第一幕 残影
無意識にぶれる指の震えを止めるために強く鞘を掴む。馴染んだ鞘の象嵌の感触が掌に食い込み、ずしりと重い刃の重量が骨にかかったところで漸く手指の震えが止まる。
この震えは心中に呑み込みきれず溢れた残滓だと三成は考える。左胸の心臓を燃やし続ける激情はまだ、尽きてはいない。尽きてはならない。くべる憎悪の薪は以前と同じで違うのかもしれないが、三成自身に明言できそうにもなかった。
しんと静まり返った居室で独り、三成は刀を握り締めたまま低く呼吸を吐いた。目を閉じれば闇がある。闇を塗りつぶすように赤い色が見える。血の色ではなく火だ。死の黒い手に掴まれた家康を焼く劫火だ。わかっていながら三成はいつも動けなかった。何故、その男の命を奪うのが己の手ではないのだと、叫んでは目が覚める。何度も目の前で奪われそのたびに何度も叫んで、ゆめとうつつの狭間がわからなくなった。溢れかえる憎悪を喪失の絶望が越えた時、いくら呼ぼうとももう応えのない事実をもって、三成は漸く理解した。己は失ったのだということを。
秀吉を喪った時に失くしたものは、かの御方だけではなかったということを今になって三成は気づいた。完全なる喪失で穴のあいた胸の空虚はなににも代え難く、耳鳴のように三成を苛む。果たして己は本当は何に憎悪していたのか。憎悪が燃え尽きて剥がれ落ちていく肉と骨の残骸の間から覗く白骨の、その肋骨の間から溢れ出る真実に震えが止まらない。
裏切りをなによりも憎んだ。けれどそれは何に対する裏切りだろうか。秀吉の死は大きかったけれど、それは複数の中の一つでしかなかった。自分は秀吉のために存在し、豊臣の名の下には己の全てがあり、己にはそれ以外に何もないと思っていた。けれどもしかするとそれは違ったのかもしれない。それを全てと思い込んでいたのかもしれない。
敬愛し尊崇する主君と彼ら豊臣の軍。それ以外の豊臣に敵対するもの。三成の世界にはその二つしか分類がなかった。そこにいつの間にか入り込んだのが家康だったように思う。誰もが畏怖をもって遠巻きに眺める三成の間合いに踏み込み、物怖じすることなくまっすぐな眼差しを寄越した。ぶつかることが多かったが彼はいつも正面から三成の激情の矛先を受け止めた。二人で居る距離をなにものにも変え難いと思ったのは嘘ではなかった。だからこそ。
神とも崇めていた秀吉の弑殺に絶望し、野望の名を借りた身勝手な裏切りに激怒した。全てを奪い去った家康を憎んだ。だが、怒りと憎しみはただそれだけだったのだろうか。家康は三成に多くのものをもたらした。数多のものを与えた手がいともたやすく離された、その事実に対して己はなにを見たのだろう。
怒りに目が眩んで己を見失うなと、孫市が元親に言っていた言葉が今になって三成の心臓に突き刺さった。自分にとってなにが本当に大切だったのだろうか。憎悪に似ていながら違う何かが心臓から溢れかえっていくのを三成は自覚せざるを得ない。ただ、苦しい。強く刀を握る。問い質したくともぶつけたくとも、家康はもう居ないのだ。今ここに至って初めて、三成は自ら知りたいと思った。
梟雄と呼ばれた禍火を連れる男の言葉は何を示していた?
