第二幕 梟の城
悪夢は酷くなった。
目を閉じると赤と黒の闇が意識を苛んだ。金気は以前よりも強くなり、ひっきりなしに三成の神経を焼いた。狂気の淵に転落する一歩手前で爪先立ち、闇に身を委ねることもできず、かといって光に手を伸ばすことも叶わず宙吊りのままだ。刀が手元にないのが幸か不幸か。血の匂いさえあれば、三成はそのまま足を踏み外すことが出来たかもしれない。しかし狂気の淵に身を投げることを三成の魂は許さない。目覚めては、生きていた家康の姿をまざまざと思い出すたびに舌を噛み切る衝動に耐えた。
あの男が、生きていた!
初日以降、松永はたびたび姿を現したが、何れも家康を連れてはこなかった。意図的なものかもしれない。出される食事も碌に喉を通らず、火傷と傷の痛み以上に心痛にのた打ち回る三成の姿を、まるで蒐集物を愛でるように眺めては去っていく。
六日六晩をそうやって過ごし、月が形を変え始める頃に漸く三成は荒ぶる胸の火を抑え込んだ。再びしっかりと足を踏みしめて自ら障子を開けたのは、七日目を過ぎた午後だった。
山の天候はよく変わるが、最近は穏やかだ。濡れ縁へ出て渡りの廊下を通り、庭の反対側へと足を向けた。魘されて苛まれて空っぽになった思考の果てで結局思ったことはひとつだけだった。何処に居るかはわからないが、とにかくただ家康に会いたかった。殺したいのか詰りたいのか、それとも身を投げうっての懺悔を要求するのか、自分でもどうしたいのか答えは出ていなかったが、そんなものは相対してあの目を見てからでも遅くはない。
信貴山城は松永が所有していた有名な平山城の多聞城と違って、要塞の役割も果たす急峻な造りだった。華美ではなく実戦に特化した機能を有する構造のようだったが、どことなく趣さえあるのは機能美がそうさせるのか、はたまた城主の高尚な嗜好と抜きん出た技術の所為か。
信貴の山の雄嶽から北側に放射状に伸びる六つの尾根上に郭群が配置され、断崖と堀や石垣などで堅牢に守りを固めた難攻な造りだった。地形を有効に活用しながら生活に苦を強いらない、独創的で機能的な普請は見事としか言いようが無い。
一段と高い雄嶽に位置する本丸に聳え立つ楼閣はこの日ノ本の国にて最初に創られた天守であり、四重の高さを備えて未だ青い紅葉の枝葉の間にその黒い瓦屋根を埋めている。規模としては派手で華美に過ぎるかと思われる。だがその実、建造に使われた築城術の高さが伺えるものだった。城主の奇才辣腕の賜物だ。何より唯の威容を示すためのものというわけではない。楼閣からは出城のほか遥か麓の門前町を走る街道から大和の地までを一望できる。有事にはこの山城を要衝の砦とせしめている。
三成はあてどなくふらふらと屋敷内を巡った。生垣、弓場、城郭の向こうには断崖と生い茂る木々の山並み。屋根の間から仰ぎ見れば、南の方角に本丸の城郭が見えた。天守の瓦が黒曜石のように輝いている。
廊下をいくつか曲がり、部屋の横を通ったが咎められはしない。行きかう使用人たち城仕えの者はみな、言葉少なく躾けられているのか、三成の姿を見ても静かに頭を下げて道を譲る。軟禁している事実と反して賓客扱いだ。けれど三成にとってはそんなことはどうでもよかった。
玉砂利や割石、奇妙な色合いの踏み石を敷いた枯山水に似た庭を通りすぎる。そこから回廊を更に左へ曲がったところで、三成は凍りついたように足を止めた。庭先に、人影があった。
黒染めの衣に猩々緋と金の焔紋が禍々しく荘厳にしなやかな背中を覆っている。井戸の端に腰を降ろした家康は僅かばかり俯いて手にした器具を磨いているようだった。剥き出しの逞しい二の腕が水に濡れ、傷痕にまみれた無骨な手指が布を掴んでいる。
豊臣傘下に居た時によく見かけた、馬具の手入れをするのと同じ光景だった。
長い黒衣の裾がぞろりと彼の足元に纏いつき、闇が滴っているようにみえる。
喪失したと思ったものが其処にあった。あれほどに殺したいと渇望していたというのに、その姿をもう一度目の前にして湧き上がる感情に説明をつけられない。三成が望んだものは本当はなんだったのか。立ち眩みをおこして三成は額を押さえた。
視線の先で気配に気がついたのか家康が振り返った。金色にもみえる丸い虎の瞳がくう、と動いて三成を認識する。彼はそのまま手にした道具と布を傍らに置くと立ち上がる。そのまま三成に向かって慇懃に一礼した。
次になにが起こったのか三成自身理解が遅れた。
激しい音がして井戸端に置かれた桶がひっくり返り水飛沫が頬を濡らした。地面に倒れた家康の体に馬乗りになる形で三成は膝をついていた。身体の震えは止まっている。刀を持つ筈の左手が家康の黒衣の襟首を掴んで万力で締め上げていた。
「き、さま……!その態度は何だ!私に言うべきことがあるだろう!」
