第六幕 焔界
己は死んだはずだと、そう思いながら目を開き世界を認識することは酷く不思議な感覚だった。
見たことのない座敷の、柔らかな寝具から身を起こして家康はそう思った。柔らかい陽光が降ろされた御簾を透かして室内へ射し込んでいる。膏薬の匂いが強い部屋の中は広く閑散としていたが、随分上質な屋敷のようだった。柱の趣から梁の様子までどこもが、洗練されていながら堅牢で建築技術の高さが窺える。
目を覚ました時に傍らに居た小姓らしき青年は、家康の様子を見ると慌てたように立ち上がり、御簾をくぐって出て行ってしまった。
此処はあの世かとも思ったが己が行くなら地獄だろうし、此処は到底そうは見えない。それ以前に身体のあちこちを這い回る鈍痛や疼痛が神経を苛んで、これが現実だと突き付けてくるばかりだった。
目を閉じれば最後に見た光景が生々しく瞼の裏に蘇る。正体不明の軍が戦場に乱入したという報せを受けた時は、もう手遅れだったのだろうと今ならわかる。
撤退の伝令を出す暇もなかった。三成の兇刃を受け止めることで精一杯だった。己はあの時でさえ至らぬのか足りぬのかと、家康は思い出して唇を噛みしめる。
松永の左手の逆爪が喉に食い込む痛みと、耳鳴りのような激痛、酷く濃く匂う硝煙の香り。
男の黒い焔のような眼差しに、冷水を浴びせられたように凍った思考で悟らずにはいられなかった。この男は家康がひた隠しに抱え続けてきたものを、何一つ余すことなく見抜いている。
「卿からは孤高を貰おう」
三成の叫びが聞こえたが、朦朧とする家康の耳には何を言っているのかは聞き取れなかった。松永が何かを言っていた。
もしも、志半ばに斃れるとしたら家康はきっと三成に殺されなければならなかった。大丈夫だろうか、と三成のことを思った。あの純粋すぎる狂気の光は、それを裏切ったこの身の血をもって鎮められなければ、闇に惑い続けてしまわないだろうか。
他にも考えることがあったように思う。ひたすら傍にいてくれた忠勝、唯一無二の憧憬を抱く盟友、独眼竜。言葉もなく遠く袂を分かってしまった元親、契約の名のもとに支えてくれた雑賀。何よりも己についてきてくれた数多の兵士、民草たち。この手で敢えて傷つけざるを得なかった者たち。家康は傷だらけの両手で多くの物を抱えてきた。けれど、最期の刹那に思うことがあの月色の光のことなのだと気付いてしまうと、家康は呼吸ができなくなる。己はまだ、ほんとうに、至らないままだ。
三成の絶叫がやけに遠くに聞こえる。松永の笑みが深くなる。家康は目を閉じた。開いた口から声はもう出ない。
灼熱が喉を焼いたと思った時には白い熱波が世界を焼いていた。
「気分はどうかね」
低く響く、甘やかな声音だった。
いつの間にか戻ってきていた小姓が御簾を半ばまで巻き上げる。光と共に視界に押し入ったのは黒い格子の影だった。籠か檻のように幾何学の黒い格子が御簾の向こうにある。其処に設えた扉が開いて、男が一人入ってきた。仄かに香る焔の匂いは実際のものか、或いは家康の記憶が呼び起こす幻だろうか。
けれど、室内に入ってきた男は幻影ではなく現実だった。
「ごきげんよう、東照」
「松永、久秀……」
黒い衣を纏った長身の男は神にも鬼にも見えた。一瞬、言葉を失った家康を鑑賞するようにねっとりと視線で舐めた後、徐に近寄ると松永は家康の座る寝具の傍らに膝をついた。顔が近づき視線が交わる。
「……ワシはなぜ、生きている?」
「正確には、再誕したと言うべきかな」
ふむ、と検分するように松永は家康の身体を眺め回した。差し伸べられた掌が頬に触れても動けなかったのは、家康の思考回路が事象の処理に追いついていなかったからだ。松永は家康の纏う白い単衣の袷を寛げて、包帯の巻かれた喉から胸、腹までを丹念に見る。
薬の匂いがきつく香る身体は、上半身を中心に包帯で覆われていて素肌がほとんど覗けない。
