告げた言葉は本心ではあったが裏腹だった。
己の忍耐の無さをこの症状の理由にできるのか、それは逃げなのかアルタイルには自省の余裕はない。ただ、狂おしいほどの苦痛と快楽と共に胸を引き絞るような痛みがあった。背中で重い音をたてて捩れた翼が力なく羽ばたくたびに骨を軋ませる痛みと似て、アルタイルの左胸を掻き毟る幻痛はやまない。
マリクの手に抗えなかったのは己の意思の弱さだった。義務から伸ばされたであろうその右手を拒むべきだったというのに、アルタイルは結局それを振り払えなかった。向き合って男の膝に足を絡めて、肌蹴た衣の前から差し入れられる手指の感触に夢中で溺れる。隻腕になってからも訓練を欠かしてはいないのだろう。マリクの手は剣やナイフを持つ者特有の胼胝でごつごつとしていて、その感触が余計に性感を煽った。陰茎を手で扱かれて二度達したがそれでも症状は治まらなかった。背中の両の肩甲骨あたり、翼の突き破っているあたりからじくじくと溢れだすようにして狂おしいような熱が皮膚の下を巡っているのが、止まらない。或いは己が痛みに対して規格以上の耐性を持っていない体質であったなら、或いはこれは快楽ではなく痛みの方へと天秤が傾いていたのかもしれない。精神が強くなければ、一定の渇望する刺激を与えられなければ発狂に至るかもしれなかった。
「いつからだ」
マリクの問いに必死で理性を引き留めながらアルタイルは吐息の下から返事をした。
ソロモン神殿の件があって、疑似の死と共に降格処分を受けた後からのことだった。大空から失墜したあのとき以来、アルタイルは辛酸を舐めるとともに今まで見えていなかった剥き出しの世界を見ることになった。初めて、世界の意味を考え生きることの意味を考えた。思想と現実、己の心の拠り所を、現実の矛盾と真理の意味を己に問うた。命令のままに力のみにて振るわれる刃ではなく、他者の生と死に干渉するその意味を探るようになって、直面するあらゆるものがアルタイルを苛み、また考えることを求めたのだ。
大鷲はすべてと思っていた大空が虚構のものであると知ると共に、現実の矛盾に懊悩した。
己はどうやってもう一度、飛ぶべきか。はたして何が正しいのか。無知ゆえに空虚であった胸を現実は知れば知るほどに引き裂き、知らなかった感情や思考が苦悩とともにアルタイルの胸に溢れていく。手に握る刃の重みがより重くなる。それでも飛ばねばならぬことをアルタイルは自覚した。まるでそれを体現するように、月に一度、歪な羽根はアルタイルの背を食い破って生えだすようになった。溢れかえる感情と懊悩が飲み込み切れずに背中を突き破り、飛べぬままの翼となって生え出しているかのようだった。
宥めてもそうそう治まらない熱に、顔を顰めたマリクは前を扱くだけでは無理だと判断したのか、アルタイルの肩を掴むと敷布の上にうつ伏せに押し付けた。そのまま腰を持ち上げられたところでアルタイルはその意味に気付いた。駄目だと思う、けれど熱に熟れて熔け始めた思考は次なる刺激を待ちわびて抵抗を須らく放棄した。自然に腰が持ち上がるのを止められずアルタイルは再び唇を噛みきった。
男に身体を拓かれる経験は何度かあった。降格処分を受けてから、周囲からの風当たりは余計にきつくなった。頭一つ飛び出た実力の差は元々憧憬と畏怖を集めるのと同じくらい多くの敵を作っていたのもあった。元々、他人と馴染み難い性格も手伝っていたのだろうと今なら自覚している。アルタイルを目の敵にする輩にとってこの処分は絶好の復讐の機会になった。今、漸くここまで階位を取り戻すまでは、難癖をつけられて複数に屈辱的な暴力を振るわれることも何度かあった。ツケが回ってきたのかもしれない。掌を返すように態度を変えた者もいた。兇刃を振るってしまえばアルタイルの実力ではそれらを斬滅出来はしたが、刃を振り上げることなく屈辱を甘んじて受けたのは、同じ過ちを繰り返さないためだった。
