*




「黄泉比良坂で後ろを振り返ってしまったような顔をしているな」

三成の顔を見た松永はそう嘯いて口の端を上げるようにして声無く笑った。座敷牢の格子にこの時間、光は溢れていない。ただ、刺すような落日の赤が廊下を這い、黒檀の陰を畳の上に鋭く切り取っている。松永の手が格子の縁を撫でた。
籠は空っぽだった。開いたままの扉に視線を走らせた三成は男の言葉を碌に聞いてはいなかった。

「家康は何処だ」
「安心したまえ、先日に連れてきた墨客の相手をさせているだけだ」
「墨客?」
「随分と変わった画を描く男でね。なにを描かせようかと考えていたのだが、東照を一目見るや是非描きたいと申し出てきた。さて、あの墨客の筆が足るや否や、見物だ」

何を考えているのか相変わらず松永の言葉は謎かけのように核心をくらませる。それでも恐ろしいのは、翻弄する言葉先とは裏腹に、松永の目はまごうこと無き真実を見抜いていることだった。言葉を弄しながらもいざ直面した相手の纏う鎧を、覆いを、壁を。容赦なく引き剥がし本質を引き摺りだしてくる。己の内に抱える闇と対面して、正気を保っていられるのは真に自身の闇を知るものだけだ。薄ら寒いものさえ覚えるその苛烈さに三成は同じなのだと思う。三成と同様に家康もまた、松永の手によって暴かれたのかもしれない。

「その顔からすると卿の探していたものは見つかったようだ」

松永の静かな声音に空っぽの座敷牢から視線を外す。首だけを少し傾けて松永は三成を振り返った。年を重ねていながらも気品の少しも損なわれない整った顔立ちが半ば陰に隠されている。切れ長の秀麗な眼差しが、奈落のような暗さを湛えて三成をひたと見据えている。たとえほんの少しだけでも赤光は松永を彩ると血ではなく火の赤に見える。あの火で家康を巻いて三成から遠ざける。嗚呼、血水の涙よ降り注げ、注ぎてあの禍火を掻き消せ。

「いつからだ」

もうずっとくりかえした問いが三成の唇から漏れた。誰に向けた問いでもなかったが、松永は正しくそれを理解し拾い上げた。

「悔いることは無い」

優しげな声音はやはり慰めに聞こえてその実、確実に深奥に切り込む刃だった。

「卿は己を知ろうとせず信じるもの以外には目もくれずなにも見ようとしなかった。気づこうとしなかったことは罪ではない。それは卿の生き方だ」

なにものにも縛られず、心のままに愚かしいほど頑なに、信じるもののために突き進んだ。それを間違いだと言える者は誰も居ない。(松永にとっては面白みの無い音色でしかなかったが)生き様に真偽などない。其処にあるのは剥きだしの人の魂の形だけだ。

「ただそれゆえに卿は失ったものがあった。それだけのことだ」

人の魂は全て同じ根源だとしても、外側を塗り固める皮は人の欲望がごまんとあるように皆、違う。それを同じものさしで測ろうなどとは、ましてや天秤にかけようなどとははなから無理な話なのだ。だから人は血を流しあう。
松永の声音は酷く優しい。優しすぎるからこそ恐ろしいのだと三成は既に知っている。鋭い刃ではなく鈍いなまくらの切っ先で、傷口をやさしくこじ開けてくる。上辺だけの甘さに目を閉じた瞬間には既に切っ先は心の臓にまで食い込んでいて、手遅れなのだ。あとは生きながら腹を裂かれてわたを引き摺りだされるがまま。狂うか狂わないかは自分自身の心次第。ただ、ただ、松永は足掻くその様を愛でるのだ。
松永の三成を見る目はやはり、珍しい品を品定めするのと同じ目だった。

「そうしてその生き方が相容れなかった、それだけのことだ」

互いに譲れぬものがあった。相容れぬのに惹き合った。遍く星の数ほどの魂を同じものさしで測ろうとするのは愚かなことだ。だが愚かさは人の本質だ。恥じることは無い。

「黙れ……」

向かい合っているはずだった松永の表情が陽炎のように歪んで見えない。幻の火の赤はいまや三成の視界を塗り潰している。視神経を苛み肌をじりじりと焦げ付かせる落日の光が、鬱陶しくて仕方ない。

「かなしいなあ、凶王」

格子に寄りかかるようにしてやっとのことで足を踏みしめる三成を、物のように眺めながら松永はいつかと同じことを口にした。それでもまだ立っている三成の、その強靭さを愛でるように、あるいは甚振るように。

