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辿りついた寝所は御簾が完全に上げられていて、戸が開け放たれていた。燭台も灯っていない室内の、畳の上に薄く月の光が零れている。恐らく庭に面している側の障子が開いているのだろう。光は其方からだった。
遠慮もなく三成は部屋に入った。床も延べられていない畳の上を斜に突っ切り、庭に面した側の濡れ縁へと向かう。
果たしてそこに松永は座っていた。光を飲み込むような漆黒の着物の背中に、衝動を堪えないのであれば三成は今すぐにでも刀で斬り付けたい。禍々しく見えながら妙に空虚で―――家康と酷く似ているような気もして余計に苛立ちが増す。
背を向けて濡れ縁に腰を下ろす男の、丁度腿のあたりから、横たわる身体が見えた。仏典に描かれる車輪と焔の模様が染められている黒い衣と袴の裾。締まった腰に絡みつく飾り帯は深緋と藤黄だった。裾から覗く筋の強く浮いた裸足の爪が緋色と黒に染めてある。薄明るい月光の中でその足が泥のような何かで汚れているのがわかった。泥ではない、あれは、絵具と墨だ。

「卿は」

徐に松永が言葉を発した。相変わらず背を向けたまま振り返りもしない。宵口の涼やかな風が肌をなで、さわさわと庭の槐の梢を揺らす音が耳に届く。低く張りのある松永の声は静かだが風の音に紛れることなく三成の耳に届いた。

「東の離れでなにか見たかね」

見た、といえば見たと言えるのかもしれない。しかし三成は実際に何をか見たわけではない。

「松永、貴様は家康に一体何をした?」
「再三言っているではないか。私は何もしていない」

白々しい答えだと思った。
松永の手が家康の黒髪を撫でた。値千金の茶器を撫でるような指だ。家康は松永の腿に頭を乗せて横たわったまま動かない。双眸は固く閉じられ眠っているようだった。緩やかな寝息に肩が揺れている。ほんの微かに香る薫物に気が付いて三成は視線を険しくした。此処は外のため冷涼な大気に紛れてほんの微かだが。闇に沈みはじめる濡れ縁、松永の傍らに小さな翡翠色の香炉が細く煙を上げている。砧青磁の至高の艶が夜目にとろりと溶けている。

「無体は止めてくれたまえ」

直感と衝動に任せて蹴っ飛ばそうと震えた三成の右脚に気付いたかのような、絶妙なタイミングで松永が口を挟んだ。

「安心したまえ、毒でも薬でもない。ただの結界だ」

相変わらず家康の髪をゆっくりと撫でながら松永は庭先に視線をやったまま、時期が悪かったと独りごちるように続ける。

「離れで暴れたと聞くから恐らく墨客が刺激したのだろう。無意味なことだが、この時期にこうなると一度鎮めなければ周囲が怖がってしまうのでね」

三成は知らぬが、第六天魔王が乱世に名を興す頃から、信貴の霊峰のこの主は専ら人智を超えた呪法を能くするとは人口に膾炙するところだ。だがなにを鎮めているというのか松永の口ぶりでは一向に不明瞭だ。家康か。それとも離れで「見た」と思しきなにかか。明度を落としていく空に反して光を強めてゆく月を見上げたまま、松永はため息のように吐いた。

「それに凶王が蹴飛ばさずとも、もう間もなく破られて消えてしまう」

梟の啼く声を合図としたかのように煌、と月が光を増した。見事な三日月だ。斬りつけるような光にそれまで静かに眠っていた家康の爪先がぴくりと動いた。頬を撫でて喉の火傷痕をなぞっていた松永の手がふと止まる。静かに漂っていた空気がぴしと止まった、気がした。
同時に家康の双眸が開いた。寝起きに睫を震わせて瞬くという様子ではなく、唐突にかっと見開かれた。その目を覗き込んだ松永が、酷く芝居がかった口調で恭しく聞いた。

「おや、お目覚めかね」

次の瞬間の情景は三成の目に異様に焼き付いた。家康の身体が発条仕掛けのように急激な勢いで跳ねて宙を飛び退った。半身を下に寝転んでいた姿勢から獣のように飛んで両脚で着地する。ばあんと何かが炸裂するような音が夜の忍び寄る庭に響いて、それが男の脚が床板を踏みつけた音だと悟った。
家康の豹変に松永は驚きもしなかった。少しだけ煩わしそうに吐息をつく。