だが、今のこの状況は違う。
マリクの指が腰骨を探る。同性に身の奥を拓かれるという嫌悪と屈辱が微塵も湧き起こらないことにアルタイルは絶望する。その理由は身を苛む劣情の暴走のせいだけではない。相手がマリクだからだ。そして己はこれを望んでいるからだ。
脱ぎ捨てた衣の間に転がっていた常備している傷薬の軟膏の壜をマリクが拾い上げるのを、視界の端に見る。
軟膏を絡めた指が侵入する感触に無意識に腰が揺れた。普段は傷に軟膏を塗る器用なマリクの指先が本来の目的とは違う場所に違う意図で触れてくる。その事実だけで興奮に血がざわめいた。卑猥な水音と共に体内をまさぐる指が徐々に増やされていく。じれったい甘い刺激にまざまざと追い詰められる感覚を耐えようと、アルタイルは一層絨毯を掻き毟った。感覚が鋭敏になりすぎているのも手伝って、ともすれば射精してしまいそうになるのを必死で耐える。と、急に指が抜かれた。喪失の切なさに腰を捩るも、空虚が満たされるのではなく、背後から抱き竦めるように回されたマリクの手が前を掴んできたので、一瞬アルタイルの眼前は真白になった。必死で留まった一線を追い打ちをかけるように耳元に低い声が唸るように響く。深い声音に腰骨が疼いた。
「我慢をしてどうする、お前は馬鹿か」
「ち、がう……そうじゃ、な……、っあ、」
「耐えずに出せ。何時までたっても楽にならんぞ」
「違う、ちが、……マリク、お前の、を……」
呼気の間から絞り出した強請り文句は色気のないものになってしまったが、精一杯だった。イくならマリクのものに突かれてイきたい。優しくされるのは辛い。一方的に与えるばかりで相手を気遣うマリクの手は何処までも慈悲と義務でしかないことを見せつけられるようで、それは背中の傷口の痛みよりも苦痛だった。恐らく己はこの男と対等でありたかったのだ。だからいっそ酷くされてもマリクの欲望のままに好きなようにされたい。自分の中で目的と手段が完全に入れ違っているのを承知でアルタイルは足掻く。あさましい。けれど、苦しくて仕方ない。
「……アルタイル、」
逡巡の暇など与えてやるかとアルタイルは曲がった翼を肘で無理矢理押しのけて、自分の脚の間から腕を差し込むと、後ろからのしかかる体勢のマリクの太腿をまさぐった。長い衣の裾をかき分けて探れば衣の布地の上からでも緩く兆しているのがわかった。それだけがせめてもの救済だ。遠慮なく掴むと鋭く息を呑む音が聞こえる。
「往生際が、悪いぞ…マリク、っ…さっさと寄こせ、っ」
「お前、は…っ」
吐き出されたマリクの吐息が諦観の色に混じって劣情の色が垣間見えただけでもう、アルタイルは救われた。一度手を振り払われて再び敷布の上に突っ伏す。腰を上げたまま込み上げる衝動を必死で捩じ伏せる耳にサッシュベルトを解く鋭い衣擦れの音が蛇の威嚇のように響く。再び腰を持ち上げられて熱く滾ったものを押しあてられる。隘路を押し広げて侵入する質量にアルタイルの強靭な両足が突っ張り、ばたりと羽根が床を叩いた。脳髄を痺れさせるような衝動にもっていかれて、一瞬でそのまま軽く逐情していた。内壁の締め付けにマリクが息を噛み殺す声が色っぽく耳朶を掠めてぞくぞくと皮膚の下を微電が流れ落ちていく。
