第五幕 無貌




身じろぎをすると花の香りを一瞬揉み消すようにして焚きしめた香が仄かに香った。
相変わらずの腕前だなと松永のことを思って家康は溜息をつく。薬という名のつくものならば良薬から毒薬、火薬爆薬まで精通している松永はその他、武術兵法は無論、茶の湯から舞楽、香まであらゆるものに堪能だ。人ならざる身は気の遠くなるような年月を閲する。時間だけは腐るほどあるのだよと嘯いた松永の、その時燻らせていた香は伽羅に似ていた。

「じきに卿も同じようにわかる」

続けられた言葉には無言を貫いたのだが、それが逆に肯定のように思えてしまい、家康は辟易した。そもそも松永のそういった類の技能は人ならざるものと化す以前からの技だろう。遠い日、家康を蘇らせた松永の火と同じように松永を再誕せしめたあろう東大寺の大仏を銅の湯に変えた焔のことを考える。京洛で耳にした噂話でしか知らないけれど、何故か生々しく想像がついた。その時のことを一度だけ問うてみたが、松永は醒めた顔で白々しく嘯いただけだった。さて、あれは何週目の時の焼き討ちだったかな、と。
ばさりと長い衣の裾をはたいて腰をおろしていた櫓の陰から立ち上がると、家康は大きく伸びをした。甘い香りが風と共に舞う。一面の罌粟の海だ。蒼穹の下で赤い花弁が風に揺れる光景は幻想的でもあった。いや、現実というものはこの城ではこのようなかたちをとるのだ。
山城の城郭内は場所によって季節に関係なく種々様々な草花が咲き乱れる。狂ったようでいてこの世のものとは思えない美しい幽玄の光景は、全て松永の張っている結界の所為だ。人には見えないそれが家康の目にははっきりと映っている。罌粟の花はとうに盛りも終わった季節だというのに。

(風が心地よいな)

本丸の南側に位置する出城には罌粟畑が広がっている。 もう一度両腕を上に上げて大きく伸びをすると、家康は本丸のある木々の向こうを振り仰いだ。北の方角、山の一段と高い位置に美しい天守が見える。色づき始める紅葉の合間に美しい黒瓦と荘厳な構えの四層櫓―――己の塒だと思えど何の感慨もわかないが、こうやって少しだけ離れた場所から眺めると、素直に美しい。
もう一度、櫓の壁に背中を預けて、欠伸をする。このまま草むらに寝転がって午睡ときめこむか。そう思って目を閉じた絶妙の間で、押し殺した笑い声が低く響いた。

「随分と悠長ではないか。思わぬところに太陽が雲隠れかね」

柔らかく響く雅声は頭上から降ってきた。はっとして壁から背を離して振り仰いだ家康は思わず渋面になった。櫓の一角、開いた窓の端に肘を置いて、此方を見下ろす男が居る。

「……弾正、殿」

迂闊だったなと家康 は自己嫌悪に陥った。結界の中だからというわけではなく家康自身の気の緩みもあった。こんな傍まで近づかれて気づかぬとは。

「なにをしているんだ、そんなところで」
「いやなに、随分と画になる眺めなのでね」

言いながら松永の視線は霊峰に聳える天守ではなく、眼下の罌粟畑に注がれている。赤白黒、黄色に青。五色の花弁の海原が広がる中にぽつりと漆黒の太陽が耀いている。見慣れた城郭図よりも趣があった。

「ところで東照、先程の言をそっくり返そうか。卿は何故こんなところに居るのかね」

わざとらしくのたまわれた一言に家康はしらりと目を逸らしてさあなあ、と呟いた。そうだった、家康はこの城主の目をくらましてわざわざ北側の居住区の屋敷を抜け出し、南郭の罌粟畑で午睡などと企んでいたのだ。

「ワシだってたまには花を愛でたい」
「卿はそういう嘘だけは下手だな。普段はもっと上手いじゃあないか」
「弾正殿には敵わないさ」

家康は絡め取られそうになる声音をいなすように櫓に背を向けた。同時に背後でふう、と風が流れる。軽く草土を踏み拉く音と共に、罌粟の香りにも紛れず伽羅と硝煙の香りが漂って、松永の気配が近くなった。

「卿には墨客のところへ行くように言ったはずだが」
「……」

ゆっくりと振り返った家康の目に、櫓の柱の前に立つ松永の妖艶な笑みが焼きつく。今まさに二階の高さの櫓上から飛び降りたとは思えないような泰然自若の佇まいで、片手の扇をばちりと閉じる。今日の着物は戦場で纏う陣羽織と似て、左右の身頃で色の違う墨と蝋の衣だ。金銀で縫い取された蔦の葉から延びる弦の文様が身体に絡みつくようにして流れ落ちている。派手なのに気品がある松永に嫌味なほどに似合う格好だ。