「無粋無粋。まったくいつまで経とうとも趣を解さない輩だな、「卿」は」

揶揄さえ含んだ軽蔑の声音に家康は無言のままだった。射抜かんばかりに眼球をぎょろりと動かして松永を見、それからひらりと身を翻してあっというまに廊下を走り去った。三成の方には一瞥さえくれなかった。

(なんだ、あれは)

激しい違和感に襲われて立ち竦んだ三成に松永が挑発するように声を掛ける。

「追わなくていいのかね。奪われることに慣れた身なれば、それもまたよいが」
「っ!」

嗾けるような言いざまをわかっていて敢えて三成は走り出した。松永の言いなりになるのは癪だったが、あれを放っておくわけにはいかないという直感が胸を襲った。松永を問い詰めるのは後でも充分事足りる。
月光が散乱する庭伝い廊下を走り開いた扉を抜けて砂利が敷かれた庭園へ降る。青々と茂る桔梗菖蒲の茂みを抜けて月明かりに耀く竜胆と鳥兜の群れを右手に過ぎる。血のような実をつけるクコの木、夾竹桃。この山城の庭木は煩雑で統一性が無いように見えて全てに一元の意味がある。全ては毒であり薬となるものばかりだった。
垣根に阻まれた隠し小路を抜ければ別棟の屋敷へ近づく近道だった。一か八かで三成は垣根を飛び越えた。追跡の経路を脇に逸れ槐の木の下をくぐると庭石を足場に跳躍した。まともに走っても追いつくのは難しい。白壁の塀をひらりと越えて苔生した銅と鉛の庭石を伝い走り、渡り廊下の欄干に飛び乗った。同時に反対側から影が跋扈した。青白い光に漆黒の衣の裾が棚引くさまは虎にも竜にも似て視界を脅かすが、怯んで視線を逸らせば一瞬で手の届かない場所まで駆けて行ってしまう。

「家康!」

往く手を遮るように飛び出した三成の姿に家康はとんぼを切って頭上を飛び越えた。回廊を数歩で制して青白く月光滴る庭先に躍り出た影が、そこで止まる。ざあ、と風が吹いて家康の軽く逆立てた髪先と黒衣を揺らす。

「こんなところまでなにしに来たんだぁ、アンタ」

空の低いところに耀く下弦の月が男の頭上に戴かれている。その身体は間違いなく家康だったが、投げられた声音は違った。激しい違和感を覚えて三成は立ち止まった。
ゆっくりと家康が振り向く。月の光の間に黒衣がはためいて墨絵の竜のように視界を脅かした。

「貴様は……」

振り向いた家康の左目が瑠璃に似た色に煌めくのを見る。右目は相変わらず蜜を溶かした太陽のような金色で三成を見返した。左右色の違った目をそれぞれに瞬いて家康はにいいと唇を吊り上げた。牙を剥きだすようにして、唇が綺麗に月と同じ形を描く。
「家康」はこんな笑い方をしない。

「ひでえツラしてんなあ凶王サマ。まだコイツの首が欲しいと思ってんのか」
「き、さま……誰だ、…家康は、っ」
「Slow down baby!相変わらず頭に血が上りすぎだ」

異国の言葉が混じる低く痺れるような声音は三成にとって忌まわしいものだったはずだ。呵々と笑う様子は怜悧なのに眩いような気迫があった。不遜なまでの覇気には独特の気品さえある。それでも三成は最初それを気にかけたことはなかった。だが今はその気配に酷く覚えがある。記憶の中で蒼い稲妻となって黒い影を焼きつけている。それはいつの間にか家康のすぐ傍らに居たものだ。燦然と輝く忌々しいほどの金気を、支え並び立ち護るように中天を斜に裂く―――竜の爪。
死んだはずだ。独眼の竜は松永の手によって甲斐の若武者諸共に殺されたはずだ。死体も検められ奥州と甲斐は未だに混乱の中にある。
それが、何故それが「此処」に「居る」のだ。

「伊達、伊達政宗……!貴様、何故ここに居る!?」
「俺は俺の目的の為に此処に居るだけだ。アンタは違うのか?」

瑠璃の蒼穹色に染まった左目だけが二度、瞬きをしてきうう、と瞼が吊り上る。左右の目の動きが連動しない様は異様な光景で、この状態が演技でもなんでもないと物語っている。物の怪のようだ。
逆に糾弾されて三成は一瞬、言葉に詰まった。

