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座敷牢は何時訪れても空のままだった。
膳を運ぶのは小姓か下女で、あれ以来家康は現れなかった。癒えた肩の傷に薬も要らず、ただただ三成は焦燥と殉死の衝動を噛み潰して三日三晩を凌いだ。
胸の内に開いた傷は焼け爛れたように熱と痛みばかりを生み、三成を苛む。滾る憎悪は消えず殺意は朽ちず、なのに渇望はいまや明確に形をとって三成の中を占めている。殺したいと愛おしいの二律背反に舌の端を噛み切って、溢れた血に咽んだ。
どうすればよいのだ、三成はなにを決断すべきなのか。家康を殺せば渇望も消えるのか、それとも渇望だけが残り、喪失の絶望が今度こそ三成の心を食い潰すのか。殺してしまえば手に入るが、同時に三成はそれを失うことになるだろう。相容れぬものばかりでどうすればいいか、途方に暮れる。

(なぜ貴様は私を忘れてしまった)

手指の震えを止めようと左手を握りしめて、爪が掌を食い破った。今ならばわかる、この手の震えはあの男を欲するがためのものだった。
居てもたってもいられずに、答えの出ないまま、三成は部屋を飛び出した。
複雑な城郭内を幽鬼のようにうろついて、漸く城主の男の姿を見つけた時にはやはり日は大きく傾いた頃だった。山の端にかかる落日の照り返す奥まった屋敷の庭先で、松永は弓を引いていた。
的に向かって従者から片手で矢を受け取りながら、松永は三成に声をかけてきた。三成に背を向けたまま、特に驚く様子もない。

「卿は彼岸と此岸の細い崖の縁によくも危うげに立つものだ」

まさかこの男は後ろにも目があるのではないかと、馬鹿馬鹿しくも悍ましいことを三成は考えた。口にする戯言に耳を傾けることはしたくない。読み違えれば過たず毒矢で射抜かれるのはもう、知っていた。その甚振るような遅効性の毒で三成は家康ともども白と黒の合間を彷徨っている。だが、己はこの男を慰める蒐集物ではないのだ。いいようにされてばかりではない。

「家康は何処だ」
「我慢が切れたと見える、よい傾向だな、凶王」
「囀るな、聞かれたことに答えろ」

立場を錯覚するような上からの物言いに、矢を携えていた侍従の肩が揺れる。恐らくは客人の男の無礼に対する憤りではなく、主君の不興による周囲への影響を案じてのことだろう。それはある意味間違ってはいない。松永はしかし堪える様子もなく、獣の遠吠えを聞くように眉を眇めただけだった。
受け取った矢を弓につがえる。

「墨客のところに置いてある」

まるで物の所在を示すような答えを寄越して松永は黒の強弓を構えた。前に聞いたような単語に三成の眉が寄る。
家康には就寝と食事以外の時間は墨客のところに居るようにと命じてあった。やはりうんざりしたようなかおをしてみせた家康だったが、松永に逆らうつもりはやはりないらしく、大人しく命に従っている。

「掛け軸を一幅描かせているのだよ。東照を前に寝食を惜しんで筆を走らせている最中だ」
「私は場所を聞いている。何処だ」
「せっかちだな。墨客の仕事の邪魔はしないでくれたまえ」
「言え」

三成の質問は最初から詰問であった。鞭打つような鋭い声音に松永は動じる風もなくつがえた矢を引き絞った。少々癖があるが背骨が真っ直ぐに伸び、美しい構えだった。弦の張る様と撓る弓と、あと片肌脱いだ腕から肩、背中に浮き上がる見事な筋肉の張り。引き絞るのに生半な膂力ではないはずだろうに、実に無造作に松永は弓を引いた。矢じりのぶれは欠片もなく、ただ鈍く、夕陽を受けて耀いている。
一瞬のち、鋭い音が虚空が裂いた。澄んだ一音のみを響かせて曇りない軌道で弓から離れた三本の矢は、瞬きの次の瞬間には七間離れた的に縦一列に突き立っている。的の上端、中央、下端。淀みなく空気を震わせた弦の音は、余韻さえも残さずに溶けて消えた。

「東の離れだ」

静まり返った庭先に落ちた穏やかな雅声に、三成は今与えられたのが自分の問い詰めたものの答えだと気付く。聞くや否や踵を返した三成に、松永は無礼だとは咎めなかった。
何事もなかったように次の矢を従者の手から受け取る。

「さて、凶王はあれをどうするつもりだろうな」

聊か興が乗ったように呟いて、松永は再び弓に矢をつがえた。




外回廊を行き合った侍女を捕まえて東の離れの場所を問い詰めると、三成の剣幕に怯んだのかはたまた口止めはされていなかったのか、すぐに答えを聞き出せた。井戸のある中庭を抜けて長く伸びる回廊を進むと、やがて垣根の巡らされた一角が見えてきた。躑躅の茂みは茂った葉を伸ばし、所々に目の覚める赤い花を付けている。
渡りの廊下へ繋がる角を曲がった途端、まろぶように飛び出してきた人影にぶつかって、三成は咄嗟に身を躱した。朽葉色の衣の裾が翻り、勢いのままよろめいたそれは床板にぶつかって無様に倒れ込んだ。

「……貴様」

そのまま捨て置いていこうとした三成だったが、鼻を掠めた匂いにはっとして思わず立ち止まると足元に転がった男に視線を落とした。男から香ったのは墨と顔料の匂いだった。

(もしや、これが件の墨客か?)