(家康、貴様は何を言いたかった?本当は何を、思って、なにを、みていた)
応えのないことをわかっていながら繰り返す問答に気が狂いそうになる。答えは永遠に失われてしまった。けれど三成はもう考えることを止めることが出来ない。閉じた瞼の裏はいつも劫火の赤と闇の黒と、あと燦然たる一条の金気だ。目を閉じているのが限界に達することで、三成は漸く目を開く。
あたりはやはり静まり返っていた。閉じた障子越しに鳥の鳴く声が聞こえる。
三成の身を寄せている寺は街からは少し離れた場所にあった。田畑の広がる平地を過ぎて小さな村落から続く道を山に分け入ってすぐのところにある禅寺だ。村人が訪れたり時折、街のほうからの参拝者も来るが、それほど多くもない。
住職をはじめとする寺の関係者以外には四国との連絡係を務める元親の部下が一人と、雑賀衆から遣わされている男が一人。酷く静かだ。乱世のざわめきなど夢のように遠ざかった場所だ。けれど、三成の胸の火は消えることはない。轟々と耳の奥で渦巻く音は止むことがない。目を閉じれば赤と黒と金が斑に世界を占め、鋭く研ぎ澄まされたままやり場のない神経の切っ先を苛む。目を開けば物狂おしいほどの空虚が三成の心臓を食んだ。
震えをとめるため刀を握ったまま、三成は午後の遅い光が差し込む室内を見回した。質素な文机の上に開いたままの書簡が所在なげに置いてある。以前に届いた元親からの文だ。定期的に寄越される手紙には聞いてもいないのに四国の様子や海の話、雑賀のことなどが記されている。
今回の手紙には近々三成に会いに来るということが書いてあった。予定の日は今日のはずだったが西海の鬼はまだ姿を現していない。暫く前から海が荒れていると噂があったから嵐のせいで船足が遅れているのかもしれない。
徐に立ち上がると三成は刀を携えたままからりと障子を開けた。
傾きだした陽が簡素な庭を照らしている。青々と茂る枝葉の影が庭石の上に落ちている。まだぼんやりとした輪郭しか描いていないその影を三成はじっと見た。光が強くなればなるほど、影は濃くなる。目映い光は深い闇なしにはいられないのだ。三成には憎悪と障気の闇しかなかった。光ばかりに包まれた家康、貴様は本当はどうだったのだ。
再び襲い来る震えを止めるために刀を握る左手に力が籠る。藤と竜胆の螺鈿と象嵌の少し剥がれた凹凸が、掌の肉に食い込んだ。痛みは幸いだ。赤と黒の狂気に囚われぬよう、三成を現実に繋ぎとめる感覚はもうこれしかない。けれど痛みさえもが家康が三成に遺したものの一つだ。
(貴様はどこまで、私を)
乱暴に障子を閉めると三成は廊下を歩きだした。空虚を埋めるための何かがなければ、このままでは気が触れてしまう。けれど開いた掌に一体何が残っているというのだろうか。年代を刻む手入れの行きとどいた廊下を通り、建物を出る。禅堂の方から読経の声が遠く聞こえてくるのを耳にしながら履物をつっかけ、当てもなくぼんやりと山門の方へと足を向けた。
掃き清められた石段を下っていると、山門の脇に人影があることに気付いた。参拝者、ではない。見覚えがあるような後ろ姿は寺の雲水だった。何するともなしに門へと近づけば、三成の姿に気づいた青年は慌てて深く一礼した。
「石田様」
彼は手に何かを持っていた。袱紗か何かのようだ。上品な墨色の布地に何かの文様が透かし入れられている。
「あの、客人を御見かけになりませんでしたか」
参拝者のことだろうか。無言のまま視線だけで返すと委縮したらしい雲水は困ったように手にした袱紗に視線を落とした。
「先程までいらっしゃった客人だったのですが、忘れ物をされたようで」
三成は先程自室から出てきたばかりで参拝客など知らない。住職のところで話でもしていたのだろうか。ぼんやりと袱紗を眺めたとき、ふと珍しい種の香りが鼻に届いた。香だろうか。しかし抹香の匂いではない、もっと違う、上品だが何処となく不思議な香りだ。
