第三幕 かごめ




なくしたものを呼び戻す方法を誰が知っているというのだろう。一度去ったものは二度と戻らないのか。
元々形のあるものではないのだから、それこそ雲を掴むような話であり具体的な方法など簡単には思い浮かばない。過去の話をして接触を増やせば或いは、忘れた記憶をこじ開けられるかもしれないが、それは同時に三成にとっては苦痛を伴う諸刃の剣だった。
今更に痛みを畏れることは無い。寧ろ痛みは幸いだ。けれど、三成が家康を前にして感じる夏の日差しにも似た焼けつく様な痛みはなんだろうか。
部屋でもみあった翌日より、膳を運ぶのと傷の手当ては全て家康がおこなうようになった。相変わらず家康が憮然とした様子だが、恐らく松永の命令なのだろう。家康がわざわざあの夜の揉め事を注進したとは考え難いが、松永のことだから己の城で起こった出来事は把握していてもおかしくはない。
毎日決まった時刻に食事の膳を運び、起床の後と湯浴みの後に傷の処置に現れる。相対している時はほとんどが互いに無言だった。交わす言葉など三成にも碌に思いつかない。家康の燃えるように輝きながらも冷えた目を見るたび、ただじりじりと左胸を焼く幻痛ばかりが酷くなるだけだ。主君である松永はといえば最近は気が向いたら姿を見せる程度だった。一人の時もあれば家康を連れている時もあった。
松永は三成を監禁しているわけではない。見張りもなく出入り自由で座敷牢代わりの居室には鍵もない。城内の人間は三成を松永の客人だと思っているらしく、対応は悉くが慇懃だった。用意される食事も湯も着物も不足なく、どこを歩いても今のところ咎められる事はなかった。
城郭内は広く、竪堀や土塁、石垣に堀切などが設けられ、敷地内には庭や複数の建物が配置されている。櫓も見えた。おそらくここが主たる居住場所なのだろう。南に上っていけば本丸と天守が聳えている。出城もあちこちと設けられているようだったが足を伸ばす気にはなれなかった。
恐らく厩で馬を所望して城門を出たとて松永は咎めないのだろう。信貴山は天然の要塞で急峻な山城だったが、独り下山できないわけではない。最初に没収された愛刀さえ気に留めねば今すぐにでも三成はこの城から去ることが出来る。それをせずに留まる理由はもう、一つしかない。そのために考えるだけでも胸糞の悪い梟の城で耐えているのではないのか。自問自答を繰り返し、三成は腰を上げた。



障子をあけると八日月の光が鋭く視神経を刺した。青白い光の撒かれた廊下は丁寧に磨かれ、ひんやりとした感触を残す。三成の黒い影は獲物を探す獣のように長く黒々と廊下に伸びた。
部屋のある離れのような一角から城内の奥へと足を向ける。暗い廊下には半ばまでしか月光は届かない。代わりに足元を照らす燭台が所々に灯っている。 香炉に似た風除けに入れられた灯りは、奇妙な透かし模様を通して三成の足元に影と光を投げていた。
灯りの灯っていない部屋を通り過ぎながら三成はぎょろぎょろと視線だけで周囲を探る。
家康は何処に居るのだろうか。今日は珍しく夕餉の膳を運んできたのは侍女だった。湯の後の傷の処置にも家康は訪れず、代わりに小姓が膏薬を塗り直し包帯を取り替えた。家康と対峙していれば狂おしい程の激情が腹の内を炙って臓腑が煮え滾るのに、三成の両のまなこは家康を探している。
何処だ、何処に居る。
この城での家康の立ち位置は奇妙だった。臣下でも侍従でもないように思える。松永の斜め後ろに膝をつき頭を垂れて言葉を待つ家康の姿は三成の胸を掻き毟ってやまない。何故その梟にやすやすと頭を垂れ、三成ではなく松永の声に耳を傾けるのか。何故その目は三成を見ずに松永を見上げるのだ。のうのうと笑いながらも結局はなにも曲げず、平然と奪い、与え、不遜なまでに気高い貴様はどこにいったのだ。
今宵三成の元に現れなかったのはやはり松永の命だろうか。だとしたら松永の元に居るのだろうか。しかし三成は松永の居室を知らない。この屋敷内に居るかもわからなかった。虱潰しに調べるには複雑で広すぎる城だった。
庭先にたって夜空を仰ぐと、闇に黒々と天守の影が見えた。月の光を受けて昼とは違った様相で黒い瓦が妖しく輝いている。ふと目が離せなくなって、自然と三成の足はそちらへ向かっていた。
屋敷を出て蔵や建物の間を通り抜け、門をくぐる。篝火のそばに立つ門兵が三成の姿を見て一瞬身構えたが、正体に気づくと何もいわずに頭を下げて門を開いた。
木々の間を通り、本丸の門を同じように通過する。最初の建物を通り過ぎて、庭先から無遠慮に上がりこんだが、咎める者はやはり居ない。うっすらと回廊に灯る燭台はやはり先ほどの屋敷と同じような物で、手の込んだ彫り物の紋様が、切り画のように闇を切り取っている。
奥へと進み階段横の部屋を二つ通り過ぎたところで前方にゆらりと火が見えた。暗い廊下の奥からゆらゆらと近づくそれは鬼火の類にも見えたが、そんなはずもない。その証拠に足音と共に設えられた燭台の光の輪のなかに照らされたのは侍従の姿だった。手燭を掲げて歩いてきた男は三成の姿を見るとやや目を瞠ったようだったが、やはり立ち止ると慇懃に一礼して道を譲った。
三成は徐に傍寄ると、通り過ぎるのを待つように頭を下げたままの侍従の前に立ってその襟首を掴み上げた。夜の暗がりの中で三成の形相はさながらもののけに見えたかもしれなかったが、それでも侍従は出来たもので怯えを表に出すこともなく、悲鳴を上げることもない。或いは悪鬼幽鬼の類よりこの城の主の方が余程恐ろしいのかもしれない。