足腰が立たないのか、転んだままなかなか起き上がれずに足掻いているその襟首を掴んで、三成はぐいと視線の高さまで持ち上げた。痩せぎすとはいえ一軍を率いる武人の力は常人を上回る。加えて墨客は痩せこけて小柄で軽かった。襟首を引き据えたところで、その所見を改める。 やつれている、といってもいい姿だった。
無造作に括った髪に白髪が混じっているために見誤りそうだが、まだ老いているというような年ではなさそうだった。三成よりは年上だろうが、まだ三十路あたりだろうに哀れなほどその顔には衰えがうかがえた。
こけた頬と反対に両眼だけはぎらぎらとぎらついて異様だった。幽鬼かなにかのようで、己とあまり変わらないのかもしれないと思う。まるで何かに憑かれているようだ。三成の手に襟首を掴み上げられてじたばたと暴れていたが、たいした力ではなかった。頻りに堪忍をと口走っている。
そのうちなんだか顔色が悪くなってきたようだったので、手を離すと墨客はそのまま重力に従って床に落っこちた。

「貴様」

腰が抜けたのか床を這って逃げようとする男の朽葉色の衣の裾を踏みつけて三成は声を落とした。

「家康は居るな?」

顎で離れの方をしゃくる。ぶるぶると震えて三成を見上げていた墨客は一瞬言葉の意味がわからなったようだが、すぐに思い当ったかのように肩を跳ねさせた。

「あ、ああ、やはり、やはり」

独りごとのように零して男は床を掻き毟った。手入れのされた滑らかな床板に墨で汚れた指の跡が、虫の這ったように線を描く。徳川家康公。そう言った。

「やはり、間違いなくあの、あのお方は」
「おい、貴様こたえろ」

早々に焦れて三成は衣を踏んでいた足で蹲るその脇腹を蹴った。ばたん、と転がった身体は軽く、やはり年齢に反して見る影もなく老いた動きしかしなかった。

「も、申し訳ございませんお武家さま」

蹴り転がされてなんとか身を起こした墨客は、しかし頭を床に押し付けたまま三成に対して望む答えは返さなかった。ただただ、譫言のように独白を繰り返す。

「畏れ多くも我が筆には余る御方にて、さすれば、ああ、東照日天様は、しかし……あの御方には、」

そこまで言って墨客は昏倒した。夕陽で赤く染まった廊下にばさりと蓬髪が乱れ広がった。
低く舌打ちをすると三成は墨客を放ったまま離れへと足早に歩き出した。実際に自分の目で確かめた方が早い。墨客が驚いたのも無理はないことだ。家康は関ヶ原で死んだと思われているのだから、まさかこんな西国の城主の元に居るとは思っていなかったのだろう。それにしては妙な怯え方だったと思いながら渡りの廊下を突っ切る。花の色を少なめに簡素に手入れされた庭で、躑躅がやけに赤く見える。この城の庭は何処もよく手入れされており美しいのに、酷くおぞましく不気味に見える。
離れは三成が滞在している部屋と似たような大きさだった。三成は声もかけずにいきなり、半開きになっていた障子をからりと開け放った。戸を開けた途端に室内から濃い墨の香りが漂った。墨と顔料。なにも可笑しなことは無い、先程墨客の男からも香った匂いだ。
踏み入った室内には誰もいなかった。
西日と一緒に三成の黒い影が伸びる床の上には、所狭しと紙が広げられていた。書き損じがあちこちにぐしゃりと丸められて転がり、顔料がさまざまに混ぜられて画仙紙の上を彩っている。乱雑に並ぶ絵画か落書きか見分けもつかないものが散らばる中にひとつ、一際大きな本画仙が広げられていた。
書き散らされた紙を避けもせず踏みしだいて三成は其れへ近寄った。覗き込んで思わず目を見開く。
上質な紙の上には人物が描かれていた。仏画に倣い裸体の上半身には秋に実る稲穂色の長い衣を羽織り、首元を黒曜と真珠と柘榴石のあしらわれた黄金の首飾りが幾重にも取り巻いている。腰に太刀、飾り帯の青丹と黄金、瓔珞宝珠さんざめき目を奪う。下肢に纏うのもやはり稲穂色の衣で鹿が遊ぶ模様が描き込まれている。裾から覗く足首を飾るのは白黒の宝珠で、爪は赤だった。
男神の逞しさと同時に嫋やかささえ匂うような居住まいだが、差し伸べる腕には武神の如く黄金色の篭手が嵌められていた。手甲に覆われた聖痕の赤く彩る指先に、蓮の花を持っている。短い黒髪の頭部を覆うように衣と同じ色の布を被っていた。
人物の後ろから光が射している様が複雑な調合の顔料によって描かれていた。後光のようだ。けれど、その所為なのか人物の顔面が――本来ならば目鼻のあるところが墨で真っ黒に塗り潰されていた。ざわり、と三成の心臓が嫌にざわめいた。胸から喉元へ込み上げてくるものは嫌悪か何かだろうか。
書画はまだ詩が入れられていない。途中なのだろう。
また左手が震え始める。目を逸らせずに凝視していた三成はふと、描かれた人物の逆光に重ねるように塗りたくられた跡に気が付いた。燦然たる後光を侵すように墨の混じった顔料が影のように人物の身体を取り巻いている。煙か、いやもっとはっきりと像を結ぶ、それ。

