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よく笑みを浮かべる男だったが、その笑顔が気に食わなかったことの印象の方が強かった。
悪い笑みでも卑屈な笑みでもない。彼はまるで陽が照らすように笑うのだ。その笑顔が他者を惹きつけるのだという噂も耳にした。飯炊きの女や足軽や、他家の武将が、色々なところで噂していた。けれど、三成にはそれが何故か癇に障ることが多かった。
何故、そんな風に笑うのかと面と向かって聞いたことがある。三成はそもそも回りくどいことは好まない。はなからわかりあえないと思う相手ならばぶつけることさえしなかった。だから、今思えば家康のそれを面と向かって糾弾した三成はあの男とわかり合いたいと、そう思っていたのだ。
よく喧嘩もしたし手酷くやりあったこともある。けれどあの頃は憎んでいたとは思わない。結局いつも二人一緒に居たのがその事実だ。君が珍しいねと竹中半兵衛に言われたことがあった。そういえばそうかもしれない。無駄だと思った相手には三成は見向きもしない男だった。
それでも腑に落ちないことは幾つかあったように思い出せる。家康はよく笑顔をみせる人懐っこい男だったが、それが全てだと三成にはどうしても思えなかった。それが我慢ならない時があった。でも、皆で幸せに笑っていられるのが一番いいじゃないか、と家康はまた眉尻を下げて笑った。そうすると凛々しい顔立ちが幼く見える。
「三成はもっと笑うといい」
困ったように微笑んで頬に触れてきた家康の傷だらけの手指の感触を、鮮明に思い出す。笑いたくもないのに何故笑うのだと、三成はにべもなく返した。貴様のような笑みは虫唾が走る。何故無理に笑うのだ。追従笑いでも愛想笑いでもない、けれど何処か噛み合わないような家康の柔らかな笑みが三成は嫌だった。
他人の批評が気になるのかと聞けば、三成は気にしなさ過ぎだぞと怒られた。お前は真っ直ぐで淀みなくとても素晴らしいものを持っているのに、周りに理解され難いのがひどく勿体無い。それがワシは口惜しい。そんなことを言う家康の言葉が三成は理解できなかった。
そんなもの、自分が尊崇し敬愛する方達が御存じであればいいのだ。秀吉様と半兵衛様が私という者を理解して下さっているそれだけで十分だ。それに、そんなことを言う家康自身もわかっているのだろう。それで三成は充分だと思っていた。ほかのものは要らない。
「家康、貴様が何故口惜しがる」
頸を傾げた三成の言葉に、暫時、家康は目を瞠った。光の加減で黄金色にも見える強い瞳がくるりと三成を映して、それから光が滲むように歪んだのを、鮮明に思い出せる。
「ああ、三成は強いな。眩しいなあ」
何を戯言を言っているのだと三成は一蹴しただけだったけれど、もうずっと、あの目を忘れられない。胸を突かれるというのはこういうことなのかもしれないと、三成は初めてそういったことを考えたのだ。
(眩しいのは貴様の方だ、家康)
言葉には出さずに睨み返すと首筋を抱かれてくちづけられた。目が眩むような目映さだった。けれどあの光の裏に、何が隠されていたのか三成は知らなかった。秀吉を弑するに足る理由がこの世に存在するとは三成には思えない。あるはずがないのだ。罪を雪ぐに三成は家康を切り刻み苦痛と死で持って贖わせなければならなかった。あれは三成にとって偽りの光だった。そう思った。思わなければならなかったのだ。そうしなければ己を構成する何かが三成の中で壊れそうだった。無意識に蓋をした。だからこそ真実に全てを失った今、三成は今こうやって一方で瓦解していく真実に震えている。
金気が去って赤と黒に塗り潰された緞帳が落ちる。殺したい殺したくない失いたくない奪いたい。憎い殺したいけれどそれは果たして終局か。
同時に目を瞑っていることが耐え難く、三成は双眸を開いた。意識の浮上と共に四肢の感覚と神経が覚醒する速さは、戦場に身を置く者の業のようなものだ。かっと開いた双眸に風景が焦点を結んだ瞬間に飛び起きた。膝をついてそのまま立ちあがろうとしたところで、同時に奇妙な薫香の残り香のようなものが鼻の奥から頭に抜けて眩暈を起こす。堪らず蹲って前のめりに畳に崩れた。