ぐ、と家康の強い眉が歪む。けれど食いしばった唇から言葉は出なかった。何食わぬ顔をする家康に虫唾が走る。東西の軍は瓦解した。一度は死んだかと思われた。だからといって何も全てが無かったことになどなるわけがない。
「一度死の淵を彷徨ったからといって、貴様の罪が消えるとでも思ったか?逃げられると思っているのか?私が!貴様を!逃がすとでも思っているのかっ!」
喉奥から絞り出すように吐き出した悲鳴のような唸りに、家康は眇めた双眸を瞬いて三成を見上げた。それはあまりにも愕然とするほどの温度差でもって三成の怒りを素通りさせた。
「ワシは貴方になにか失礼を働いたか?」
「な……に、?」
その言葉の羅列の意味が頭に入って来ず、一瞬三成は家康を凝視した。何を言っているのかわからなかったのは其処から読み取れる事実を認識するのを脳が拒否したからかもしれない。酷い悪寒がじわじわと背骨を伝う感覚だった。応えを返さぬ三成に焦れたのかまた少し家康の眉が寄った。再び開いた口から零れ出した言葉に、今度こそ三成は絶句した。
「弾正殿の客人だろうが、謂れのない謗りを受ける気はないぞ」
何かが焼き切れたような幻聴が鼓膜を打った瞬間、三成は右の拳を振り上げていた。一撃、骨の感触を拳に感じる。二回目を見舞う前に襟首を掴んでいた左手を振り解かれて脇腹を蹴られた。後ろに転がって飛び起きた家康の長衣の裾をもはや執念で掴んで引き摺り倒し、片足でその背中を踏みつけた。
まさぐった片手に掴んだ鍛錬用の短槍の柄を振り上げる。逆手に握って逆袈裟から巴を描いて五月雨の如く。足掻く家康の背を、肩を、逆上のままに切り刻む要領で滅多打ちにする。目の前が真っ赤に染まっていた。
「知らぬふりをして私からまた逃げるのかっ!見え透いた嘘で私をまたも謀るか!」
「ぐ、、うっ!」
「秀吉様を殺め、貴様の勝手な野望で御威光に泥を塗り!私を裏切ったその口で綺麗事を並べ!数多の罪を犯し乍ら、更に罪を重ねるか!この簒奪者め!」
三撃目で槍の柄がへし折れた。手元が一瞬狂って、刃を外してある槍の先が吹っ飛び家康のわき腹を掠め、地面に突き立つ。その僅かの隙に家康が反撃に転じた。跳ね上がった強靭な脚が三成を蹴っ飛ばして勢い、飛び起きる。四撃目を見舞おうとして繰り出された突きをかわして、真っ二つになった槍の端を掴んだ男の手は最後に対峙したあの時と寸分違わぬ力強さでもって三成の凶刃を阻んだ。
「すまんがワシは貴方に覚えなど無い」
澄み切ったほどの鋭さで家康は三成を否定した。ぎりぎりと掴んだ槍の柄を挟んで真っ向からぶつかった互いの眼差しに三成はこめかみを引き攣らせたまま息を呑んだ。不敵に不遜に強く燃える瞳は間違いなく家康自身だ。
けれど、その目はやけにひんやりと三成を通り越している。
衝撃に真っ白になった三成の脳裏にあらゆるものが巡った。
家康が私を知らぬという。間違いなく目の前に存在しながら相対する三成を知らぬものを見る目で見ている。あれほどに狂おしく鮮やかに記憶を刺してやまない、泥濘にまみれたあの過去を。凄惨な罪の数々を、知らぬ存ぜぬと言った。三成を見ず三成の名を呼ばず、忘れたと、そう言ったのだ。かつてお前が眩しいと言った声で。お前だからだと言ったあの声で。お前と向き合う瞬間を恐れながらも待っていたと、そう言ったあの同じ声で。
何故。三成は一瞬たりとも忘れたことなどなかった。忘れるはずなど無く、家康を思う憎しみだけが秀吉を失った三成にとってすべてでさえあったというのに。それさえも一方的に踏み躙り消し去ろうとするのか。
なにかが心臓に穿たれた穴から噴出する。ただただ、胸が痛く呼吸が辛い。
(これは、なんだ)
不意に凍りついた場の空気を割り込んだ声が砕いた。
「徳川殿」
声はいつの間にか回廊の階に立っていた小姓のものだった。この城の従者は大概がそうだったが感情を表に出さず常に平板な声音で要件を告げる。今も三成と家康の尋常ならない様子を歯牙にもかけずただ、己の義務を果たすことしかないようだった。年若いその従者は家康の方に視線をやると告げた。
「松永様がお呼びです」
「あいわかった」
家康の返答は至極簡潔だった。行動はさらに簡潔だった。足元に転がる折れた槍の柄を拾い上げると、井戸端の手桶に放り込む。それから取っ組み合いで乱れた衣を軽く片手で直すと、そのまま三成の横を素通りした。最前までの出来事などまるでなかったような様子で、家康はさっさと回廊に上がって立ち去る。
取り残された三成は震えだした身体を支えられずに、その場に蹲った。
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20130928
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