その日訪れた兄弟は報告を終えるとアサシンとしては滅多に表情を表に出さないという習慣を破って、嬉しげに笑うと一礼してみせた。
「お会いできて嬉しかった。貴方に安全と平和を、マリク殿」
「安全と平和を、兄弟。道中気をつけて行けよ」
「はい」
名残惜しげに辞して扉をくぐっていく背中を見送り、天井の入り口から出ていく音を聞き届ける。本日予定で知らせを受けている報告と訪問は全て終了だった。エルサレムの支部は常に忙しない。入り組んだ街区に政治的宗教的な要地という位置づけ、戦乱の色の残る都は平穏とはまだまだ無縁のままだ。教団にとっても重要な地である以上、当然のことだった。
伝書鳩の携えてきた書簡を仕舞ってカウンターを出る。カンテラは一つ。マリクはいつもの手順で戸締りをする。部下の兄弟達が申し出るのを断って自分の手で行うのはけじめの一つだ。立場が変わったとはいえ、此処に居る時はマリクはエルサレム支部の管区長であることに違いはない。
休息をとるためにしつらえられた絨毯とクッションを整えて、奥の部屋へと廊下を進む。今宵の来客は派遣されてきた同胞が三人、それぞれ奥の各小部屋で休息を取っている。軽く強張った肩を回しながら、さて自分も休むかと管区長の自室へと向かい、扉を開けたところで思わずカンテラを落としそうになった。いや、正確に言うと床に投げ落として手首に仕込んだナイフを抜こうとしかけた。
「安全と平和を、マリク。いい宵だな」
「……意味がわからん」
「なにがわからないんだ。明白だろう」
寝台の上で胡坐をかいた教団の現大導師は軽く肩を竦めるとマリクの返答をあっさりと一蹴して唇を歪めた。そんなところで立っていないでさっさと入れと、まるで己の部屋のような台詞を吐くあたりに、驕慢とは違う生来の不遜な性質が垣間見えるのは仕方のないことか。溜息といっしょにカンテラを書き物机の上に置くと、少々乱暴にマリクは扉を閉めた。
「明白なわけがあるか。今朝報告書を鳩に託して飛ばしたその相手が俺の部屋に居る、その経緯が意味不明だ」
「お前に会いたかった」
ほら、明白だ。そう平然と言うアルタイルはなんの衒いもなくいっそマリクは腹立たしくなる。早く座れとばかりに自分の隣、寝台の上をばふばふと叩かれて、呆気にとられない人間がいるのならお目にかかりたい。だから此処は俺の部屋だ。寝台に上がりこんでいるアルタイルは周到にも既に武器と装具を解いていた。愛用の剣は手の届く寝台の端に立てかけてあるが、完全にどちらが部屋の主かわかったものではない。
黒い長衣の裾をはたいて寝台の端に腰を下ろす。距離をあけたのは憤慨を表現したつもりだったが、さっさと伸びてきた手にベルトに仕込んだナイフを奪われ隻腕を掴まれて全てが無意味になる。けじめはつけるとばかりに、遠慮会釈なく寄せられた口元を手の甲で押さえて阻止すれば不満の声が上がった。
「マシャフはどうした」
「俺が出向く必要がありそうな暗殺対象は今のところない」
「林檎の研究はどうした」
「やっているさ。慎重を期して今も持ってきた」
「そりゃあ結構だ。そもそも教団の長がふらふらマシャフを抜け出してどうするんだ!」
「だから、お前に」
「アルタイイル!」
相変わらずの辛辣な舌鋒が面倒だが心地良くて、マリクの眉間に皺が寄るたびアルタイルは笑みを零す。大導師になろうと率直な意見をぶつけることができるのはこの男だけだった。同時にアルタイルが本音を吐ける唯一の相手でもある。マリクは変わらない。過ちにより降格処分を受けた時も、同じ年頃の仲間の中で誰よりも早くマスターアサシンになった時でさえ、いつもマリクはアルタイルに対して同じように向き合う。周囲が畏怖を抱く中でもマリクだけは真っ向から己の意思をぶつけ、時に賛同し時に非難した。其処に例え少しの私情が絡んでいようと結局は彼の言葉はアルタイルを思って放たれる矢であった。それに最初に気付いた時からきっと、アルタイルの中でマリクの存在は明らかに自覚を持って一線を画したのだろうと、今ならわかる。
アルタイルの様子に毒気を抜かれたのか、はたまた諦めたのか吐息をついてマリクは口を噤んだ。むすっとしているが表情ほどに怒っていないことをもうアルタイルは知っている。
「あと新しい設計図も幾つかある」
言外に仕事はしているぞと言うかのようなアルタイルの言葉に、マリクは思わず頬が緩むのを慌てて引き締めた。それならば相談したい案件があるから来たと言えばいいのに、建前に使うものが逆じゃないかと思うのだが、アルタイルはいつも取り合わない。寄越せとばかりに手を出したマリクの隻手をアルタイルは後でなと押しのけた。
「気になるだろう。ボウガンの改良型か?」
「ほら、お前はすぐ夢中になるから、後でだ」
少し笑う気配があった。薬指のない男の手が深紅のサッシュベルトの間を探って、少しだけ止まる。まだなにかあるのかと問うたマリクに、少しだけアルタイルの声音が落ちた。