一瞬これは夢なのかと思ったが、崩れ落ちた左肩に激痛が走って嫌でも現実だと思い知ることになった。痛みは幸いだ。三成をこの世に繋ぎとめる。怪我をしているらしい肩を庇って歯を食いしばりながら三成は畳に爪を立てた。一方で伸ばした右手で弄るも指先に探している愛刀の感触は見つからない。
唸り声を上げながら身を起こした三成は自分が見知らぬ場所に居ることに気が付いた。畳敷きのこぢんまりとした室内は殺風景で寺の自室と様子は変わらなかったが、随分と手の込んだ造りだということは見る者が見れば気づくだろう。
(ここは、どこだ)
爆轟と痛みと心臓を抉るような衝動に目の前が真っ暗になって、その先を覚えていない。ずきずきと神経を炙る痛みに歯軋りしながら三成はゆっくりと立ちあがった。肩から腕へかけての痛みは松永の爆破を受けてものだろう。のべてある床を蹴って周囲を見回すが人の気配はない。
纏っている衣は己のもので何も変わりはなかったが、愛刀だけが無い。
趣のある色合いの柱を見上げてふらりと障子に手をかけた。
音も無く滑らかに滑る桟の隙間から零れるように射し込んできたのは少し冷えた朝の冷気だった。体の具合からもそれほど時間は経っていないことがわかる。だとすると一夜が明けたのだということだ。
開いた障子の先に廊下と、御影石のきざはし。続く庭は程良く手入れをされており、風流に曲がった梢が風に揺れていた。土壁の向こうに櫓の影が見える。屋敷、にしてはがっしりした壁造りだ。
履物も無かったが気にも留めず三成は裸足のまま御影石を踏んだ。砂利と苔を踏みしだいて庭へと降りる。足裏に冷たい土の感触がある。庭の先は高い塀に囲まれていた。恐らく塀に囲まれている敷地の端に位置しているのだろう。
塀に出入り口は無く、部屋の周りを巡る廊下に沿って建物を回りこまなければならない。
不意に鳥の鳴き声がして三成は空を仰いだ。明けたばかりの色の薄い蒼穹に鳥の影が見えた。
「あれは信心鳥、のようだ」
脈絡無く忽然と現れた気配とともに背後から声が掛かって、弾かれた様に三成は振り向いた。咄嗟に右手を腰の辺りに彷徨わせて、得物が無いのだと我に返る。
「き、さまあ……どういうつもりだっ!」
「吼えずとも聞こえているよ。卿の憤慨も尤もだが」
気配を消して現れたのは態となのだろう。廊下の端にいつの間にか姿を現した松永は軽く柱に背を預けて立っていた。腰に太刀は無いが、代わりに片手に無骨な扇を持っている。
「気を楽にしたまえ。此処は私の住まいの信貴山城だ」
ぬけぬけと言い放つ松永は他人の神経を絶妙に逆撫でする術に長けているのだろう。その余裕が余計におぞましく苛立たしい。どの口が、と三成は射殺さんばかりの視線で男の整った顔をねめつけた。
「ならば私の刀を返してもらおう。その言葉の真偽を確かめるのは貴様の首を刎ねた後でも充分だ」
殺意そのものの滲んだ低い唸りに、やはり松永は毫も動じない。手にした蝙蝠扇をばちんと片手で閉じると、切れ上がった眦をく、と歪めた。
「ははは、相変わらず苛烈だ。しかし心外だね。私は卿の為を思って此処へ招いたのだ」
「戯けた事を口走るな」
「覚えているかね、卿に預けたものを」
急に松永の声音が一段下がった。風が吹いていないのに枝葉のざわめきがきつくなった気がした。朝にしてはやけに空気を冷たく感じる。耳鳴りの前兆に三成の左手が刀を求めて固く握り締められた。震えが、やまない。
夕陽が大地を焼く関ヶ原の地、あの終焉の光景が脳裏を過ぎる。
「ひたすらに盲信し唯一つを貫き通すのみ、卿の音色は単調で面白みがないと言っただろう。だが私が不純を預けたお陰で、卿に生じた歪みは新たなものを生み出した。それを歓迎しているのだよ」
ただし、と少し言葉を切って松永は興を殺がれた様に柳眉を眇めた。淡く優しく笑んでいながらも松永の浮かべる微笑は酷く寒々しくおぞましい。似ている、と漠然と三成は思う。なにに。だれに。
「無粋な鬼が要らぬ手をかけた。閉ざされた世界で妙なる音色は響かず、磨かれない。だから私はもう少し手を加えようと思ったのだ。ほんの僅かだけだが」
