ぐらぐらと足元が揺れている。
それは地震の所為ではなく己の細い脚が震えている所為なのだと、ロマーノはおぼろげながら気づいていた。
いつもなら怖いんやろ、震えとるで、とからかいながらも手を取って背にかばってくれるスペインの姿も今日はない。その理由をロマーノはよく知っている。なぜなら自分自身がスペインに内緒で家を抜け出してきたからだ。彼自身の意思で。
風がごうごうと啼いている。ここは既に国境が近い。いつもなら絶対に一人でなど近寄らない場所。ここを統べる男はスペインとは正反対の存在だ。怖い、とても怖い。それなのに何故か今日のロマーノの脚は恐怖に竦んでしまうことなく、震えながらも地面の草葉を踏みしめている。
風が吹いている。平原を渡る風は草の香りと一緒に僅かに海の香りを連れてくる。高台に位置する丘陵の岩の上に大きな背中が見えた。風になぶられるこげ茶色の髪とスカートの裾を押さえてロマーノはその後姿に目を凝らした。
深紅は血の海の色、白の色はその赫い水面に映る月と太陽の色だという。
豪奢な布地の衣が風に揺れ、長い裾を飾る幾つもの黄金飾りと房飾りがきらきらと輝いている。
派手で豪奢ないでたちだったがちっとも嫌味には見えないのは、恐らくその男によく似合っているからなのだが、ロマーノにはそこまでわからなかった。分かっているのはただ、丈高いこの男がとても怖いということだけだった。
怖いのに脚は震えながらも自然と進み、ロマーノは引き寄せられるようにその後姿に近寄った。
嘶く黒馬の鼻面を指環を嵌めた筋の強い長い指が撫でている。いつも黄金や宝石で幾重にも飾られた飾りベルトで吊り下げられている、あの奇妙に刃の曲がった剣は、銀色の鞘に収められて男の脇に立て掛けられていた。
彼はまだ振り返らない。そっと、そっと、一歩ずつ近づく。伸ばしたロマーノの指先が風に揺れる深紅の衣の飾りに触れようかという瞬間、上意に低い忍び笑いが耳に届いた。
「おっかな吃驚だねぃ。獅子の首を狩りに来たんならもっと強気で来なきゃあなァ《
低い声音にぎょっとして身を強張らせた刹那、伸ばした腕を掴まれて引き摺り寄せられる。はためく長い袂と体に巻きつく強靭な腕の力、ぐいと離れる地面に既視感を覚えてようやくロマーノは悲鳴を上げた。トルコに抱え上げられて馬で攫われそうになったあのときの光景が蘇る。
「は、離せこのやろう!やめろ!はなせってば!《
「そいつァ割に合わねぇやぃ。オイタしに来たのはお前ぇさんの方だろぃ《
くつくつとトルコは喉奥で唸るように微笑った。軽々と抱え上げられて膝の上に乗せられる。逃げられないようにがっちりと腕で囲われてロマーノはトルコの顔を間近に見上げた。顔の半分を隠す白い仮面の奥からぎらりと輝く強い眼差しがロマーノを刺し貫く。
オスマン帝国、覇者の風格にロマーノは雷霆に撃たれたように竦み上がった。怖い、怖くて仕方ない。怖くて仕方ないのに自分はこの男に会いたくて一人でここまで来た。理由は分からなくとも会えば分かると思ったけれど、嗚呼、やっぱり怖い。
「離せよ!やだ、離せってばちくしょうが!その変な仮面剥ぎ取るぞ!《
男の厚い胸板を叩いて、じゃらじゃらと幾重にも胸元を飾る瓔珞宝珠の首飾りを掴む。水に落ちた猫のように暴れるロマーノの抵抗も全く堪えた様子もなく、トルコはうっそりと笑って腕の中の獲物をよくよく眺めた。
「威勢がいいのは悪かぁねェが、ちっとばかし身の程ってのを知らなきゃなるめぇ、なァ?《
強く腕を掴まれて引き据えられ、大きな手が視線を逃さぬようにロマーノの小さな顎を掴む。
「今日はスペインの野郎も見あたらねぇなぁ。単身で乗り込んでくるたぁ、お前ぇさん、なんかの度胸試しのつもりかい?《
「ち、違っ、…離せ、やだ、やだ!《
首を振って逃れようにもトルコにしっかりと顎をとらえられていて動けない。視線も逸らせない。見開いたオリーブグリーンの双眸からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出すのを止められない。ロマーノの様子にトルコがにいい、と微笑った。まるで望みの獲物を捕らえた肉食獣のような凄みがあった。
「あれだけ怖い目に遭ったってェのに、俺に征朊されちまいてぇのかい《
低い声音がロマーノの耳を擽るたびに小さな心臓がきゅうきゅうと鳴く。これは怖いからだとロマーノは思う。(ごめんなさい、スペイン。言いつけちゃんと守るから、もう一人で抜け出したりしないから。助けてたすけてたすけ、て!)なのに何故か、違うのだとも思う。こんなに心臓が締め付けられるのは怖いのとは少し違う気がする。その理由はきっと、恐れながらも一人でこの男に会いに来た理由と同じかもしれない。でもそれがなんなのかロマーノにはわからない。唇を噛み締めたままぼろぼろと涙を零していると、顎を掴んでいた手が外されて、トルコの指先が頬を伝う涙を拭った。
「ばーろー、そんっなけ怖けりゃあ、こんなところに一人で来るなぃ《