「卿は私の炎をもって人の身体を脱ぎ捨てた」
「なにを、ばかな」
「そんな顔をしないでくれたまえ。私の炎は引鉄に過ぎない」
しなやかで妖しい指先が、ぺたりと降りて額にかかる黒髪を掻き上げて家康の目元に触れる。
「業の全てを飲み込みながら尚も狂わず惑わずに耀き続けた卿の、その魂の成した結果だ」
満足げな松永の声音は恐ろしいほど優しく家康の心を抉った。
「東照大権現、東から国を照らすもの。卿は名のとおり、光となった」
「はは、…馬鹿なことを……」
神になりたかったわけではない。ただ皆が笑って暮らせる世を創れるならばなにになろうとも構わないと思っただけだ。遍くに光降り注ぐなら、己自身は鬼にも修羅にも。
ただ、それでも人としての心だけは失うまいと思っていた。所業の全てが夜叉だ修羅だと烙印を押されようとも、己の抱く心だけは人でありたいと思っていた。それが例えただ一人で致死の痛みを抱えることとなろうとも。
愕然として見下ろした手には数多の傷が刻まれている。その手を松永の手が取った。
「表層の傷は人であったことの名残だ。もはや卿の身体は滅ばず魂は果てることもないのだよ」
「……ま、つながどの…。貴方、も……」
至極当然のように諭す松永の、触れる掌の感触に家康は戦慄を覚えた。
言葉にし難い感覚で流れ交わる氣が、同じだった。以前にははっきりと感じたことはなかった他者の魂の気配が、明瞭に第七の感覚を刺激する。松永の黒々とした闇色の氣が、己の金色のそれと同じなのだと認識した。
これは人間にはない感覚だった。世界が今までと同じようでいてまるで違うように見える。
踏み越えてはいけない境界を踏み越えたのだと、否応にも家康は理解した。そして松永と同様、自分ももはや後戻りなど出来ないのだ。
「ワシはもう、戻れないのか」
「以前のようにはいかないだろうな。『我ら』は」
老いず朽ちず死なずでは、人間と同じ時を紡ぎ、絆を繋ぐことなど出来ない。民草を加護する力を手にしても、人智を超える力は近づきすぎて人の世への干渉に過ぎると逆に世の均衡を崩す。それ故に気の遠くなる時間を閲する者は、着かず離れずして人の世を垣間見るのみ。
だとしたら家康は何のために此処にまだ在るというのだろうか。泰平の世をと掲げた理想を何一つ成し遂げることもできないまま、数多の骸だけを積み上げて、己は結局、中空に吊り下げられて眺めているだけなのか。
「……松永殿、あなたはワシに何を望んでいるんだ」
人の心を剥いで蒐集物のように魂を愉しんでいる、妖人の目に映るものがなんであるか。瞬時には理解できなくとも、以前よりは幾分か明瞭なる闇として家康は感じた。徒に乱世を掻き乱し、人心を弄ぶ松永の欲するところは何なのだろうか。
無聊を慰め唄を聞かせろと、言葉遊びのように家康に求めた彼の言では既にその欲するところは手に入れた筈である―――あの関ヶ原の地で。
この期に及んで家康に干渉する松永の、求めるものは何か。
真っ直ぐに見返す黄金色に瞬く双眸の、目眩む強さに松永が愉しげに目を細めた。人として見事な旋律を紡いだ男の魂は、見たこともない稀な色で松永のすぐ傍まで堕ちてきたのだ。
「そうだな……折角の宝を可惜逃してしまうのは本意ではないのでね」
少し考えるようにして顎を撫でながら松永は探るように家康を見た。心臓に宿るその心を映す燃える金の目は、曇りなく人であった時分と変わりない。籠の中にこめられた陽光は、明暗共に抱えたまま彼の中にある。
「卿が私のものとなるのならば、幾千の暗く侘しい夜明けの晩も心穏やかに越えることができよう」
人でありたいと願い乍ら神と成った。戦乱を終わらせ泰平の世を築くために戦を起こした。多くの者を救うために多くの者を殺した。善悪ではない。其処にある大義名分も欺瞞も偽善も、生まれ溢れた痛苦も憎悪も悲嘆もなにもかも。己の所業の生み出す矛盾を目を逸らすことなく受け入れ、その業に引き裂かれるままに至った。