ゆるゆると動かされるたびにさざ波のように快楽が神経を伝播し、アルタイルの思考と感覚をもみくちゃにしていく。マリクの右腕は腰を支えたままで前に触れられはしなかったが、性器への刺激がなくてもアルタイルは苦痛と紙一重の快楽を掴んで、あっというまに高みに駆けあがることができた。強い星の瞬きのように意識がちかちかと明滅し、愉悦の濁流に飲み込まれそうになる。わざと緩く突き上げてくるマリクは過度の刺激にアルタイルが打ちのめされない様にという配慮だろう。それでも時折、狙ったようにいいところを探る切っ先に翻弄されて、アルタイルはせわしなく脛で床を擦り、敷布を毟った。こんな絨毯ではなく叶うなら、触れたいと思う。背後から貫かれるこの体勢ではマリクの顔もなにも見えない。触れられない。
弱みを深く突かれて視床下部が塗り潰される。達するのと同時に失墜した鳥のようにばたり、ばたりと翼の先が床を叩いた。軋むような音と共に捩れた骨が撓り、羽根の付け根から鮮血が飛沫いて背面にのしかかっているマリクの喉元を赤く濡らした。
「アルタイル、翼を動かすな……、傷が開く!」
「かまわな、い、…っ、う」
「また、お前はそう……っ、」
「―――、っあ、あ。ああ、っ!」
聞きなれたいつもの嘆息と一緒に濡れた感触が項を食んだ。マリクとしては傲岸に暴れる鷲を宥めるためのくちづけだったのだろうが、そのたった一つのキスでアルタイルはまた軽く達していた。きゅうと絞り取るように蠢く内壁の圧迫に不意を突かれてマリクが唸り声をあげて耐える。切羽詰まったその声音に心臓から腹へと劣情が止め処なく渦巻くのを感じながら、くたりと敷布の上にくずおれた。己の血の匂い、翼の痛み、苦痛と紙一重の過ぎる快楽、あらゆるものが揃っていながら断罪は為されていない。アルタイルがこれを歓びと受け止める限り胸を貫く刃は振り下ろされないのだ。罪に罪を塗り重ねてそれでもアルタイルは己を抱く男から離れられない。離れたくなかった。
身を起こさずに絶頂の続きに打ち震える男の腕を、マリクの隻腕がやや乱暴に掴んだ。
「腰を上げろ。少しは協力したらどうだ」
「それは、俺の台詞だ……、この体勢は、嫌だ」
絨毯に頬を押しつけたままのアルタイルの唇から零れた声は自身にとっても思った以上に掠れて床に落ちた。もう一度マリクの溜息が背後から降ってくる。その冷徹さがいっそ憎たらしいなと内心で毒づく。お前も俺のように追い詰められればいいのに。同じように。
「この状況でまだ我儘を言うつもりか……」
未だに症状の抜けていないアルタイルの様子を見下ろしながら、マリクは焦れるように呻いた。月光の中で見事に撓った強靭な背筋と背骨のうねりが、美しく、同時に淫らがましい。あられもない痴態に擦り減り始めている理性の綱を、背を向けている元凶のアルタイルは知らぬばかりだ。
「この体勢じゃないと、翼が折れるぞ」
「お前こそ、協力するんだろう……っ」
「ああ、もう。本末転倒だろう、が……っ」
不自然に途切れた語尾はアルタイルが身体の奥を絞ってマリクの性器を締めつけたからだ。不意打ちのように甘い締めを味わって、目が眩むような感覚に引き摺り落とされそうになる。ついていた膝が砕けそうになって覆いかぶさっているアルタイルの背中に抵触すると、ばたりとまた羽根が床を打った。
「アルタイ、ル!」
「お、れの……剣を」
ずるりと伸ばされた腕の先にクッションの傍に転がる見慣れた剣があった。一瞬意味を汲み損ねたマリクにアルタイルは熱っぽい吐息の下から告げた。
「羽根を、斬り落とせば、いいだろう」
「お、まえは!本当に馬鹿かっ!」
「どうせ三日で、立ち枯れる……。今、斬ろうと同じ、だろう」
「同じなわけがあるか!」
神経の受容が鋭くなっている今、斬り落とせばその痛みは激甚だろう。出血量も予測がつかないし翼の骨格の繋がり方によっては肩や腕の骨まで痛めてしまう可能性も否めまい。アルタイルの傲慢さは今に始まったものではないが、マリクは知っていながら胸の焼けるような腹立たしさに気炎を噛み潰した。そうだ、昔からそうだった。彼の時折己を酷く軽んずるような無謀がマリクは許せなかった。そんなに秀でた輝かしいものを持っているのに、何故それを損なうような振る舞いをするのか、口惜しくさえあった。羨望や嫉妬を超えていたのかもしれない。例えこれはマリクのエゴだとしても。
