要に近づかなければよかった。避けるべきだった。なのにそれを我慢できずに、結局ワシはお前を傷つけた。最初から触れなければ、近づかなければよかった。互いに余計に傷つけあわずにすんだのに!」
血を吐くような思いで吐露したその言葉を聴いた瞬間、三成の眦が裂けた。翡翠に似た双眸が煌いて月光の所為で火がともるように見える。
怒気が夜の空気を震わせて家康の頬を裂いた。
「それは欺瞞だ!卑怯者の妄言だ!」
今更それを言うのは卑怯だ。それさえもわかっていながらなおも目を背けようとするそれこそが、家康という男の救い難い罪過だ。
最初から触れなければよかったなどと、そう言うそれが欺瞞だというのだ。だから、だから今の三成は家康を許せない。
「傷つけても傷つけられても触れたいと思ったなら、それは嘘ではない。なにを躊躇うのだ!」
三成にも今ならわかる、この憎悪の理由が。己の全てである秀吉を殺して絆を奪った家康を憎んだ。
けれど、それは全てではなかった。自分では自覚さえもしていなかった。愚直に突き進み、他を己を省みようとしなかった三成は気づかなかった。他には何も要らないと切り捨てることで、三成もまた無自覚に多くを傷つけた。そのことに気付きもしなかった。
知らなかったのだ。これほどまでに憎く許しがたかったのは愛しかったからだ。大切だったからだ。憎しみはそれ自体で愛じゃない。けれど愛は憎しみになりうる。だからこんなにもあらゆることで家康を許せない。裏切ったこと、大切な主君を奪ったこと、なにも言わずに去ったこと、孤高に肯んじ己自身を殺したこと、なにもかもが。
「私の知らなかったものも、貴様はすべてをわかっていたのだろうが!あらゆるものから目を逸らさずに一人で抱えて戦っていたのだろう!だったら私からも目を逸らすな!目を逸らさずに戦え!」
「みつ、……」
家康の抱えるものの全てを覗けるとはもう思えない。知っていると思っていて三成は家康のその心を殆どしらなかった。その逆も同様だ。家康は三成の本心を全て知っているわけではない。人の心はそういうものだ。肌を重ねて深く繋がって、どれだけ近づこうとも一つに慣れないのと同じで、互いは個でしかありえない。それでも、ただその片鱗でさえも、触れることができたなら、気付いてしまったのならば、三成はもう知らぬふりなど出来はしないのだ。知りたいという渇望は目の前の男の魂を欲することと同義だった。隠し通すというのなら暴き続ける他にない。
立場が、しがらみが、背負うものがなんだという。今となっては国も軍も民衆も己に繋がる全てが無に帰した。残っているのは己の心だけだ。三成と家康、互いが互いだけ。此処が関ヶ原の地の続きだ。
「私の目の前に居るのは陽の神でも東軍総大将でもない。思い上がるな、貴様はただの徳川家康だ!」
「み、つなり…」
頭を殴られたような衝撃に家康は三成を前にして、初めて立ち竦んだ。
白い拵えの柄に触れた三成の手が残像を残して刀を鞘から抜き放つ。掲げられた刃は月光を弾いて光の粉を三成の銀髪の上に振り撒いた。逆光の元に炯々と輝く翡翠の目を真っ直ぐに見つめながら、ただただ家康はうち震えた。
なんて一途で狂おしく、美しいのだろうと。
「貴様を殺すのは私だ。貴様の死は私のものだ。他の誰にも殺させない。貴様自身にもだ。返してやるものか!貴様を独りでなど、往かせはしない!」
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