「強すぎる光はまなこを潰す」

三成には松永が何を言っているのかわからない。

「光は闇なくしては存在できないし、逆もまた然りだ。だがそんな単純なことに存外、人は気づかない」
「黙れと、言っている」

松永のたわごとが理解できない。いや、薄々感じているその意味に、理解することを本能が拒絶しているのかもしれない。どちらでも同じだと三成は思う。己のことは己で決めるものだ。

「まあいい、好きにしたまえ。卿の心の欲するままに」
「言われるまでもない、私はいつだって……そうしてきた」

己に偽りなく、あるがまま。許し難い罪と憎悪を昇華せんがため、家康を…殺そうと…。

「そうかね。それならば余計に私から卿に告げることなどないな」

はっとした時には思った以上に近くで囁きが聞こえて三成は瞠目した。気づかぬうちに間合いの内へ踏み込んだ低い声音と一緒に、伽羅の香りが漂った。

「僥倖、僥倖」

もう一度目が合ったのはすれ違う一瞬だったが、三成は凍りついたまま身じろぎできなかった。松永の漆黒の瞳がもの言わぬままにも雄弁に問うていた。はたしてそれがそれが、お前の本心かと。
それきり興味が失せたかのように視線を外すと、無言のまま松永は三成の横を通り過ぎてせまい階段を上って行った。追い掛けて家康の居場所を詰問することもなく、三成は格子に額を押し付けるとそのままずるずると座り込んでしまった。
なにも知らぬままだったのだ。だからこそ、己は己の内を覗かねばならない。今までは強大な道標に向かって、ただ一心に駆けていくことしかなかった自分が、何も知らないままで居るのを是とできなくなったのであれば、同じことを繰り返す前に、知らなければ―振り返り、己の中の闇を覗かなければならない。
家康、貴様にとって私はなんだったのだ。私は、私は貴様を……。

「あ、ああ……ああぁ、あ、あ!」

脳髄の混乱がこめかみを刺し意識を業火の様に苛んだ。開いた咽からは言葉ともつかない声が迸り夕日と一緒に足元に落ち、やがて夕闇に紛れた。


*


「なにをしているんだ」

呆れたような声音があって、三成は振り返った。
廊下に差し込んだ赤い光がいつの間にか障子の桟を越えて畳の上にまで滴っていた。手元に広げた兵法書の文字も、室内に流れ込んだ薄墨のような暗がりに読み辛くなっている。一心不乱に打ち込んでいた所為か、今の今まで三成はそれさえも気づいていなかった。
書物から手を離して前のめりの姿勢を戻すと背筋がぎしりと軋みを上げた。集中がほどけると同時に気づいていなかった疲労に身体のあちこちが悲鳴を上げ出す。腕、肩、腰。くらりと重い眩暈を訴えた眉間を指先で押さえながら、三成はのろのろと家康の方へ身体を向ける。
半分ほど開いた障子の間に家康は立ったままだった。夕陽の赤い矢のような光と一緒に長く伸びた男の影だけが室内へと入り込んでいる。逆光になっていて顔こそ見えなかったが家康であることは容易に知れた。いつもの良く知る気配だ。

「貴様こそなにをしている」

突っ立っていて何故入って来ないという意味だったのだが、家康は芥子色の羽織をひっかけた肩を少し竦めて、厨から戻るのに通りかかったんだと言った。

「顔色が悪いぞ。また根を詰め過ぎているんじゃないのか」
「夕闇の所為だろう」

手元に積まれた書の山をちらりと一瞥して三成は低く吐き捨てた。豊臣のために尽力することに過ぎることなどありはしない。寧ろ足りないのだと三成は歯噛みした。先の戦は豊臣の勝利に終わった。しかし複雑な地形に配置した軍の一部が敵軍の急襲に対応しきれずに問題を起こした。隊を任せていた将の采配か或いはそもそもの布陣の問題か。進軍時の不手際か。
結局、運良く窮地を切り抜けることはできたようだが、下手をすれば莫迦にならない規模の自軍を切り捨てて犠牲にせねばならないところだった。三成は近い位置に布陣していながら、対応に動けなかったことを悔いていた。勿論その時三成自身も配下の隊の指揮にあたっていたからままならないのも仕方なく、寧ろ別働隊の知らせを聞いても動揺することなく命令に従い、自軍を抑えたことを竹中には褒められた。しかし一方で己の力不足を三成は拭えなかった。
あらゆることで秀吉の力になるために、剣技以外にも学ぶことは多々あり精進していたが、己の兵法の造詣はまだ到底及ばなかった。欠損を自覚したらそれを克服するに理由は無い。三成は立ち止っている暇などないのだ。秀吉の覇道を支えるためにすべきことなど山とある。
三成のぞんざいな答えに少しだけ溜息をついて家康はもう半分障子を引き開けた。からりと桟が滑って夕陽の矢が広くなる。先程より明るくなった室内で、三成の位置からも漸く家康の表情がぼんやりと見えた。