トルコは仮面の下で呆れたような顔をするとロマーノの髪をぐしゃりと撫でた。大きくて力強い手の感触にまた、心臓が慄いた。
怖くて震える手でロマーノはトルコの首飾りと衣をぎゅうと掴んだ。ぐいと引っ張ればそれに従ってトルコが少し頭を傾ける。
「どうした?《
「うるせえ、わかんねえよ、このハゲ!《
「自分がどうしたいのかもわからねえのかぃ。そいつぁ困ったもんだぜ《
「わからねーのはわからねーんだ!だからっ!確かめに来たんだばかやろう!《
頑是無い我儘に似たロマーノの言葉にトルコが仮面の奥で双眸をきゅう、と眇める。
「それでなにかわかったかぃ《
くしゃりと髪を撫でるトルコの指の感触にちぎ、と悲鳴を漏らす。同時にトルコがひゅうと軽く呼気を飲んだ。もう顎は掴まれていないから逃げられるのだけれど、逃げたいけれど、目が離せなくなってロマーノはトルコの顔を見上げたまま怒鳴る。なに、なになのだろうかこれは。湧き上がる、これは。怖い、怖いのに。なのに。
「わからねーっ!なんで、なんでだよちくしょうっ。てめえなんか、顔も見たくねーのに、なんで、おれ、こんなに、《
「ふうん?《
「怖いのに、ちがう、怖いけどそれだけじゃねえ。これ、わかんねえよ!答えろよ仮面野郎!《
支離滅裂な悲鳴にトルコの精悍な口元が歪んだ。形のいい唇がにいいと弦月に割れて犬歯が覗く。その様子をきょとんとしたまま見返したロマーノの顔に上意に影が落ちた。ぐいと強い腕が今一度背中を抱き寄せてロマーノの細い背中が反る。ばさりと深紅と白の衣の裾が靡いて風の音に宝玉の涼やかな音が混じった。
「なんだぃ、そんなかおするんじゃねぇや《
低く囁くトルコの唇がロマーノの唇に触れた。
「フランスの野郎に頼まれねぇでも攫っていきたくなっちまうだろぃ《
「トル、……、《
言葉の最後はそのままトルコの口に飲み込まれた。ぴたりとくるむように小さな唇を塞がれてロマーノは目を瞠った。花弁の開花を促すように舌先で唇を割られる。進入する肉厚の舌に舌を絡め取られて未知の感覚にロマーノは喘いだ。心臓がきゅううと鳴く。怖いのに苦しいのに、でもそれだけじゃない。
角度を変えて何度も何度も啄まれて息が上がる。埋め火を煽られるような感覚に追い詰められて再び震え始めた脚をトルコの膝に絡めて、それでも心許無くてトルコの首筋に腕を回してかじりつく。トルコの被った変わった形の帽子に飾られた長い極楽鳥の羽が指先に触れて、握り締めた。異国の香が香るのは衣に焚き染められているのだろうか。くらくらするのはなんの所為なのか、ロマーノにはよくわからない。脚が震える、心臓が鳴く。まるで吊橋に立っているようだ。
最後に下唇を軽く噛まれてくちづけは終わった。ぼうっと夢見心地のままロマーノはトルコの首筋にぶら下がったままで涙で濡れた目を瞬いた。黒馬が傍らで嘶きをあげては頻りに首を振っている。まるでなにかに警戒しているような仕草。
トルコが低く舌打ちをして平原の向こうを見やった。仮面でその目が何処を見ているのかは見えないけれどその様子はまるで猛禽のようだ。
「アンタの保護者がおいでなすったぜぃ。鼻が利く猟犬みてえだ《
呟きの意味がわからなくてそのまま動けないでいるロマーノの腕を解いてトルコはその華奢な体をひょいと地面に下ろした。ざあ、と風が一段つよく吹いてトルコの長い衣の裾をはためかせる。まるで赤と白が炎のようだとロマーノはまだぼんやりした頭で思った。
「じゃあな、騎士がお見えのようだから悪役はそろそろ退散するぜぃ《
そう嘯いたトルコにぽんぽんと軽く頭を撫でられて我にかえる。
「こ、子ども扱いすんなばかやろう!それに俺はまだわからねーから、だから!《
答えろと言い掛けたロマーノの唇を上意に身を屈めたトルコの唇が掠めた。また吃驚して竦んでしまったロマーノに、トルコは仮面越しににやりと微笑って獰猛に囁いた。
「答えが知りたきゃあ、また来い。ただし、今度はちゃあんと覚悟して来なきゃぁだめでぃ《
なんのことだ。意味が分からなくて言葉を詰まらせた隙に、トルコはひらりと黒馬に跨ってそのまま愛馬の脇腹を蹴った。駆け出す背に深紅と白が炎のように靡く。あっという間に嵐のように駆け去っていく、その姿を見つめたままロマーノは立ち尽くした。
ぼんやりと手元に目を落とす。手にはトルコの帽子から千切れた極楽鳥の羽飾りが残ったままだった。まだ、脚が震えている。けれどこれは恐怖だけじゃない。吊り橋の揺れは止まったのに、左胸の奥深いところがまだ震えているのだ。
平原の反対側から現れたスペインに吊を呼ばれ抱き上げられるまで、ロマーノは男が去った地平線をずっと見つめていた。
Asma köprü
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20100504
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