反射的に三成は手を伸ばすと僧侶からその忘れ物とやらを取り上げた。
「石田様?どうされまし、」
「出たばかりならばまだ追いつけるか」
会話にしては粗雑な言葉の羅列だったが、言わんとしたことに気付いたのか慌てて男がまた頭を下げた。その時にはもう見向きもせず三成は石段を蹴っていた。黒のお召し物の背の高い男性でしたと声が背中に降ってきたが、三成は碌に聞いてはいなかった。
ひらりと音もなく山門をくぐって、木々の間を縫うように続く石段を駆け下りる。風と木の葉の擦れる音がして、耳元を掠めた。藤色と銀鼠の衣の裾を捌いて三成は山道を駆け下りた。やけに胸が騒ぐのは久しぶりに寺の外へと降りたからだろうか。外界が近付くとまだ心臓がざわつきだすのか、狂おしいような熱い火が腹の裡を焼く心地がした。
ぐっと迸る呼気を噛み潰して最後の階を飛び降り、まばらな木立の間を抜ける。
ひときわ強く、風が吹いて三成の白銀の髪をなぶる。
田畑は刈り入れにはまだ早く、青い海原のように風の中で穂先を波打たせて遠く広がっている。稲穂の海の間を、埃の立つ道がゆるい陽の光に照らされて村の方へと続いていた。
その道に男が一人、此方に背を向けて立っていた。やや上背のある男だ。墨色と蝋色の衣を纏い、腰に古風な太刀を佩いている。上品な佇まいに対してすうと伸びた背筋に滲む覇気がやけにちぐはぐで、無性に三成の神経を逆撫でた。
寺の客人とはこの男だろうか。胸にふと湧いた奇妙な違和感を持て余して、三成は一瞬声をかけるのを躊躇った。男は背後から来た三成の気配に気づいたのだろうか。歩き出すことなく振り返らぬまま、徐に口を開いた。
「久方ぶりだな、凶王」
直感と衝動が引鉄となる場合、思考よりも筋肉の収縮の方が遥かに速かった。低く響いた声音を聴覚が受容した時には信号が脊髄で折り返し、手指が動いていた。手にした袱紗が宙を舞うのと刹那の差で三成の手が刀の柄に触れた。
瞬きを超える刹那の早業、一条の銀光となった抜き放ちざまの居合いの一閃は頚椎と頸動脈を見事に横断して男の首を刎ね飛ばした。
か、に見えた。
「な……っ」
血煙の代わりに上がったのは耳障りな金属の接触音だった。あらゆる戦場において、弓の弦の撓りよりも速く、種子島の咆哮としのぎを削る必殺の居合いを、にび色に輝く刃が阻んでいた。目にも留まらぬ速さで太刀を抜いた男の暗い火のような切れ長の目を睨み付けながら、三成は息を噛み潰した。拮抗する二本の刃がぎりぎりと悲鳴を上げている。
「健勝そうで何よりだ」
腕一本で凶刃を押し返しながら涼しげな顔をして彼は笑った。力押しで圧しきって打ち払うと同時に三成は後方へ飛び退った。長らく戦場に出ていないというのに体は恐ろしく俊敏に死地の倣いに応じた。四肢は鏖殺の手順を間違いなく覚えている。土埃を蹴立てて踏みとどまった三成の足は震えてはいない。鞘を握る左手も、斬撃の痺れを伴う刀握る右手も、震えてはいない。けれど三成の視界は真っ赤に染まっている。血の色ではない、焔の色だ。あの地で三成の全てを焼き尽くした焔の色だ。
「ま、つなが…アァあ、あ、あ!!」
血を吐くような咆哮に、松永久秀はそよ風を聞くように目を細めただけだった。触れれば切れるような激甚な殺意を真っ向から受けながら、毫も動じない。
「だいぶ趣のある目をするようになったじゃないか。重畳、重畳」
「貴様ァ!何を、しにきた…っ!」
「知れたことだ」
右手に携えた十束剣の切っ先を一度地に向けて降ろした松永はうっそりと笑った。
「預けたものがちゃんと育っているか、気になりはするのでね」
