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首を刎ねて臓腑を刻み四肢を膾にしてやりたいと憎悪滾らせていたその相手が眼前に居ながら、手元に刀は無く、肝心の相手には覚えがないという。あまりにも不甲斐なくお粗末だった。憤怒の焔ばかりが己の臓腑を焼き尽くすような心地で、三成はまんじりともせず二夜を過ごした。
いっそ本当に狂ってしまえば楽になれるのかもしれなかった。けれど、楽になりたいわけではない。狂えないことは寧ろ幸いだ。覚えていられるのだから。三成はまだ覚えている。
痛みと同じで三成をこの世へ繋ぎ止める。
何故覚えていないのだと詮のない言葉を繰り返しても現実は覆りなどしなかった。家康の三成を見る目は酷く醒めている。人の魂まで狂わせておいてこうもあっさりと忘れてしまえるものなのか、所詮その程度の重みだったのか、貴様の中では。いや、そんなことがあってたまるか。
三成は燭台の火を睨みつけたまま低く吐息を燻らせた。
閻魔の沙汰に委ねるよりも己の此の手で断罪せねば。そのためだけにここまできたのだ。数多のものを顧みず多くを捨ててただそれだけのために血の川も焦土の平原も駆け続けてきた。それを今更このような形で逃がしてたまるかと思う。
震えを止めるために刀の無い左手を強く握った時、灯りが微かに揺れた。顔を上げれば障子に人影があった。

「失礼仕る」

低く落ちた声に三成は手の震えを止めようとして、失敗した。赦しがたい。声を聞くだけで三成の心臓はこれほどまでに慄くというのに、家康はまるで別人のようにのうのうとしているのか。無視するかと迷ったところで、結局のがすこともできず三成は唸るように入れ、と返した。
つう、と静かに障子が開かれ家康が一礼して室内へ滑り込んでくる。翻った衣は相変わらず漆黒だったが芥子色の染め抜き文様は日月だった。篭手や装具は身に着けておらず、剥き出しの胸元から腹のあたりまでが三成の目からは灯火の影に埋没している。家康は薬箱と手桶を持参していた。詰問するようなきつい三成の眼差しに頓着もせず、あっさりと三成の間合いの内に腰を下ろす。敢えてはかったような遠慮のなさは変わってはいない。

「そう睨まれても、ワシも仕事なのでな」
「どの面を下げてきた」
「今宵の傷の手当てを命じられている。腕を見せてくれ」

言いながらも家康は持参した薬を取り出し、水で絞ってあった手拭を広げる。速やかに作業を開始し問答する気はないという構えに、三成は歯軋りで吐き出す気炎を耐えた。夕餉と湯浴みの後の傷の処置は今までは小姓が入れ換わりで現れていた。何故今この段になって家康が来るのか。やはりあの松永の差し金なのだろうということは見当がつくが、掌で踊らされているようであって不快でしかない。おそらくあの男は三成に家康を差し向けて「観察」しているのだ。
肌を清めて薬を塗り直し、新しい包帯を巻く。淀みなく動く家康の手は慣れている。知りうる限り昔から、傷の処置など自分でしてしまう男だった。徒手空拳の立ち回りゆえ負傷が多い己の両手の傷を、自分で器用に処置しているのを陣屋で見かけたこともある。薬学にも通じ、調合した薬はよく効くと密かに評判だった。三成も政務で数日不摂生をしている時などに勝手に薬湯を差し入れられたりした。
戦場でほうっておいた傷を悪くした三成に、いつになく厳しい顔で咎めたこともあった。傷の手当ても惜しい、もっと秀吉の役にたつためには一人でも多くを屠りたい。そのためになら腕の一本など。三成の言葉に家康は困ったように笑った。何故笑うのだとその時も思った。