「家康は何処に居る」

三成の最低限の言葉に男は一瞬だけ戸惑ったように瞬きし、それから意味を飲み込んだらしく次にやはり惑ったようだった。

「松永のところか?」
「わかりかねまする」
「では居室は何処だ」
「それは……」
「口止めされているか」
「い、え」
「案内しろ」

怯え以上に逡巡を見せた侍従に拒否の隙を与えず三成は一方的に要求した。狼狽を遮るようにして肩を掴み廊下の真ん中へ押し出す。男の手の中で燭の火が揺れて影が歪んだ。三成の足元から延びる影が奇妙に歪んでやはり悪鬼のような形に見えた。殺気に似た気迫にのまれるようにして、男はふらふらと歩き出した。踏み出した足は震えていたが、無様に廊下の床板を踏み鳴らさなかったのは褒められる。よく躾けられている。
侍従は三成の来た廊下を戻って左に折れ、塗籠の前を過ぎて建物の奥へと向かった。廊下を抜けて正面とは別の戸口へと降りる。静かに開いた扉の向こう、その先に門扉と天守への道があった。
黙りこくったまま侍従は三成を連れて門衛の前を通り過ぎ、四重の楼閣に入った。幾つもの間を通り過ぎ狭い通路を進むと、続く急な階段を上がる。二階を過ぎると下の階はまだあちこち灯りが灯っていたが、上は燭台も少なく殆ど闇に埋没しており、部屋の戸も閉め切られて人の気配はない。ある意味隔離されてはいるのだろう。しずしずと通廊を回り込んで一段と暗い廊下の端に来たところで、案内役は足を止めた。

「どうした」
「これ以上は許されておりませんゆえ」

三成は顔を上げて廊下を見た。燭台のひとつもない暗い廊下が真っ直ぐに続いている。右手の障子は閉まっており明かりも気配もない。どうやら更にこの奥へ進めということか。じろりと半眼のままで男を見遣れば委縮したように視線が伏せられた。

「御容赦の程を、凶王様。ここから先は松永様の御命令ある場合以外は、私どもは立ち入りを禁じられておりますゆえ」
「この先か」
「突きあたりを曲がると少し下って回廊がございます。そこになります」