衝動が左胸のあたりを焦がし、こめかみがかっと燃えた。
「っ」
低く剣呑な舌打ちが聞こえたと思った刹那、急に強く腰を掴まれ引き上げられてアルタイルは息を詰めた。ぐるりと視界が回る。あっと思った時には繋がったまま体位を強引に入れ替えられて、衝撃が性感を遠慮もなく深く抉っていた。
「―――……っ!!あ、……ああぁ、ァあ!」
唐突に快楽のるつぼに叩き込まれて四肢が過度の刺激に引き攣った。明滅するのは視界であるが同時に神経であり悦楽を司る快楽神経の弦だ。引き絞られて放たれぬままに無残にも掻き乱される。身体の内に深く繋がったままのマリクの雄に前立腺のあたりを突かれて目の前が断続的に真っ白になる。生理的な涙と頬にかかる血飛沫で彩られた視界にマリクの顔が見えた。目があった瞬間、再度アルタイルの感覚は飛翔点を凌駕した。熱がだくだくと血管を伝って野火のように広がり、胸の奥で燃える熾火が脳髄を焼き潰していく。
「マリ、ク…っ」
たぶん、初めてまともに見る獰猛極まりないマリクの眼差しだった。普段の冷静さと理性と厳格さの鎧で覆われていない、剥き出しの情動が揺らめく、顔だった。精悍な男くさい顔立ちに浮かぶ表情は劣情を煽り、貪るような眼差しは色に濡れていながら気高く、綺麗だった。
敷布の上に腰をおろしたマリクの上に抱き上げられて挿入の角度が変わった。自らの重みで深くなる交接に総毛立つような快楽の波がせり上がる。急な追い上げに狩られる獲物の心地を覚えて、咄嗟にアルタイルはマリクの肩を掴んだ。
間近に見る男の顔にはじめて、微かな笑みが浮かぶのに見入る。く、と唇の端を吊り上げた笑みは相当に悪い笑顔であったが、再度アルタイルの胸を貫くには充分すぎた。
恐ろしいと思う。友情とそれに過ぎる情愛、信頼、多くのものを彼から手に入れ、むざむざと失った。更には己の失態で彼の左腕と弟の命までをも贖わせておきながら、アルタイルはそれでもまだ渇望しているのだ。許されることなどないとわかっていながら、まだマリクからあらゆるものを奪いたかった。
くらくらと甘苦しい眩暈が脳髄を襲う。絨毯に腕を後ろ手についたマリクの腰に完全に乗り上がる形で、いいように揺さぶられる。ぎりぎりと漲る鋭い悦楽に何度も撃たれて身体の中が、男の物を逃がさぬように絡みつく。おぼれない様に脚を突っ張ってアルタイルはマリクの割れた腹筋に爪を立てた。見下ろせば間近で目が合う。劣情にぎらつく双眸がまるで鏡映しで、心臓がひどく鳴いた。凶悪な顔でく、と笑まれて堪らずに短く吼えた。
「マリク、あ…ああ、」
遠慮がなくなったマリクの動きに夢中で腰を合わせながら、歯を食いしばる。血のこびり付いた唇が酷く乾いて物足りない。べろりと舌なめずりをしたマリクの唇に、昔のように容赦なくかぶりつきたくなる衝動と、アルタイルは必死で戦う。許されないことがまざまざと胸を刺して息が継げなくなる。
アルタイル、と低い声で名を呼ばれる。女のように奥を突かれ捏ねられて心地良さと焦燥に似た胸の痛みに咽んだ。背骨を雷霆が撃ち貫くたびにばたり、と曲がった羽根が暴れて床を打つ。
はたはたと鎖骨の辺りに落ちてきた熱い涙の滴に、マリクは奥歯で呼気を噛み潰した。視界の端に影が躍っている。月光に切り抜かれたアルタイルの影は異形の怪物のように長く床を這っている。視線を上げれば、腰の上に跨って喜悦と苦痛の喘鳴を漏らすアルタイルの姿が、雄々しくも凄艶に目に焼きついた。