「ならばなおのこと三成は自分を大切にしないとなあ。死んでしまっては秀吉殿のお役にもたてなくなるぞ。絆というものは互いが在らねば繋げまい」

傷だらけの手指が薬を塗り、包帯を巻いている。

(互いが在らねば……)

その手を見ながら三成は懊悩する。では何故忘れた。忘れ果てて目を背け、切り捨てることが貴様の選んだ道か。それとも或いは松永の仕組んだ企みか。
ひとつだけ確かなことがある。それはどちらにせよ三成はこれで終わりになど出来はしないのだ。
激情を殺したまま無言でじっと注がれる三成の視線に、微かに家康の眉が寄せられたが、彼は手を止めることもなく傷の処置をおえた。
家康の手が着物を直し、離れる。ふわりと掠めた衣に香の薫ったのが三成の鼻先をかすめた。薬壺や道具を片づける手に相変わらず淀みは無い。
全てを片づけると家康は来た時と同じように形通りの礼をして立ちあがった。ぎろりと睨みあげた三成の視線に、家康はしらりとした一瞥を投げた。あらゆるものを真っ直ぐに受け止め呑み込んで、それでいて三成に対して真っ向から返される燃える眼差しでは、なかった。関心のない自分の世界において与り知らぬものをみるような目だ。確信する、家康の世界に三成は居ない。
ぞっとした。

「それでは失礼する、凶王殿」

引鉄がどれだったのかはやはり三成にもわからなかった。家康がその名で呼ばなかったことかもしれない。正座の姿勢から前触れなく踏み切った足に畳がひしゃげた。伸ばした手が立ち去ろうとした家康の手首を掴み、爪が肉を抉る。体格に違いがあるものを制すには勢いだけでは足りない。軸足を引っ掛けて重心をのせかえ、引き倒す。思った通り手にしていた薬箱を落とさぬように庇った家康の脇腹に肘を入れて、畳の上に叩きつけた。けたたましい音と共に薬壺と箱が転がり、薬匙と皿がぶちまけられる。お構いなしで三成は家康の腹に膝を乗せて押さえつけた。
身を捩った家康の衣の前がはだけて露わになる光景に、耐えられぬものを無理やり耐えるため三成は勢い己の口の端を噛み切った。
ばたりと血斑が家康の鎖骨の上に落ちた。
家康の身体は傷跡が多い。三成もよく知る刀傷や銃痕のあちこち乱れる古傷の他に、一際目を引く他と比べて新しい火傷の痕があった。喉元を中心に右胸と左顎の下まで広がる焼け爛れた皮膚。丁度喉首を掴むような形で五カ所、爪の様なものが深く抉った傷跡がある。紛れもない梟の遺した痕だ。
三成の目の前が真っ赤になって、あの時の関ヶ原の光景が蘇った。悍ましい程の喪失の予感が何故これほどまでに胸を穿つのか。失ったと思ったものは失われていなかった。しかしその実、確かに奪われていたのだ。それは違う、奪うのは私だ!

「そのような目で!私を見るか!」

家康が三成に与えた傷痕はこれほどまでに鮮やかに未だ痛みと熱をもって三成を捕えているというのに、家康には梟の遺した傷跡しか残っていないのか。そんなことを天が赦すのか。得も言われぬ感覚に三成の心臓のあたりがざわついて熱が溢れた。皮膚の下を獣が蠢いている。それが家康を前に牙を鳴らして唸り声をあげている。

「逃げられると思うな、家康!その首は私が刎ねる外にないと思い知れ……!」

家康の目が三成を見上げる。同時に三成の死角で伸ばされた脚がぱしと燭台を蹴った。ぱっと火の粉が散って畳に落ちる。一瞬の隙をついて家康の片手が三成の腕を掴んだ。二人の重心が移動し縺れて手足が解け、離れる。受け身を取って飛び起きた家康の片足が畳を燃した火種を踏み潰して消した。
三成が片膝をついて顔を上げた時には、家康は衣の裾をはたいて障子の端に手をかけたところだった。

