第四幕 熾火
足元で薄ぼんやりと光が揺れている。
いつもの夢だった。蛍のようにちらちらと足元で青い火のようなものが明滅している。裸足の足裏にひんやりと心地の良いそれは石畳のようなものだと家康は思っていた。いつものように家康が歩き出せば足を踏み出すその先に石畳は伸び、立ち止れば家康を中心にして取り囲むように足場を形づくる。
青く光る石敷きの足場は常と変わらずに家康の足元にある。だが、今日は何かが違う気がした。仄かにぬくい、のかもしれない。そういえば、と家康は今一度自分の足元を見下ろした。この石畳の足場はなんなのだろうか。形よく菱形に敷きつめられたそれはひとつひとつが表面が緩やかに弧を描いて盛り上がり、石畳に敷く割石にしては似つかわしくない。
膝をついて掌で青い石に触れてみる。闇の中でゆるゆると明滅をするそれは北海の瑠璃を凍らせたような硬質の手触りで家康の手に感触を返した。ひやりと冷たいのにどことなく暖かい。ゆっくりと発光を繰り返すそれは深いところから自ら耀きを発しているようだった。石だと思っていたがもしかするとこれは石ではないかもしれない。大きな貴石の石畳だと思っていたが、違うのではないだろうか。
なんだろうと家康はふと考えた。敷きつめられた青い石畳はぼんやりと胎動するように明滅を繰り返している。瑠璃色一色だと思っていたそれは、光る毎に色を変えていることに気がつく。北海の瑠璃、南洋の翡翠、蒼穹の青瑪瑙。
膝をついて青い光に触れたまま家康は頭上を振り仰いだ。相変わらず無窮の闇が凝って、周りは何もない。落ちているのか飛んでいるのか浮いているのか、己が何処に居るのか何処へ向かっているのかもわからない。有か無か。何者であるのかさえ見失いそうになる。ただ唯一、家康を此処に居るのだとせしめているのは闇の中で耀く、この青い石敷きの足場だけだ。
耳を澄ますとまた、あの遠吠えが聞こえた。
鳥のものか獣のものか判別のつかない、聞いたこともない咆哮だ。茫洋とそれを聞いていた家康は初めて考えた。あれはなんだろうか―――いや、だれだろうか。
遠吠えが変わった気がした。獣の声に聞こえる。いや、風の唸り声かもしれない。天を裂く雷鳴の響きにも聞こえる。認識した途端に急激にそれは形を取り始めた。咆哮は声だ。何故かどうしようもなく懐かしい気がした。名を呼んでいる。家康の名を呼んでいるのだ。
気づいた瞬間、家康ははっとして己の足元を見下ろした。青く息づくように明滅する石畳に目を落として呻く。生きている。これは石畳などではない。
鱗だと思った時には目が覚めた。
*
日に三度の膳を用意し、湯の後に傷の処置をしに現れるだけの家康だが、傷の薬を塗り直した後にどちらからともなくそのまま差し向い合って言葉を交わすのが日課になっていた。最初は互いの腹を探るようにしていたものが、禅の公案か問答のようなものや、単語の投げ合い、雲を掴むような言葉の応酬になり、やがて会話らしきものになっていった。
三成の左手の癖は酷くなっていった。震えを止めるために握りしめる愛刀は手元にない。言葉を交わせば交わすほど三成は目の前の男が家康その当人であるのだと嫌というほど思い知る。会話の端々に滲みでる思考や為人、ちょっとした表情に声音の温度。人の話を聞く時の穏やかな眼差し。近づいたように見せかけてどこか一定の距離以上に近づき難いような、距離間まで。
いろんな話をした。刹那には昔を、豊臣のもとで肩を並べていた頃を錯覚する時さえあった。けれど、見えてくるのは間違いなく家康でしかないのに、当人は三成のことなど何一つ思い出さない、許しがたい現実が浮き彫りになる。家康のその姿で心で、三成の知らない目をして見返してくる。そのたびに三成の胸には殺意に限りなく近いなにかが渦巻いて、目の前が赤くなる。手指が震える。いまだ奪われたまま胸に開いた空虚な穴は塞がれていないのだ。喪失における穴は喪失によって埋まるのかという疑問を殺しながら、三成は家康を忘却から連れ戻すしか考えないようにした。
(狸め)
燭台の灯りに照らされる家康の顔立ちの陰影を見つめながら三成は声も無く唸る。