終わらない悲鳴のようなその至極の旋律は、再誕によって新たな唄を紡ぐだろう。それをゆっくりと愛でられるのならば、悪くない。
平蜘蛛の後継に東照を所有せん、とそう松永は呟いた。
「……それにワシが従う理由がない」
「では逆に聞こうか、東照。卿の欲するものはなにかね」
「それは……同じだ。変わっていない。いつだって……泰平の世を…」
言葉にすると心臓で火が強く燃えた。もう、今までのように人の世に戻れないとなれば、今の家康はどうすべきなのだろうか。人でありたいと、願う心は未だに家康の深くにあると同時に、半ばで斃れた志はまだ燻り続けている。松永が掻き乱し混沌へと返した人の世は安寧とは程遠い。今の自分になにがあるのだ。なにができるというのだろうか。
押し黙った家康の顔を覗き込んだ松永は、揶揄するように低く微笑った。
「酷い顔をしているなあ。私を責めていると同時に卿自身をも責めている目だ。傲慢、傲慢」
「……松永殿、貴方は徒に人の世を蹂躙しすぎただろう?」
「そうかね?私は私の空虚を埋めるものを求めて、人界を少しばかり探ってみたに過ぎない」
「馬鹿な!そんな言葉で……!」
「それでは、卿がそれを今度こそ止めてみたまえ」
静かだったがぴしゃりと響いた松永の言葉に塞がりきらぬ傷を抉られて家康は息を呑んだ。
「卿が私の空虚を慰めてくれるのならば、私は人界に用は無い」
ぎ、と少しだけ首を動かして家康は松永を見た。相変わらず暗い、昏い火のような目だった。悍ましいほどの彼の力を家康は目の当たりにしている。それが人ならざるものの力の片鱗だということも知ってしまった。
未だ日ノ本の国は暗雲垂れ込めたままだ。国を導く力を持つ者は松永が悉くを鏖殺し、息も絶え絶えだった。深い傷を癒し次の世を導く者が現れるまで、少しでも時間が要る。
「信用に足る言葉だとは思えないな。松永殿の言葉は恐ろしい」
「成程、私は本当のことを言うとは限らない。しかし嘘しか言わないわけではないよ」
天下を賭けて梟の贄となれ。まるで暇潰しの遊戯を仕掛けるように松永は家康の耳に囁いた。
「それを真実にするかどうかは卿次第だ」
「……受けて立とう、松永久秀」
沈黙の末、家康は静かに頷いた。
決断すべきことは自ずと知れた。一か八か、伸るか反るか。言葉を疑って何もしないよりかはよほどいい。
この男は、恐らく言葉通りにはすまい。手に入れたとしても、いずれ家康の魂を甚振り悲鳴を愛でるために人の世の平穏を踏み躙るかもしれない。神の魂と人間の心、相容れず共存しない矛盾する二つを備えた家康が、その業に苛まれて上げる悲鳴。それを聞きたいと願い、叶えるならばそれが一番の手段だと既に知り尽くしているからだ。だとしたらその時に抗う手段は一つしかない。家康はもう一度、己の心の揺るがぬように全てを断ち切っておけばいい。松永は聡いから無益な手段だと気付けば見向きもしなくなるだろう。少なくとも家康自身の魂に気を取られている間くらいは。
己の魂にどれだけの価値があるとも思えないが、それを松永が欲しいと言うならくれてやろう。家康の魂を嬲ることだけを愉しみとしている間、飽きぬうちは暫く人界から目を離しているだろうから。時間くらいは稼げるはずだ。
まだ己にできることがあるのならば、今度こそ家康はこの男に勝たねばならない。至らぬままに過ちを繰り返して抱えてきた多くのものを失うわけにはいかない。
だから未練と迷いを振り切って、捨てたつもりでも完全に捨てきれなかったものを、捨て去らねばならない。
今度こそ家康は人の心ごと、自分の中に残る『徳川家康』という個を殺すことにしたのだ。
忘却は逃げではない。それは手段の一つだ。家康の場合はそれが松永との賭けへの手段だった。自分の中に残っていた人としての心を殺すために、忘却という方法で『徳川家康』に繋がる全ての絆を断ち切ることにした。他のあらゆる絆を護るために。