そう言うと侍従は頭を下げたままあとじさった。頑なさには松永の命令の絶対的な服従が伺える。聞くことだけは聞けたので、もう男には見向きもせず三成は指し示された廊下へと歩き出した。慌てて手燭を差し出そうとするのを受け取りもせずに闇に沈む廊下へと立ち入る。
そこそこの長さの廊下を手探りで進むと壁に突き当たり、そこから右に折れたところに狭い階段があった。空気の流れが変わって下からそよと外気が吹き込んでくる。下方からぼんやりと光が差し込んでいる。月明かりだ。
躊躇いもせず三成は其処を下りた。短い階段はすぐに終わり、月光が零れる廊下に出た。楼閣の露台に面した廊下は見晴らしがよく、木々の梢の間から矢のように降り注ぐ半月の耀きが磨かれた床板を照らしている。
夜風がさやかにそよぐ廊下にもう一歩踏み出したところで、三成は立ちどまった。
その部屋は簡単に言えば牢のようなつくりの部屋だった。
填め殺しの格子は上質の黒檀造りで青白い月光の中、なお暗い漆黒を部屋の中に落とし込んでいる。格子の内側には御簾らしきものが掛かっており、今は鴨居のあたりまで巻き上げられていた。折りからの夜風に宝珠飾りと山吹色の飾り編み房が揺れている。
室内は広く、射し込む月明かりが奥まで届かずに半ば闇に埋もれていたが、それだけでもわかる。燭台はなく、手入れが行き届いた畳の上を照らすのは月光のみだ。薄暗がりの境界に文机や衣桁、空の槍架も見て取れた。
座敷牢はただの牢ほどではないが外部との接触を断つのが常である。窓は設けず周囲を厳重に囲い、施錠する。
しかしこの座敷牢は窓こそないが部屋の一面を格子で解放している。違和感に三成は眉をひそめた。座敷牢というより寧ろこれは……。
そもそも家康当人が少なとも城内では自由に出歩いているようだということを考えれば、家康もまた三成同様に軟禁されているのではないかもしれない。 だが、それにしてはこの部屋の造りは異様だった。
ゆっくりと三成は格子に近づいた。月の光を受けて室内に黒々と格子の影が幾何学の模様を穿っている。閑散とした部屋の中央に転がる人影に目を凝らした。そうして息を呑んだ。探していた姿だった。
寝具を延べるわけでもなく家康は畳の上に仰向けに寝転がっていた。転寝でもしているのか、双眸は閉じられていて、三成の気配に反応して起き上がるどころか目を開ける様子も無い。ただ、呼吸をしているのか疑うほどに静かな呼吸だった。
昔日、櫓の影で寝転がり午睡をしていた家康の姿がこんな時に何故か三成の脳裏に蘇る。



寝返りをうってを抱えたまま石段から転げ落ちた家康が背を向けて座っていた背中にぶつかって、三成は手にしていた竹筒の水を零してしまった。

「気が緩み過ぎだ」

寝ぼけ眼で三成を見上げてきた家康は普段とは違って随分と呆けた顔をしていた。そこで気づいたことがある、家康はいつも笑ったりおどけたり穏やかな顔をしていることが常だったが、あれは気を緩めでいるわけではないのだ。隙が多いように見えてその実、隙など無い男だった。

「貴様、私が来たのに気付かなかったな。此処が飛ぶぞ」

手にした扇子で喉笛を指し示すと、家康は少し目を丸くしてから困ったなと眉尻を下げて笑った。やはりよく笑う男だった。

「なにが困るのだ」
「三成には困る」
「何故私だ」
「お前相手だとどうにも気が緩んでしまうのかもしれん」
「貴様、人の所為にするな」

すまんなあ、と家康はまた笑った。けれど今度はそれを不快だとは感じなかったのだ。自分の所為にされたというのに怒りを感じなかった。寧ろ感じたのは言葉にし難い充足感に似たものだった。結局、三成は何も言わずに手にした書物を捲ったのだった。



しどけなく投げ出された体に纏わりつく長衣が畳の上に広がっている。
しなやかな身体の上に格子の黒い影が網のように覆いかぶさっている。眼前の家康は目を開かない。それは傍に居るのが三成ゆえか。それとも、もはや彼の世界に三成は存在しないからなのか。ずくりと胸が疼くのを三成は唇を噛み締めて耐えた。
家康の黒の衣は広がった裾に深緋の雷紋が描かれていた。染め抜かれた裏地が山吹色でまるで金色の血だまりの中に倒れているようにも見えた。格子を掴んで隙間から覗く。目を開かないことに苛立ちさえ覚えて三成は思わず唸り声を上げた。牙を抜かれたのかそれとも。

「家康……」

唸り声に混じった喘鳴の様なよばい声に、ふと家康の瞼が動いた。徐に口が開く。

「……時間か?」

ぽつりと低く呟いた家康は首だけぱたりと横に倒して格子の方を見た。開いた双眸が月の光に濡れて黄金色に耀く。拠り所なく透明な眼差しは此処にありながらも、なにか遠く途方もなく大きく此処にはない違うものを見ているような眼差しで、三成の背筋は軋んだ。奇妙な焦燥が胸を撃った。此処に居るのは家康だ。けれど貴様は誰なのだ。
家康の目は三成を捉えた筈なのに、微動だにはしなかった。ぱしと瞬きをしてからゆっくりと身を起こして胡坐をかく。億劫そうに首筋を一撫でして家康は逆光に塗り潰される三成の姿を見遣った。