「理由はどうあれ寝食を疎かにするのは感心しないな。今日は一食も摂っていないのだろう?」

言葉と同時に家康は片手に持っていたものを三成に向かって軽く放り投げた。咄嗟に受け止めた掌になかなかの重みが乗る。小さな布包みだった。

「厨から貰ってきた」

家康の言葉に押されるように包みを解いてみると筍の皮に包まれた握り飯が三つ、転がり出てきた。食事を目の前にして其処で漸く腹が減っているなと気がついて、やや気まり悪く三成は唇をむすりと曲げた。

「……何故貴様が知っているのだ」
「お前のところの侍女に聞いたんだ。心配していたぞ。あとで礼を言っておけよ?」

家康の言葉に三成は眉を顰めた。夕陽が眩しかったわけではない。侍女といってもよく顔を覚えていない。いつも三成に仕えている者の一人ではあるのだろうが、はたして家康が言う相手が誰なのか三成には見当がつかなかった。そもそも気づいて侍女に聞いたのも厨で飯を調達して持ってきたのも家康なのだ。だったら礼を言うべき相手は侍女ではない。

「なぜだ」
「お前を心配していたんだから安心させてやれよ。茶はあるか?」

会話は微妙に噛み合わなかったが、この二人にとってそれは些細で問題とはならない。またぞろ別の世話を焼きはじめた家康の発言に三成はじれったくなってきた。

「今日はそれを食ったらもう休め。残りは明日に回せばいいだろう」
「悠長なことを言うな。力不足を不甲斐ないと思わんのか。家康」
「そういうわけではないが」
「自己の不足を努力して埋めようとしない怠慢は豊臣への不義だぞ」

家康が自己研鑚や鍛錬に怠惰だとは欠片も思ってはいないが、何時如何なる時も鷹揚な様子に三成の方が焦燥を覚える時がある。睨みつけた先に障子戸の脇に立つ家康の姿。部屋に入って来ないのは室内まで入るのが億劫なのではない。半開きの障子の陰に隠れている家康の左腕を睨みやって三成は低く唸るように投げた。

「その腕だってそうだろう」

家康の左腕の怪我は先のその戦のものだ。話によれば上空を飛んでいた忠勝の背から落ちたのだという。予定の進路から外れたところで、しかも落ちた場所は件の敵の策に嵌って進退きわまっていた渦中その場所だったという。
幸か不幸か家康の不意の乱入(といえば聞こえはいいが)に、豊臣軍の兵站線を潰すため退路を断っていた敵軍が崩れ、混乱に陥っていた味方の隊はそれを機に持ち直し活路を開いた。救援も絶望と考えられていたところに文字通り天からの恵みのごとき徳川主従の加勢で奮い立ったのもあった。
結果、豊臣は別働隊を見殺しにすることもなく、兵站線も塞がれず、豊臣軍は崩れた陣形を立て直すために自軍を切り捨てなくてもよかった。隊を率いていた武将も本来ならば統率力の不足の責任を取って処罰されるところを、恩赦されて全てが上手くいった。痛い目をみたのは軍規違反と従者の背からの転落という失態をこっぴどく叱られて数日謹慎を言い渡された家康だけだ。
大方、奇襲を受けた隊を心配してのことだろうが、通過進路を勝手に変更していたのかという時点で既に大問題だ。その上に交戦中に転落など醜聞以外のなにものでもない。家康の迂闊さに三成は聞くに堪えないその話にこめかみが痛む気がして頭を押さえた。甘い。必要とあれば崩れた自軍の一角を見殺しにすべきだったのだ。

「弱いものは豊臣に不要だ。その情と甘さは弱さだ」
「だがなあ、三成。皆がお前のように強いわけではないんだ」
「そうだな、貴様は弱い、家康。そのままで変わることなくばこの先はないと思え」

全ては運がよかったからの結果だ。腕の怪我だけで済んだのは幸いだったが、次もこう上手くいくとは限らない。
隙があるのかないのかわからない男だが、戦闘中はそうでもない。けれど、時折、まさかというようなことをしでかす家康を、生き急いでいるように感じることさえあった。身命大事にしろと、言おうと思って三成は結局違う言葉を口にした。

「強運に助けられるのが癖になるようでは問題だ」
「……ああ」

三成の糾弾に家康は穏やかに微笑った。穏やか過ぎて本当にそう思っているのかわからない顔だった。己をもっと顧みろと家康は三成に言う。けれどそれを言うならば家康も似たようなものだと三成は感じるときがある。だからこそ余計にその気遣いが心に障った。神経を逆撫でられるような妙な焦燥を感じるのだ。

「そうだな、肝に銘じておく」

家康は言った。





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20131215