政宗の言葉に返した三成の声は震えていた。
「……家康は、どうした。今、何処に居る」
「アンタ、家康の身体の傷に気付いたか?」
羽織っている黒衣の前を片手で掴みながら「政宗」は身体に残る生々しい火傷の痕に触れた。表層の―――肉体の傷は人の心の名残であり、肉体に刻まれた形ある記憶だ。
「これはまだ家康が自分自身の心を殺し切れてねェ証拠だ。完全に忘れ去って人であった時の自分を殺しちまって、『徳川家康』が消えたら、この傷跡も全部消えちまう」
この城に来てからだいぶ減ったが、それでもまだあちこち残っている、とまるで慈しむようにして無惨な傷跡に触れる。三成の目は月明かりの中で生々しく陰影を描くその痕を、じっと見ていた。三成が付けた傷もあった。政宗が付けたものも、松永のものも、まだ其処にある。其処にあるのだ。消えてなどいない。
「貴様が繋ぎとめているものは、それか」
「That's right」
苦々しくもすがしいほどきっぱりと政宗は笑って答えた。傷は癒えるべきだ。けれど痛みを忘れるべきではないというのも事実だ。痛みを伴っても抱えていたいものがある。大切なものがある。政宗にも、家康にもだ。そしてそれは三成にもあった。
「家康は人でありたいと願っていた」
悲願の為に自分自身という「個」を殺しても、人の心を捨てることなく、その痛みや苦しみから目を逸らすことを是としなかった。弱さを知り痛みを知り傷を抱えたまま、独りで往くことを是とした。それが家康という男の強さでありかなしさだ。
「だから俺はもう、こいつに自分を殺させやしねえ」
松永の兇刃に斃れた時、何の因果か政宗の魂は消え失せることなく竜と化して空を奔った。
人ならざる身は拠り所となる肉体さえも自由自在だった。これ幸いと漸く見つけた家康の身体に飛び込んで、政宗は忘却の淵に身を投げようとする家康の腕を掴んだ。
我ながら心残りが女々しいと思いながらも、必死で舞い戻ってきたのは間違いではなかった。
政宗が目を離すと家康はいつもこうだ。胸の底では恐ろしい怖いと言いながらも、すがしい顔で己に対する未練など艶やかなまでに切り捨てる、救いようのない男のままだ。ばかめが。たった一言、本音の一つでも吐いてくれれば、政宗はもっと幾らでも踏み込んで手を差し伸べられたのに。今となっては遅いか―――いや、遅くなどない。
この薄情者め、行かせてやらねえぞと嘯いて政宗は家康の手をしかと握った。偽善でも憐憫でもない。これはきっと、昔日の悔いを拭い去るための政宗自身の願望だ。死ねば土に還り無に帰すと思っていた己が、形を変えてもまだ天駆けることが叶うのならば、望むままに戦う。それを誰に憚るというのか。
招かれざる竜の闖入に当然ながら松永は気づいた。霊峰の結界は松永の意そのもので、政宗を抑圧し排除しようとする。家康の深層で彼を繋ぎとめたまま耐え忍び、眷属である三日月の力を借りて漸く、結界を破るのがやっとだった。
松永の結界に阻まれながらも家康の身体に宿った独眼の竜は只管、夢を介して叫び家康の名を呼んだ。
人知れず多くを殺し多くを捨ててきた家康に、もう何も捨てさせないと決めたのだ。
本音を偽り自分のために生きようとしなかった男に対するもどかしさと苛立ちと願いをもって、政宗は家康の魂に爪を立てこの場に繋ぎとめている。痛みと共にそれでも家康自身が手放しきれずに刻んできたあらゆるものを、忘れさせてなるものか、捨てさせてなるものかと。
家康に自ら意思がなく、今の政宗の力では無理矢理でも家康を此処から連れ出せない。そして忘却は家康自身の望みだった。それらを阻止するためには家康を知る者の外部からの接触は重要になる。
家康自身が最も大切にしていた「絆」。それは家康自身を世界と結びつけるものでもある。人の世との繋がりは強い刺激になり記憶を呼び戻す引鉄になる。松永が狙っているのはそれなのだろう。だから今になってかの男は三成をこの山城に招いた。
