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翌日の朝、家康は三成の元に現れなかった。
代わりに見覚えのある侍女が膳を用意し、小姓が薬を持ってきた。
今や焦燥に似た左胸の熱はひっきりなしに三成を焦げ付かせるようになった。正体はわからないが原因は明白だ。けれど、三成はもう一度あの楼閣の座敷牢に向かうことはできなかった。あの陽光のような光を思い出すとどうしても足が向かない。夜半の幻かもしれないし、見間違いかもしれない。あの時確かに三成は月を背後に立っていたし、格子の影を挟んで家康と相対したのは間違いない。けれどどうしてもあの黄金の光色を幻だとも思えなかった。あれはなにか恐ろしいものだ。暖かく穏やかで遍くに平等である、けれどもそれは三成にとって酷く肌寒く悍ましいものに思えてならなかった。
とうの前からもはや人ではないのだと、耳にこびりついて離れない松永の言に三成の記憶はまざまざとひっくり返されて暴かれていく。家康、貴様はいつから。秀吉の死と同時に奪われたと思った時から、思い返すのをやめて記憶の底に沈めてあったものがまざまざと蘇っていく。戦場、陣屋、鍛錬場、弓場、大坂、通廊、自室、天守、櫓の陰、笑い声、叱責、手の、くちびるの、はだのぬくもり、低く囁く声、それから、それから。
憎悪と共に煙を上げて肺から漏れ出るものが徐々に形を成していく。なぜ、どうしてという言葉ばかりが頭を巡って、結局両の目は家康の姿を探している。

(畏れている筈がない、ならば私はやはり家康を逃すわけにはいかない)

もう一度、あの座敷牢に上ると腹を括ったのは陽が落ちる頃だった。
決まった時刻に促されて湯浴みから戻り、自室の障子を開けたところで三成は思わず硬直した。

「貴方でもそういうかおをするんだな」
「……貴様なにをしにきた」

壁に背中を預けて胡坐をかいていた家康は刺すような声音にも怯まずに唇を少し歪めて笑った。傍らの寝具は小姓が敷いていったものだろうが、家康は薬箱もなにも携えてはいない。黒い衣は今宵は蔦の文様だった。渋い銀で染め抜いてあるそれが長く弦を絡みつかせるように、無造作に広がった長い裾を彩っている。
座敷牢へ行く手間が省けたと思うべきか。まさか追い出すわけにもいかず憮然としたまま三成は後ろ手に障子をぴしゃりと閉めた。室内は燭台が灯っている。小姓が寝具を延べる際に足しておいたのか、油は充分に足りていた。灯りを向かいにして家康と向き合うのを避けるのは三成の無意識だったが、床の傍に腰をおろせば家康は壁から離れて三成の向かいにやってきた。
いつもと違う香りが微かに鼻先を掠めて三成は僅かだけ眉を顰めた。麝香の香りだろうか。
いざ対面しても果たしてなにを話すべきか判じかねて三成は口を噤んでしまった。
記憶を戻すにしても具体的な方法など思いつかない。忘れてしまった理由がわかれば考えも浮かぶかもしれないが、それにしたって曖昧模糊としすぎている話だ。例えば、そう、かつての話でも語って聞かせれば思い出すのだろうか。暫時思考を他へやっていた所為で、三成は家康との距離がやけに近いことに気づくのが遅れた。
はっとしたときにはきんいろの目が間近にあった。

「な、」
「ワシでは勃たんのかもしれないが、遣わすおなごもいないのでな」

勘弁してくれと言う家康の手が慎重に三成の頬に触れた。唐突過ぎる流れに動けない三成の、銀色の髪先をそっと掠めるように掬い、耳のあたりに触れてくる無骨で傷だらけの指の感触。暴力的なものや薬を塗る義務的な所作以外の目的で触れられた指の感触に、三成の心臓が変な音を軋ませた。
あまりにも久しぶりすぎるその接触が衝撃で動けなかった。一瞬呼吸を忘れたほどだった。
即座に本気の反撃が来るような三成が動かなかったことをもってか、家康は更に指を進めてきた。掌が頬に触れ指がこめかみを探る。犬猫を撫でるのではない明らかに色を含んだ手つきだ。光色の目が蕩けているような気がするのは嗅ぎ慣れない麝香のせいだろうか。どうしてこんなことになっている。
片膝をついて身を乗り出してきた家康の衣の裾がはだけて、朱の飾り帯の巻かれた狼のような腰が灯火の下にあらわになっているのが目に入る。陰影の落ちた其処にうっすらと残る赤い痕に、三成の脳裏に昨晩の光景が過ぎった。月光に照らされた家康の身体、松永の腕の中で撓る背骨の猥らな陰影と吐息。男の首筋に腕を絡めて目を閉じる横顔。弄ばれるままに揺らす腰の動き。かっと腹の内が燃えて怒りとも劣情ともつかないものが皮膚の下を走った。