存分に奏でたまえ。そう嘯いた松永の咽笛を掻き切る刃が己の手に無いことに、三成は眩暈に似た激情を覚える。どこまでも虚仮にしている。そう思った。そう思わずには惑わされそうになる。
「貴様は家康を殺したのではなかったのか」
「ああ、確かにある意味殺しはしたかな」
「はっきりと言え」
「焔というものは死と同時に再生の力を司るものだ」
軽く掲げた己の片手を眺めるようにしながら、松永は指先を軽く擦り合わせた。
「私の炎によって東照は人の肉体を脱ぎ捨て再誕した。その稀有な魂に見合う体を手に入れただけだ」
つ、と視線を戻して松永は三成を見下ろした。冷めた眼差しは暗い陽炎の揺らぎで男の本心をはぐらかす、覗かせない。いや、無であるのかもしれない。視線で三成を貫いたまま、松永は口を開いた。
「……東照、おいで」
ひやりと肝が冷えた。瞳孔が開く。脳裏に爆轟とともに蘇った記憶に凍りつく三成を嘲笑うかのように、松永の背後に気配が現れた。
漆黒に赤と金の梵字と水煙紋の染め抜きが美しい黒の長衣の裾を音もなく靡かせて、男が一人姿を現した。白々と明るい朝陽の元で見ても間違いなくよく知った男だった。見間違えるはずも忘れるはずもない、凄惨な悪夢と現実の狭間で幾度も三成はその名を呼んだ。上げた黒髪と秀でた額、精悍な中にある種の懐っこさを感じさせる顔立ちの中で意思の強い双眸が虎のように輝いている。あんな目をする男は彼以外に他に居ない。
生きて、いた。畏れと狂乱をもって三成の心臓は凍りつく。
家康は無言のまま松永のやや斜め後方、間合いぎりぎりに片膝をついた。そのまま軽く頭を垂れて言葉を待つ。完璧に躾けられた犬の所作だった。家康の後ろにもう一人、小姓が姿を現す。当然のことのようにして家康を振り返りもせず、松永は三成を促した。
「夜露に濡れて心地が悪かろう。もう上がりたまえ」
言葉に応じて小姓が携えた桶と手ぬぐいを抱えて濡れ縁に傍寄ると足を拭う用意を始めた。今すぐにでも家康に詰寄りたい衝動と反対に強張る身体を持て余して三成は唸った。松永の視線が有無を言わさぬ強制力を伴って刺し貫いてくる。歯軋りで耐えて御影石を踏み、三成は濡れ縁に腰を下ろす。同時に松永が再び口を開いた。
「東照、凶王の脚を拭ってさしあげなさい」
空気が軋んだと思ったのは三成だけのようだった。松永の言葉に家康は顔を上げると立ち上がり、三成の方へとやってきた。そつのない小姓が揃えた草履に脚を通して石段に降り、躊躇いもなく三成の足元に膝をつく。土まみれの三成の足先を持ち上げる家康の手の感触に三成は眩暈に似たものを覚えて息を詰めた。蹴り倒してしまいたかったのにやはり身体は動かない。次々と襲い来る受け止めるべき事象が許容を超えているのだ。
手甲を外している所為で三成の足を手拭でぬぐう家康の手がよく見えた。拳のみで闘うために傷だらけで、関節が瓦解と癒着を繰り返しいびつに歪んだ、独特の手だ。無骨なその手が存外器用に動くことを三成は知っている。その手が丁寧に三成の足裏の泥を拭い、足指の間の土を取り、汚れを清めている。
(何故、貴様がこんなことをする)
死んだと思っていたはずの貴様が生きていて、何人にもひれ伏さなかった貴様が何故、天敵たる男に頭を垂れ、何故私の前に易々と膝をついている。
けれど罵倒も讒言も怨嗟も腹の裡を巡るばかりで喉から先へとは出なかった。きつく奥歯を噛んでいるため言葉が出ない。食いしばっていないと歯の根が合わぬ程の震えに襲われるからだ。震えを止めるために握りしめるための刀が無いからだ。
三成の足を清めると家康は手拭を手桶の水で洗い絞り、小姓に返して縁側に上がった。そのままじっと柱に背を凭せ掛けて眺めていた松永の傍らに戻り、最前と同じように片膝をついて頭を垂れる。
「では、此方へ朝餉を持って来させよう。暫くゆるりとしたまえ。傷も痛むだろう」
鷹揚に笑って松永は踵を返した。一拍遅れて家康が立ちあがり、その斜め左後ろに付き従う。家康は三成の方を一瞥もしなかった。深く頭を下げて二人を見送った小姓が、障子を開いてのべてあった床を片づけ始める。
それでも暫く三成はその場を動けなかった。
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