「東照?」
「……ワシを書画の題材にするなど悪趣味にも過ぎるだろう」
「それは卿の判断するところではないだろう」
「ワシだって意見くらいはするぞ」

隠しもせず嫌そうに眉を寄せて家康は松永を軽く睨んだ。あからさまに嫌悪を浮かべるのはその下の本音を隠すためだ。書画の題材などどうでもよい。家康は墨客の側に居るのが嫌だっただけだ。なんせあの墨客は家康を眺めて筆を走らせるだけではない。話をするのだ。家康の知らない「家康」の話を。

『徳川家康公ではございませんか』

初対面から暫く経って、おそるおそるといったていで墨客は家康にそう聞いてきた。名は間違っていなかったので是と頷いたが、そうすると急に彼は涙を零して蹲った。それから家康の知らない家康の話をぽつぽつとするようになった。墨客は何度か三河の城下で家康を見たと言う。山吹色の戦装束で馬に乗っていたと言った。血と戦塵に塗れながらも部下や民を気遣い声をかけ、太陽のようだったと言った。城から抜け出して城下を歩くだけでなく、共に稲の刈入れをしたり泥土を運んだりしているのも見たという。民草を思いやりながら確たる基盤を築く為政の采配、戦場での武勇譚を語った。三河には日の神がお出ましになり国はとても栄えたのだと誰もが言っていると。
家康は首を振った。それは自分ではない。
人違いだと告げても墨客の語りは止まなかった。関ヶ原にて太陽が御隠れになってから、民は嘆き悲しんでいます。こうして御存命であると知れば皆が喜ぶ、もし御心にかなうならば再び戻ってきて我らを照らしては頂けませぬか。かき口説かれた。けれど家康には知らない覚えがない。それは自分ではないはずだ。繰り返される言葉に、何故だか酷く心が引き攣る。今まで長らく気にもしなかった古傷が三成が現れて以来疼くようになったが、墨客を前にすると更に痛んだ。三成が現れてからずっと続いている奇妙な焦燥が、酷くなっていく。
日が経つと繰り返し見る夢がまた変わり、今や青い光に包まれて足元が見えなくなった。呼び声は明瞭になり覚えのある声になった。あれは、三成の声だろうかと思う時さえあった。
これは悪い前兆なのだ。堰き止めねばならない。
追憶と焦燥を見透かすような松永の目を遮るように、家康は背を向けると歩き出す。

「とにかくワシはあそこには……」
「恐れているのかね」

背中にぞんざいに投げつけられた松永の声はぐさりと切っ先を突き刺すような声色だった。松永の声に立ち止ってはいけないとわかっているのに、足が止まってしまう。動揺を露わにした家康の背に松永は更にもうひとつ、言葉を刺しこんだ。

「恐れているのはそれに覚えがあるからかね」
「まさか!」

自分でも驚くほど語気が鋭く迸った刹那、目に見えぬ気迫が音もなく虚空を裂いた。

「―――!」

生死の紙一重を分けるときは知覚など殆ど意味を成さない。本能的な倣いによって家康は咄嗟に地を蹴っていた。軋むような鋭い音が空気を裂いて殺気が実体のように家康の脇を掠める。黒の飛沫かと思った。空転して傍らの木を足場に跳ぶ。家康の軌跡を舐めるように黒い影が弧を描き、最前まで家康の影のあった幹を粉砕した。

「く、!」

罌粟の花弁が嵐のように舞い上がる。飛来した一撃を彩の波を蹴散らして側宙で躱し、即座に読んだ間合いの縁に舞い降りる。じゃらり、と空気に掠れる金属音に背筋を震わせて、家康は松永に対峙した。

「いや、見事見事。やはり卿は私を一向に飽きさせない」

息ひとつ乱れぬ声が紡ぐ評価は松永の素直な賞賛だった。先程から松永の立つ位置は数歩しか変わっていない。いつの間にか蝙蝠扇は飾り帯にはさまれている。男の両手の袖からじゃらりと垂れ下がり即座に引込められた漆黒の鎖鞭を目で捉えて、家康は己を狙った得物がなんであったのかを認識した。きらきらと陽光に耀く黒い鎖は一瞬しか見えなかったが、先には鋭い形をした錘が垂れ下がって蠍の尾のようにぎらついていた。抉られた地面と大木の残骸に、恐らく頭蓋など一撃なのだろうなと、どこか他人事のように思う。本当に得体の知れない妖人だ。
空手になった指でゆっくりと扇を抜いて、松永は何事もなかったかのように笑んだ。

「墨客のところへ行きたまえ」
「嫌だと言ったら?」
「そうだなあ、卿にはこんなことより閨での責め苦の方が堪えるのだったかな」
「……」

今度こそ家康は苦虫を噛み潰したような顔で松永を見た。





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20140223