「気の進まないことは手っ取り早く片づけるに限るぞ」
「き、さ…!」

しれっと囁かれた言葉に、遅ればせながらことここに至って三成は思い当った。深く考えなくてもわかることだった、昨晩の出来事を踏まえて松永が家康に命じたのだ。だが三成の肝が冷えるよりも先に、腕に込められた力の支点が変わり、二人の身体の重心がずれた。あっと思った時には三成の背中は敷布の上に落ちていた。
天井が見えてのしかかってくる家康の影が三成を蝕のように覆う。酷い既視感に苛まれて四肢が武者ぶるいの如く慄き、覚えのある熱が胸から腹にじわりと滴った。獰猛な気配と触れる腰。男の膝が衣擦れと共に器用に三成の膝を割った。けれど家康の腕は敷布に突かれていて三成の手を握らない。くちびるは触れてこない。
違う。
何が違うのか、なにを欲しているのか三成自身にもわからないが、またも胸を襲う痛みがそれは違うと牙をむいた。
処理だ、と家康の声が言った。三成の脳裏で同じ言葉が蘇る。
これは処理だと最初に言ったのは三成の声だった。
そう、三成は言った。相対していた家康は光の具合で金色に見える双眸を瞠り、ゆっくりと瞬きした。それからああ、そうだな。処理だなと眉尻を下げて微笑った。その方がワシも助かる。
そう言った唇が三成の筋ばった手指に落とされた。無骨な掌が三成の頬を髪を撫でてくちづけをされた。なんの疑問も持たず三成はそれを毎回受け入れた。
理由はそれだけだった。そのはずだった。家康の方から声をかけてくる時もあったし三成から誘うこともあった。なにか暗黙の了解が二人の間にはいつしか出来ていた。くちづけも絡めた指も背筋を抱く腕も名を呼ぶ温度もみんな、処理の一環だ。それで充分理由に足りていた、はずだ。
のしかかるようにして見下ろしてくる家康の姿を見上げながら、三成の脳裏に記憶の光景が重なる。幾度も繰り返したそれと同じだ。なのに三成の身体は慄いた。違う、と胸の内の何処かが否定をしている。これは違う、一緒ではない。
義務的な家康の手指が帯を解きかけたところで三成は我に返った。しゅるりと衣擦れの音が生々しく響く。三成を組み敷く家康の表情は相変わらず冷めている。片手は身体の脇に突かれたまま、三成に触れる気配はない。確かにそんな必要はないはずだった。これは処理行為だ。
けれど、どうしても我慢がならず三成は反射的に拳を上げていた。理屈は通らないが今の家康にそういう風に触れられるのだけは許せなかった。

「どけ!」

がつんと手応えがあって、家康の身体が仰け反った。咄嗟に首を傾けて威力を殺したのは反射らしいが、体勢的に不十分だったらしい。身体の上から退いた家康の黒衣の裾がばさりと翻る。
身を起こした三成に顔を上げた家康は片頬を押さえていたがその表情に怒りの色は無かった。

「……凶王殿はやはり容赦がないな」
「煩い、貴様が私の諾否を聞かんからだろうが」
「ああ、突っ込むのに気乗りせんなら、手か口になるがどっちが希望だ?」
「そういうことを言っているのではない!」

もう一発殴ってやろうか、いっそ刀が無いのが悔やまれる。思わず拳を握る三成の形相に、家康は少しだけ目を瞠りながら殴られた頬をさすった。

「そんなことをする暇があるのなら、とっとと思い出せ。そして私に殺されろ」
「殺されるのなら思い出すのは御免被りたいところだな」
「そうはいかない、貴様が忘れようと私が忘れはしない。その罪が消えると思うな」

殺意が滾る声音で糾弾されて家康は首筋を掻いた。
断罪されるにしても覚えていないのはどうしようもないのだ。例え自分が三成の言うように過去に何か重罪を犯したのだとしても、それがいったい何なのかや真実であるのかさえもわからないままでおとなしく殺される気は、正直あまり起こらない。それで三成の溜飲が下がるならばそれでいいと思えるほど、家康は己に対して諦観もしていないのだ。
覚えていない、けれど、理由があって自分はこの場に居るのだということだけは確信している。そのために家康は松永の言うままに従うことを選んだのだ。己で選んだ以上、三成の為に呉れてやる判断はできない。
刺すような三成の視線を感じながらも家康は溜息と一緒にとすんとその場に腰を下ろした。三成の神経を刺激し過ぎないような距離を取って、向かい合う。三成がしないと言うのならばこれ幸い、さっさと退出したいのは山々だったが、松永に見咎められることがあればその方が面倒くさい。少しは時間を潰すのが得策だった。

「思い出せと言われてもなあ」

あまり真剣味のない返事がまたも気に障ったのか三成は殴った手とは反対の左手を身体の脇に降ろしたままで握った。そういえばこの男はよくこうやって左手を握り締めるなと思う。

(何かの癖なのだろうか)

ふっと興味の様なものが湧く。しかしこの状況で聞いてみてもまともに答えなど返ってこないのは明白なので、家康は口を噤んだ。三成は暫く握っていた左手を少し緩めたあと、絞り出すような声音で問うた。

「貴様が何故易々とあの松永に額づき甘んじているのだ」

いつも何かに耐えるような声音で三成は家康の名を呼ぶ。今までの一方的な罵声とは違う類の科白にく、と家康は片目を眇めた。この男の抱えているものが、例えば家康自身の知らない己が、どういうものなのか。既に卿は選んだのだよ、と松永は言っていた。ならば家康は選んだ道をもう違えることはないだろう。三成が今更なにを言ってもそれに影響されるはずがない。知る必要はないが、知らないままでいる必要もない。無意識に理屈を捏ねようとしてふと思った。

(では、ワシは知りたいと思っているか?この男を?)
「家康、答えろ」

三成の声が一段と低く響いた。背筋がそわりと慄いた。三成の月に似た色味の双眸がひたりと家康を睨みつけている。

「私に対する虚偽も隠匿も許可しない」

言葉に違わず苛烈で妥協を許さない峻厳な眼差しだった。鋭さばかりが際立って己も相手も傷つける、けれど一途で混じり気一つない美しい光だ。痛みを伴う鋭い月の光。血を流すとわかっていて触れずにはおれない目映さに家康はいつしか乾いていた唇をぺろりと舐めた。これは願望だろうか。

(まさか)

そんなはずはないと思い直す。家康は世界に対して不干渉だ。
他には必要なものなどなにもないのだ。





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20131215