「手間をかけさせるな。ワシはそんなに寛大じゃない」
「―――っ、」

三成の様子に一瞥もくれず家康は開いた障子の向こう側に声をかけた。
丁度、家康を呼びに来たのだろう小姓の姿がある。予定の時刻を過ぎたということだ。頭を下げた小姓を手招いて家康は視線で室内を示した。二つあるうち一つの燭台は火が消え、焦げ跡と断裂のある畳の上に薬が散らばっていて酷い有様だ。

「片づけてくれ、これでは凶王殿もやすめない」

家康の声音は何事もなかったように平板に響いた。

「かしこまりました」

松永の城の従者はよく躾けられていて、部屋の惨状を目にしても表情も崩さず無駄口もない。

「家康!」

低く絞り出した三成の声が鞭のように飛んだが、一顧だにせず家康は廊下へと出た。入れ違いに小姓が室内へ入る。後はそれきり任せてしまって家康は暗い回廊を歩き出した。
軒先と庭木の間から雲間に覗く月の様子を覗って刻限を測る。廊下を右に折れたところで暫し、家康はどちらへ向かうか逡巡した。乱れた衣を軽く正してから、腰のあたりの布を少し摘まんで持ち上げてみる。漆黒の布地を更に濃く染めているのは先程落とした薬壺から飛び散った膏薬だろう。独特の匂いが衣に焚きしめてある麝香をかき消している。ふと違和感を覚えて胸元を擦れば生乾きの血痕が手の甲を赤黒く汚した。
月明かりに翳したところで、今度は右腕についた血の滲む爪痕を見遣って、思わずといった溜息が家康の唇から深く足元に落ちた。出来れば侍女のところへ戻って衣を替えて貰いたかったが、逼迫した刻限を考えるとあまり現実的ではない。主君を待たせるかこのままの有様で参上するか、どちらにせよ面倒なことにしかならないのは明白なので、家康は結局悩むのをやめることにした。こういったことについては松永は鷹揚なので、刻限に少々遅れようと特に咎められることはない。家康の懸念はそこではない。ただ、松永の前で余計な隙をつくりたくないのだ。

(弾正殿の前では下手な言い訳など通じんからなあ)

わかっていて敢えて詰るのだ。松永は家康の嫌がる顔を気にいっているらしい。だからこそ家康としては松永がいたぶる口実になるような要素を極力与えたくない。ただそれだけだった。ただでさえ何故かあの主君は家康を三成に嗾けようとしているのだ。家康としては堪ったものではない。覚えのない恨みで命を狙われているだけでも面倒だというのに、火に油を注ぐようにわざわざ此方から接触する道理はない。
三成は綺麗な男だった。高い鼻梁と鋭い眼光が整った顔立ちを引き立てている。けれど纏う気配があまりにも黒々と昏くて、それに気付く者はあまりいないだろう。三成の蒼褪めた月の様な顔はさながら幽鬼のようで、ただその中でぎらぎらと耀く目だけが火のようだった。異形の美を誇る邪神に似ている。触らぬ神にというやつだ。
それにしても松永の酔狂には頭が痛くなる。

(弾正殿といいあの凶王といい、わずらわしいものばかりだな)

もう一度月を見上げると家康は考えることをやめて廊下を右に折れた。松永の居室はこの屋敷の更に南側。此処とは別棟の奥の区画にある。せめて月が隠れる前に辿り着かなければ、今宵は眠れないな思いながら、家康は衣の裾を翻した。眠ったとしてもいつも同じ夢を見るだけなので、大したことではないのだが。眠りに落ちると見る夢は代わり映えしなかったが、憂慮に苛まれることもない。
家康は松永の慰みの鳥だった。
松永の寝所へ向かう家康の足取りは重くもなければ軽くもない。多くのものを殺さねば、こんな場所では生きていけないのだ。





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20130928