「私は……」
「なんであろうと構わねェが、アンタが俺の妨げになるんなら潰すだけだ」

家康の身体で軽く肩を竦めて政宗は右手を真っ直ぐ翳した。空手でありながらそこにはあの竜の爪が見えるようだった。生前となにも変わりのない、迷いのない眼差しが憎いほど強く三成を見通す。隻眼であろうと、死してもなお、この竜は闇に惑わず迷いなく斬り進むことができるというのだろうか。三成はこれほどまでに迷ってばかりだというのに。

「Are you ready?」
「亡霊め……!」

狂おしく吼えた刹那、家康の姿をした政宗がべろりと唇を舐めた。地面を蹴った音は確かにしたけれど三成の聴覚がそれを音として識別するより先に空気が鋭く擦れる衝撃があった。咄嗟に首を傾けた三成の頬を政宗の拳が掠める。行き合って身を捻り、伸ばして腕で首を狙う。腕と腕がぶつかって動きが止まった瞬間に、撓った政宗の右脚が脇腹を狙ってきた。

「っ、!」

掠っただけで衝撃が骨に響くような蹴りだった。威力を殺すために退がれるぎりぎりまで足を下げ、軸足を入れ替えて重心を滑らせ、三成は腰を低く落とす。絡み合った腕が離れるタイミングで手首を返して脇腹を拳で撃った。

「はっ!」

掴んだ腕を捻って投げ落とす。宙を浮いた政宗の身体はしかし虚空で見事な動きを見せて一瞬で体勢を戻した。着地の位置を狙って三成は走る。上段からの蹴り下ろしの脚を右腕で叩いて飛び込むように肩で鳩尾を狙った。同時に政宗は接触点から刹那の早業で両脚で三成の腕を絡め取った。突然のことに二人分の体重が重なり合い、重力が解けて三成と政宗は絡まり合うようにして空中を転がり地面に墜落する。衝撃に気を取られて動けないようなやわさは二人とも持ち合わせてはいない。地面と接触した瞬間に互いの身体を振り解き受け身を取って飛び起きる。
視界に捉えた互いの距離は間合いを丁度一歩外れた位置だった。
頬についた土を手の甲で拭って「政宗」はにやりと兇悪に唇を割ってみせた。

「向こう見ずは構わねェが、俺の邪魔にならねえところでやってくれよ」
「貴様は関係なくとも私にはあるのだ。家康を返せ!」
「話が噛みあわねえなあ、相変わらず。家康は俺のモンでもアンタのモンでもねえ」
「詭弁は必要ない。それは家康の身体だ!あの男の記憶を奪ったのは貴様か!独眼竜!」

三成の言葉に政宗は呆れたように肩を竦めた。

「勘違いしてんじゃねえ。逆だ」
「どういう意味だ。現に今、貴様は家康の意思を奪っているだろう!」
「違ェよ、早まるんじゃねえっつってんだろ。OK?」
「では何故、貴様が家康に憑いている?!」

今になって三成は墨客の離れの惨状を理解した。床の上をのたくった痕の正体はこの竜だ。松永が鎮めていたのは家康に憑いているこの竜のことだ。墨客があれほど取り乱していたのは、家康に憑く独眼竜が離れで姿を現したからなのだろう。憎しみさえ籠った眼差しは月光よりも鋭く相手を貫いたが、政宗は動じた様子をみせなかった。

「俺が此処で繋ぎ止めてねえと、勝手にdeleteが進んじまうからだ」
「なに?」
「記憶が消失する理由は家康自身にある。直接的な意味で言やあ松永の所為でもねえ」

むしろ、あの梟のオッサンは記憶の消失を阻害してえと思ってやがる。そう言って皮肉げに笑う政宗の顔には憎しみにも自嘲にも似た奇妙な色が浮かんだ。
次々と投げつけられる情報に三成は混乱する。政宗の言葉をそのまま信じてもよいのだろうか。やはり家康は自ら過去の記憶を葬っていたのか。だとしたらそれは三成を含め今までのあの所業の数々を否定するという、そういうつもりだろうか。再び憎悪が胸の底から噴き出しそうになった時、三成は己に注がれる視線に気付いた。瞬きをすれば赤くなった視界に月光の色が射しこんでくる。正面に立つ「家康」の青と金の双眸がじっと三成を見ていた。
見極める必要があるのだと、三成は悟る。怒りと衝動に駆り立てられて走り通すことは易い。けれどそれではもう触れられないものがあると、己は此処で気付いたのではなかったのか。

「……伊達政宗、貴様はどこまでを知っている」

喘鳴のように三成の唇から絞り出された声に「政宗」はひくりと目元を動かすと、徐に口を開いた。

「アンタに聞く気があんなら言ってやろう」





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20140223