無駄なく締まった鋼の鞭のような身体に浮かぶ、筋肉の淡い影。白濁の伝う痕。刀傷、火傷痕、縫合跡。嬌声を噛み殺す唇は鮮血に染まり精悍に整ったアルタイルの顔立ちを凄愴に彩っていた。ぎらつく猛禽の眸を真っ向から見据えて、マリクはまざまざと己の敗北を悟った。
アルタイルの背筋がぎりりと撓る。ばたんと捩れた羽根が床をのたうち、黒々と影がマリクを覆う。美しかった。傷付きながらそれでも飛び立つ孤高の鷲だ。胸を抉られるような衝動にマリクの心臓は軋みを上げる。尊敬があり信頼があった。親愛と友情以上の情があった。彼のあらゆるを凌駕する才能と強さへの羨望も憧憬も嫉妬さえもあった。対等でありたいと願いながら徐々に届かなくなるその差に、己の無力を許せず怒りさえもあった。その全てはまだ此処にある。左腕と弟を奪われた痛みをどうすればいいのか。魘された幾夜の記憶も懊悩も、あらゆるものが胸に溢れたまま、未だにマリクの中から消え去ろうとはしない。
理屈ではないのだ。マリクの心と魂をアルタイルはその鋭い嘴と爪で啄ばみ、引き裂き、飲み下し、骨の髄まで悉く貪る。マリクの身体の上で翼を広げるアルタイルの、強靭な手指が肩に食い込み、掴んで反さない。爛々と光る眸が此方を見ろと不遜なまでの横暴さで強要する。
あの一件から二人の関係は一変した。したと思ったのに、何も変わっていない。立ち去ることも見送ることも叶わずに、啄ばまれるに任せたまま、それを望んでいる。
「マリク」
アルタイルの低い声が呼ぶ。めきりと音を立てて翼が広がり背筋がくうと曲がる。擦り合わされる互いの額と鼻先に月光が滴って血のように頤まで流れ落ちる。血の匂いが甘く漂う。触れそうで触れない距離の唇が囈のように繰り返す己の名を聞きながら、マリクは死のような甘い痛みを左胸に受けた。
三日の夜を経たアルタイルの背中の翼は、枝葉が散るように枯れ、見る見るうちに剥がれ落ちていった。
速やかに塞がりつつある背中の傷を眺めながらマリクは静かに手にした掛け布をその身体に被せた。掃き清められた床に残った僅かな羽毛は全てが現実だと告げている。零れ落ちたようなそれを見つめて、これはアルタイルの抱える業の残滓なのではないかとふと考える。優れた才能と圧倒的な力はそれ相応の重責を要求する。彼の道程は己よりも遥かに険しいものとなるだろう。叶うことならばその背を僅かでも己の手で支えることができたらと、愚かな願いを抱いた。それはまだマリクの中に残っていた。己にその資格はないとして捨てたのだと、思っていたのに。残された右手を見下ろして、苦い笑みに頬を歪めた。この無力な腕はまだ何か出来ることがあるだろうか。
身体を丸めるようにして横たわるアルタイルは眠りについている。クッションに埋もれた短い髪の毛を懐かしさに撫でようと無意識に伸ばしかけた手をとめて、マリクは少し目を伏せた。アルタイルの閉じられた瞼を縁取る長い睫毛を眺めて、静かに身を屈めると傷跡のある唇にそっとくちづけた。まばたきをやめて目を閉じた隙にしか、マリクは触れられない。
「安全と平和を、アルタイル」
聞き取れぬほど微かに囁いて音もなく立ち上がるとマリクは部屋を出て行った。
天井から降り注ぐ朝の光はすがしく平等に遍く注がれている。水飲み場の水盤を流れる心地良い水音と鳥の声だけが後に残った。
静かにアルタイルは目を開いた。低く囁いた声が耳に残って消えない。
そっと指先で触れた己の唇に先程の感触はもう残っておらず、そのことがどうしようもなく胸をついてもう一度つよく、目を閉じた。
鳥葬
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20140724
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