三成の刀は鞘から抜かれたままだ。虚空が歪むほどの殺気を発する男を前に松永の態度は無防備すぎる。侮っているのか挑発なのか、どちらかで意味合いが大幅に違うが三成にはそれを正しく判断する冷静さはなかった。殺したくて、切り刻みたくて堪らない。あの日あの焦土の上で松永が残した傷が疼きだす。
松永は太刀を鞘に納めると形のいい唇を見事な弦月に割った。
「喪失は卿になにを見せた?」
軋んだのは骨の音だったのかもしれない。聴覚がそれと判断するよりも速く三成は地面を蹴っていた。刹那で間合いの八割を侵す。目にもとまらぬ速さで振り抜かれた白刃は首ではなく松永の心臓を貫く筈だった。今度こそ。
だが、切っ先が標的を捉える前に、刹那を更に分断して黒い影が視界を斜にぶちぬいた。
「っ!」
斬り降ろした刃が衝撃と共に止まり、握った手の骨が痺れる。轟、と風が唸った。
競り合う得物の力は均衡して釣り合ったが、それも一瞬。金属同士の削れるような耳障りな音に空気が捩れ、斥力が刀身を伝った。競り負けるか、と感じた瞬間に接触を振り解くように刃を押し戻して、勢いのまま飛び退る。
三成の前に男が一人立っていた。松永を護るように割って入ってきたその男は、軽く腰を低く溜めて両腕を交差させるように顔の前に翳していた。最前、松永の心の臓を咬み破らんとした三成の一閃を阻んだ腕だ。黒鋼に金の紋様が鋳れられた手甲が両腕を覆っている。力強く握られた手指は筋が強く見事だったが、幾重にも凄惨な傷跡で覆われ、いびつに歪んでいる。
ばさり、と風に黒衣が翻った。長く棚引く黒衣の裾には白といぶし銀で流煙紋様が染め抜かれている。黒い袴の裾を飾るのと同じ紋様だ。綺麗に割れた腹筋から締まった腰にかけて、二重に絡みつくように締められた飾り帯は丹色と金。まるで蛇か蠍のようだ。
男は黒衣と繋がった黒の飾り布を頭巾のように目深に被っていた。
「……っ、」
酷い既視感に襲われて三成は数歩よろめいた。
三成と同じくらいの年若い男だ。被り布の影になって顔が見えない。けれど恐ろしいまでの直感が三成の心臓を速やかに穿ち抜いた。刀をしかと握っているのにかたかたと手が震えだす。吐き気を催すほどの既視感に頭がきりきりと痛みを訴える。まさか、そんな、まさか。違う、違うはずだありえない。
「貴様、ああああ!そこを退けえっ!」
怖ろしい予感を振り切るが如く三成は地を蹴った。早く、一刻も早く斬滅せねばならない。惑わされる前に。その顔を見る前に。
残光が虚空を裂いて矢のように間合いを貫いた。戦慄を以て急襲する三成の神速の一閃に黒衣の青年は退かなかった。しなやかな動きで撓んだ身体が跳ぶ。愚風と共に黒い風が間合いを走り、衝撃が三成の手首を襲う。鞭のように撓った蹴りが三成の腕を狙った。咄嗟に鞘で阻む。接触点を軸にぐう、と宙返りを切って逆脚の蹴りが脇腹を撃った。身を捻って衝撃を殺しながら三成は振り抜いた刃を引き戻し、手首を返した。逆袈裟で狙った切っ先を黒金の籠手が弾く。軌跡を追って喉をめがけた追撃を、青年の振り上げた片腕が阻んだ。
松永の声が響いた。
「ご苦労、東照」
ぶわ、と突風が吹いて漆黒の被り布が解けるように脱げた。
言葉と同時に前触れもなく地面に低く身を伏せて膝をついた青年の真後ろに、松永が立っている。軽く掲げた左腕をやや三成に向けて、彼は端正な顔に極上の笑みを浮かべた。
「梟の舞台に差し招かん」
指が鳴った。死線にて鍛え抜かれた本能を以てしても間に合わなかった。それでも咄嗟に身を投げ出したのは僥倖か。大気が爆ぜた。焔の耀きとともに爆轟に突き飛ばされて三成の身体は地面に叩きつけられた。焼け付くような激痛が右肩を襲ったのを最後に、意識が闇に落ちていた。
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