「ああ……手紙が」
抜き出された書簡に眉をひそめてマリクは受け取る。片手で器用に開いて文面に目を落とした彼の、次第に穏やかに緩んだ表情を横で盗み見ながらアルタイルは心臓のあたりを押さえた。いや、疼くのは背中の疵かもしれない。こんなに長く傍に居るのに、アルタイルがまだ見たことのない顔だった。
まったく、大導師に伝書鳩がわりをさせるなんて、あいつは。そう呟くマリクの声は優しくてじわりと背の羽根の痕跡が熱をもつのがわかる。手紙はマリクの細君からのものだ。嗚呼、お前はそんな顔もするのか。思った途端、渇望に喉が干上がる。
「……お前の奥方が羨ましい」
口に出すつもりがなかったのについ声に出てしまっていたのは、この期間特有の理性の緩さか。それともこの男の前だからなのか。独白にほど近いそれを耳にして手紙から顔を上げたマリクは少しだけ瞠目してから呆れたように優しく微笑った。
「お前、あんな出来た奥方を持っていながら何を言っているんだ?まあ、うちのもこんな俺には過ぎたもんだが」
「……そういう意味じゃない。お前はなんで時々物凄く鈍いんだ、マリク」
「は?」
ぼふんとシーツの間に潜り込んでアルタイルは身体を丸めた。不自然に曲がった背中とそれを覆う濃い色のストールにマリクはくっと眉を顰める。アルタイルが身を寄せた時に気付いたほんの微かな血の匂いには充分に覚えがある。
「やはり……お前、またなのか」
「そうだ」
「籠っていられないんだったら奥方に言ったらどうだ。しっかりした息子も居るだろう」
「駄目だ」
昔より頻度は減ったが、数か月に一度、アルタイルの背中には翼が生える。飛べるべくもなく嘗てよりもだいぶ小さくなった、子供の腕ほどの歪な羽根。その数日はいつもマシャフの自室に籠ることにしていた。その期間、其処に出入りを許されているのは未だにマリクだけだ。そのことにマリクは眉を顰める。アルタイルはもう、独りではないのだ。相変わらず運命はこの男に険しい道を強いているけれど、今はもう彼を支え、共に歩む者が居る。
「意地を張るな」
宥めるような叱るようなマリクの声音は、厳しく聞こえてその実、暖かいのだとアルタイルはもう知っている。こんなに与えられ奪い手に入れているのに、自分はまだ足りないのだ。
今回ももう少し待てば、マリクは数日でマシャフに戻ってくる予定だった。それを待たずして敢えてエルサレムまで来たのは、どうせマシャフに戻っても彼は報告だけ済ませて、まず教団ではなく家に戻るだろうからだ。その僅かな時間さえもが惜しくてならない。
「違う、お前でなければ駄目だと、言っている」
「……アルタイル」
時折、どうしてこう致死の一撃を前触れもなく心臓めがけて投げつけてくるのだろうか。暫時息をのんで押し黙ったマリクは翼の残骸のはみ出した毛布を見つめた。己にはまだこの男に与えられるものが残っているのだろうか。あの猛禽の眼差しを無性に見たくなってすっぽりと覆われてしまった掛布に手を伸ばす。けれど、アルタイルが動く方が僅かに早かった。不意に掛布の間から突き出された薬指の無い左手がマリクの衣の裾を掴む。そのまま遠慮もなく股間に突っ込まれる手指に思わずため息をついてからマリクは笑った。
「アルタイル、性急すぎやしないか?」
掛布をはぐってやれば、フードの脱げた砂色の短い髪と、しなやかな首筋が現れる。ぎしりと背中で撓った羽根の軋みと一緒に香った血の匂いが胸を突くのはそれがアルタイルだからなのだろう。覗き込んだ猛禽の双眸は思った通り、眦がやや染まっていて獰猛でありながらも切なる色でマリクに訴えてくる。
身体を折って傷跡の走る唇に唇を寄せても、星のような目は閉じられることなくマリクを見つめてくる。
「少しは目を閉じろ」
「お前が見えなくなる」
頑是ない子供のような口調で甘い楔を胸に穿ってくるアルタイルに、マリクは微かに微笑んで目を閉じるとくちづけた。アズラーイールはまばたきをするごとに人に死をもたらすという。いつかこの男のまばたきがマリクの頭上に死を連れてくるのだとしても恐らく己はそれを喜んで受け取るだろう。マリクの血肉も心も魂も、すべてをその嘴で啄んで貪って、そうして力強く羽搏けばいい。酷かもしれないけれども、そう希うのはもうずっと魅せられて惹かれて堕ちているからだ。孤高の美しいその魂に。
アルタイルの腕に強く抱き寄せられて、隻腕を翼が蟠る男の背中に回す。痛みさえ伴う抱擁が昔日と変わることなく酷くいとおしかった。
或いは、死天使の瞬き
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20140724
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