「凶王殿が来る場所ではないぞ」
「黙れ。私に指図をするな」

声を聞く、家康が其処に居ると確信する、そうして三成の名を呼ばず冷めた目が見返してくることに三成は胸の焼けるような苦しみを覚える。憎い、憎かろうとも。けれどそれはなにゆえに。

「貴様はなんだ。己の罪を忘れ私を忘れ、今の貴様はなになのだ。あの時の目をあの熱をあの感情を、貴様を、私を、私に返せ!」

崩壊していくなにかを必死で繋ぎ留めるための咆哮に、家康は無感動な眼差しを瞬いた。
黒々と闇を刳り抜いたような格子の向こう側に坐する家康の姿に、三成の目には光が見えた。目映い太陽の金気だ。それが家康の方から射しこんでくる。 可笑しい、月光は三成の背後から照り輝いていて家康の方を照らしている筈だ。その光の影に塗り潰されているのは三成の方の筈だ。けれど、青白い光をも飲み込むほどの目映い黄金の光が家康の方から射しこんでいる。その所為で家康の姿がよく見えない。真っ黒でなにも見えないのだ、彼が一体どんな表情をしているのかもほんとうはどんな目をしているのかも。それがもどかしくてくるおしくて三成は―――。

「見事だとは思わないかね、凶王」

すう、と怜悧な刃を音もなく心臓に刺し込むような声音だった。背後から低く穏やかな声に刺し貫かれて三成は息をとめた。幻の金気が霧散し代わりに月光が満ちる座敷牢に戻る。青い光に照らされている家康の格子の影を遮る影が三成のもののほかにもう一つ、あった。

「弾正殿」

家康の声は三成ではなく松永を象った。
いつの間にか斜め後ろに立っていた松永が独りごちるように囁いた。

「とてもいびつでとても美しい、稀なる宝。籠の中の陽光だ」

ふざけるなと言おうとして三成の舌は凍りついたように動かなかった。格子に張り付いたまま動けない三成の傍らに松永の気配が近付く。ひたりと松永の長い指先が格子の角を撫でるのがやけに淫靡に影を落とす。萎縮した肺に呼気を入れて、それで漸く舌が動いた。

「ふざけ、るな。陽の光が籠などに込められるか」

呻き声のような三成の反論に松永は片目を少し眇めると面白い物を見るような視線で三成を見下ろした。黒の単衣を纏った肩を格子に凭れさせて、格子の中と外をためつすがめつする。

「卿の言うことは尤もだ。だからこその希代の宝なのだ。悍ましいその矛盾に縛られたままそれを自ら抱き、体現してなお耀く、それが東照だ」

松永は嘯くと格子越しに家康を眺めた。たぐい稀なる蒐集物を愛でるようにじっとりと。その視線が耐え難く許し難く思えて三成は思わず手指に力が籠った。みし、と黒檀の強固な表面が指の形に凹んだ。

「貴様の浮ついた二枚舌で戯れ言で家康を知ったように語るな……!」

殺意さえもが剥き出しになった声に、しかしやはり松永は動じる欠片もなく形のいい眉を顰めて口の端だけで微笑った。

「嘆かわしいな、目映すぎても盲となりうるか。さて、これまでも計算の内か、それとも誤算かな、東照」

言葉の最後は牢の中へと投げられた。何の事を言っているのだというように家康の目が眇められる。

「『かなしい』なあ、凶王よ」

そう言ってそれきり三成から視線を外すと松永は格子の向こう側にもう一度呼び掛けた。

「来たまえ、東照」

松永の長身に纏いつくように練り色の羽織が揺れた。無造作に手を伸ばして彼は格子に触れた。整然とした幾何学の模様が傾き、ぎいと音を立てる。其処は丁度扉になっていてこの座敷牢の出入り口だった。男が少し腰を屈めればくぐれる大きさで格子が蝶番を軋ませて外側に開く。三成は格子を掴んだまま、開かれたそれを凝視した。
松永の声に家康が立ち上がる。ばさりと衣が翻り山吹色が残光のように揺れてすぐに漆黒に隠された。そのまま開いた戸口をくぐって三成の横を通り抜ける。ゆったりと歩き出した松永の背後に控えるように従う家康は三成を振り返らなかった。
開いたままの格子の扉を月影が照らしている。
座敷牢の扉には鍵がなかった。





Next #3-2

20131215