三成は家康の話をしろと強請ったが、家康は三成にばかり話させようとして自分は語ろうとしなかった。三成のこと西軍のこと刑部のこと戦場、政事、他愛ない話、刀のこと―――敬愛する、主君のこと。水を向けるものの当人には興味があるような口ぶりではない、話の矛先を巧みに逸らしてかわすだけだった。
三成が食い下がって聞き出したところでは、家康の記憶はどうやら関ヶ原で松永に重傷を負わされたことを含めてそれ以前がごっそり消えているようだった。問い詰めても聞き出せるのは信貴山で怪我の養生をして以来の話ばかりだった。家康から話すこともそんな具合ですぐに尽きてしまい、余計に三成が話すことが増える。随分と強請って家康の口から出てくるのは松永のことばかりで、そうするとすぐに行き詰った。
「何故、肯んずる」
「と、いわれてもなあ」
家康が瞼を半分ほど下げて嘯く。他人事のように嘯く声の温度は興味の薄さを物語っていた。家康は仕える主君として松永を選んだわけではない。記憶として残ってはいないが、松永に仕えているのは忠義ではなく目的のための手段なのだ。その目的が「なに」かと具体的に問われれば、覚えていないのだから答えようがない。覚えていないが自分が選択した結果が現状なのだから、それで家康にとって理由は充分だった。この状態を維持することが家康の望みとなっていた。
「忠義はあるか」
「あるかといえばないか」
「尊崇もないか。あの悪鬼を貴様は尊崇できるのならば、貴様も悪鬼か」
「極端だなあ、凶王殿は」
松永の為人をワシ一人の感覚で善し悪しでは批評できない、と家康は嘯いて膝の上に肘を置くと頬杖をついた。そういう話には関わりたくない。松永は深すぎて、一定以上踏み込むのは禁忌でさえある。世の中には竹を割るように明朗に割り切れるものばかりではないのだ。そのことがどうも三成という男には理解し難いらしい。
主君の話が出ると家康は舌の滑りが悪くなるのだと自覚している。反対に三成は主君の話については饒舌になる。痛みと哀しみを耐えるように綺麗な月色の双眸を歪ませながらも、狂おしいほど切なる声音で敬愛の念を口にする男の姿に、家康はいつも胸が痛いような妙な気分になった。
「そういう凶王殿の主君はどんな方だったんだ」
「……」
知っているくせに、知っていたはずだ。理不尽な気分が喉を焼くのを抑えて、三成は唾棄するように答えた。
「貴様はそれをよく知っている筈だ。貴様が弑した御方だ」
覚えていないと言うのだろう。そう思いながらも口走った三成の言葉に、家康はやはり怒るでもなくただ、返した。
「そうかも知れないが、今のワシは空っぽでなにもない。凶王殿の忠義はなんなのだ」
「秀吉様のことを聞きたいと言ったではないか」
「うん、まあつまりはそれを聞けばわかるだろう?」
どういうのだろうなあ、と家康は思案するように唸って視線だけで三成を見上げた。灯火の角度から今は丸い瞳は明るい茶色に見える。
戦場で、政の場で、あらゆる秀吉の偉業を三成は語った。回顧し口に出すことで蘇る喪失の痛みは大きかったが、語ることによってより一層、秀吉の覇道が過去へと失せぬように記憶の中で色鮮やかに塗り重ねられることを考えれば、そちらの方が重要だったから、苦痛だとは思わなかった。
「秀吉様は私の全てだった。闇の中を導く光だった」
「偉大であり高みにて世界を担う覇道を往く方だった」
「常人には考えの及びもしない業を超えた器に、相応しい力を備え、世界を導く存在だったのだ」
限りある人の生に於いて、理屈など超越した畏敬の存在に直面することができた運命の幸いなることを、三成は知っている。それが己の全てとなることになんの不思議もなかった。
大切なものなど他になかった。
「秀吉様のためならば我が身は何にでもなれたし何でもできた。私は幸せだったのだ」
じっと三成の言葉を聞いていた家康は暫く何も言わなかった。三成の唇から紡がれるものを一滴たりとも零さないようにと、息を潜め、そうして残らず飲み込んで咀嚼するように、黙っていた。
語り尽くした時に家康がぽつりと口にしたのは思いもしない言葉だった。
「……それが凶王殿の幸せなのか」
「そうだ」