(くちなわ?)

ぐうるりとうねるように絡みつくそれに、三成は書画から視線を引き剥がした。見事な神画だ。けれど、いいようのない悍ましさに気が付けば着物の下の腕が粟立っている。ばかばかしい。眩暈を遣り過ごそうと痛む眉間を片手で押さえて俯いたところで、再び三成は硬直した。指の間から見下ろした床の上の様子にぎくりと肩が揺れた。
自分は何故今までこれを唯の落書きや書き損じだと思っていたのだろうか。
顔料の皿や筆がひっくり返りぶちまけられている。散らばる紙を斑に染めているのは、その絵具の上を何かがのたくった痕だ。長く大きななにかが這ったようなそれは、短い毛皮のようにも鱗の跡のようにも見えた。
顔を上げると三成は室内をもう一度見回した。気付かなかったが、入ってきたのと違う左手の障子が開きっぱなしになっていた。
足元の絵具の痕を踏み躙って三成はそちらへ足を向けた。彷徨わせた視界にもう一度描きかけの画が映る。無貌の日天の姿にかっと怒りのようなもので腹が焼けて、反射的に左手を握ったが其処には刀はない。三成は足元にあった唯一無事だった硯を蹴った。びしゃりと墨汁が血飛沫のように飛び散って書画に降り注いだ。
そのまま振り返りもせずに離れの部屋を飛び出した。
最後の赤光を放って太陽が山の端に沈む。
残照が消え薄墨を流したように夜の帳が落ちてくる合間を縫って行方を探す。部屋から続いた絵具の痕は離れの廊下の途中で掠れて消えていた。墨客が蹲っていたところには人影はなく、渡り廊下には既に燭台の灯りが灯っている。
鬼気迫る三成の様子に脅えて道を空ける小姓や下働きの女に目もくれず、城内を回った。
あの妙な痕跡はなんだったのか。松永は墨客が家康を描いていると言っていたし、当の墨客もやはり家康を前に描いていた口ぶりだった。松永はこれを知っているのだろうか。忌々しいがやはりあの梟雄を問い詰める以外に方法がない。
男の掌で踊っているような不快感を拭えないまま、三成は渡り廊下を駆け戻った。何処に居るだろうか。夜ならばやはり寝所に家康を呼びだしているのだろうか。思った途端、胸のあたりが火箸を突っ込まれたように焼けついた。
がりがりと牙を噛み鳴らして廊下を突き進んでいると、足音がして、前方の角から手燭を携えた小姓が姿を現した。時折、家康と共に膳を運んできたりもする見覚えのある顔だ。彼は三成の姿を見ると、慌てて摺り足で駆け寄ってきた。

「凶王様、松永様がお呼びでいらっしゃいます」
「なに」

逆に相手からの呼び出しだったことに三成は眉を眇めた。お早く、と小姓が手燭を翳して三成の足元を照らす。

「御寝所にいらっしゃいます」
「……」

一瞬、以前の夜のことを思い出して三成のこめかみがひくりと動いた。また家康を蹂躙する様を見せて三成を挑発するつもりだろうか。同じことをされて冷静で居られる自信が今となっては無い。だが、家康を繋いでいるのも松永であれば、恐らく記憶を取り戻す鍵も松永が知っている筈だった。簒奪者め、奪い返してやる。気づいてしまった以上、もうこのままではいられないのだ。三成も、そして家康もだ。
無言のまま歩き出した三成を慌てて小姓が追い掛ける。案内されずとも道筋は覚えている。覚えのある部屋や階段を横切り、廊下を曲がって三成は城の奥へ向かった。





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20140223