よりによって家康を殺さんとする三成を引鉄に選んだ松永の行動は、政宗の想定外だった。ある意味血よりも濃い二人の繋がりは、家康を引き戻すことができるかもしれない。けれど、思い出したが最後、三成は家康を殺すだろうし、今の家康はそれを受け入れるかもしれない。政宗はもう、それをみすみす見逃したりはできない。
「それが、よりによってテメエが来るとはな」
「……煩い。貴様の都合など、知ったことか!」
鋭い拒絶の声が頬を撃つと同時に、三成の手が家康の襟首を掴んだ。この細い腕のどこにこんな力があったのかというような膂力で、引き摺り寄せられて間合いが詰まる。鼻先が触れ合うばかりの距離で、凄絶な殺気を燃やす凶星のような眼が青と金の両目を覗き込んだ。
「おい家康!」
真っ向から注がれる三成の翡翠に似た目はもう政宗を見てはいない。竜鱗の青を透かして深くで眠る金気を見ている。
不遜なまでに真っ直ぐで歪なほどに一途だと政宗は暫時、その目に見入った。太陽の光に盲となろうと、三成の目はただ家康を見ている。追い続けている。
胸の深くで家康が微笑ったようだった。
「貴様はまた!私の前から黙って去るのか!竜の陰に隠れていないで姿を現せ!この卑怯者がっ!」
ぎりぎりと衣の襟首を締め上げて叫ぶ三成の咆哮に政宗は蒼の左目をきうう、と細めた。
家康の深く、胸の底がざわめいている。静まり返った水面に小さな石を投じたように、微かな波紋が広がるようだった。まるで、呼び合うようだ。
(聞こえてんのか、家康?)
或いは、この男なら届くのだろうかと思う。凄惨なる憎悪をもって家康の心に深い疵を残したこの男ならば、或いは。
松永が三成を選んだ理由の一端を垣間見た気がして政宗は息を呑んだ。家康の魂を嬲っては愛でる松永はこれを望んでいるのだ。この月光に射抜かれて「東照」はなによりも美しい唄を紡ぐ。
じっと覗き込んだ双眸は、昔日のように眩んではいないと、そう信じられる気がした。
「いいぜ、石田三成、てめえにできるならやってみろ。家康を連れ戻せ」
息巻く三成の着物の襟を掴み返して政宗は凄艶に微笑った。瞳孔が縦に開いた左目が試すように三成を映す。
「もしも出来なきゃあその時は俺がてめえを殺す」
「ぐ、」
「覚悟しとけ」
脅しとは思えない殺意さえ籠った声音を最後に、まるで絡繰り人形の糸が切れたように家康の両の瞼が落ちた。
三成の着物を握っていた手指が解ける。一瞬で力を失って物のように崩れ落ちた家康の身体が、玉砂利の上に頽れる。
気を失っている家康を見下ろしたまま三成は微動だに出来なかった。政宗の言葉がぐるぐると頭の中を回って鐘のように響き、心臓が悍馬のようにいや早く猛っている。
あの竜の言うことが本当ならば、と三成は恐ろしいことを反芻した。家康はまた繰り返すのか。何も言わず一度も振り返らず誰に理解を求めることもなく、ただ独りで往くつもりなのか。忘却の彼方へと。
(貴様は、また)
目の眩むような断崖の端に立つ男の姿が見えた気がして、三成は震える左手を握りしめた。
絆という言葉で、人の心を束ねて結わえて、そうして繋げて。泰平の世を創るといっていた。けれどその実、結わえようとする人々の中に、家康自身は入ってなどいないのだ。泰平の世で笑っている人々の中に家康自身は含まれていない。何故なら己の所業の矛盾を知るゆえに、家康はそれらの絆を繋ぐために己の心を密かに殺す、そういう男だったからだ。
だから、あの男は嘘偽りで塗りたくって笑顔で三成を裏切ってみせた。太陽のような笑顔を見るたびに虫唾が走るのはそれだ。偽られひた隠しにされていたのは彼の本音だった。
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