迷いの一筋もなく澄んだ刃鳴りのような三成の返答に家康はまた少し黙った。灯りに照らされる家康の表情は静かで無表情ではないのにどこか、なにものも受けつけない人ならざるものじみた雰囲気になる。
「貴方は主君のためだけに生きていたのか?自分のために生きようとは思わないのか?」
「質問の意図がわからん。子が親を慕うのに理由が必要なのか、貴様はそれを聞くのか」
そうすることが当然であったし見返りなど欲しいとは思ったこともなかった。そういったものとは根本的に違うのだ。三成は不思議なものを見るように家康を見た。この男には敬愛と尊崇により無償にて捧げられるものがわからないのか。
「私の存在意義は秀吉様のお役に立つことだ。あの方のために生きて、そして死ぬはずだった!それが私自身だ!他に、なんの、意味、が……!」
言葉にするうちに灯火の輝きがいかづちの閃きに重なって見えた。震えがぶりかえし三成の耳にあの雨音が聞こえてくる。泥土に横たわるものは秀吉であり己であり、家康だ。すべてがあのとき奪われ失われたものだった。
(いや、ちがう、家康は私から奪ったのだ、奪われたのは……)
胸の痛みに三成は片手で心臓のあたりをきつく押さえた。あの雷鳴の中で三成の心は死んだ。失ったはずの心臓が疼痛を訴えるのは幻肢痛だろう。それともまだ三成にも心はあるのか。
「凶王殿、」
幻の雨音の間隙に忍び込むように、静かな家康の声が三成の耳に届いた。
「……ワシにはその生き方がわからない」
雨音が不意に止む。
家康の声は三成の生き様を拒絶していながら冷たくは聞こえなかった。静かでいてそして何故か少し物悲しいような音色で三成の耳を撫でた。
たぶん貴方はワシの持っていないものを持っているのだなと家康は言った。呟きは三成に向けてというより、独白に限りなく近かった。
「凶王殿は恐らくワシの知らないものを知っているんだ」
何を知らないのだろう。けれど家康はそれ以上を口にしない。
「貴方に会って最初に思ったことは間違っていないようだ。なにものにも縛られない男なのだなあ、凶王殿は」
そう思う自分は反対に雁字搦めなのかもしれないと、また独りごとのように呟く。家康の声にも表情にも悔恨はなかったが、寂寥のような憧憬のような、おぼろげな色があった。そのことに三成は茫然として目を瞠った。
「ワシにはどうにも貴方の生き方を真には理解できないだろうし、そんな生き方はできない」
けれど、と言って家康は言葉を切った。なにか眩しいものを見るように双眸を細める。燭台の明かりが揺れて、光の加減で黄金色にも見える強い瞳がくるりと三成を映して、それから光が滲むように歪んだ。
「そんな風に生きられる貴方が、ワシは酷く羨ましい」
三成はなにも言わなかった。
暫時、二人の間に沈黙が落ちる。
ふっと家康が顔を上げた。静かに廊下の床が軋む音がしてから障子の向こうに人影が映った。徳川殿、と声をかけたのは小姓だ。掲げた手燭の光に照らされる影が腰を折って家康の名をよばう。
「松永様がお呼びです」
「……ああ、もうそんな時間か。すぐに行く」
家康が腰を上げても三成はやはり何も言わなかった。微動だにせず座したまま動かない。家康は何かを言おうと口を開きかけ、結局何も言わずに閉じた。動かない三成に一礼して障子を開けると、そのまま部屋を出て行った。小姓に先導されて黒い影が廊下を曲がり、明かりとともに消えていく。
一人部屋に残されたまま、まだ暫くの間、三成は動かなかった。
ぱたり、と雫がひとつ藤紫の袴の膝の上に落ちた。
『そんな風に生きられる貴方が、ワシは酷く羨ましい』
『三成は強いなあ。眩しいなあ。眩しくて、ワシは―――』
家康の声が鮮やかに蘇る。忘れられるはずの無い、あの眼差しと同じだった。
(いつから)
今ようやっと三成はあの目に浮かぶものがなんだったのかの片鱗を知った。
(いつから、貴様はそんな、)
全てを手に入れている男だと思っていた。
憧憬と羨望の裏で、男は一体なにを手放したのだろうか。
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20131215
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