オリーブグリーンの双眸がまるでペリドットのように見えたのは、痛ましげなものの方が美しく見えるという歪んだ感覚のせいだろうか。美意識なんぞとは無縁のプロイセンだがしかし、確かにその眼差しから目を離せなかったのも紛れもない事実だ。

「……イタリアちゃんのお兄様じゃねえの」

何気なく言った言葉に刹那、ペリドットの双眸に雷霆のようになにかがよぎる。それにまた目を奪われてプロイセンは息を呑んだ。
ヴァルコニーの扉は開け放されて折からの涼風にカーテンが緩やかに揺れている。風と一緒に室内に流れ込んだ陽光の零れる床の上に、ものの見事に散らばった残骸。美しい彩色が描いていたのはおそらくは大海に浮かぶ帆船だったのだろう、波間に映る船首で美女が微笑んでいるのが破片からうかがえる。家主の気に入りの絵皿だったろうか。
掃除機を持つ手指が白くなるほどきつく握り締めたまま、ロマーノは立ち尽くしていた。その姿に違和感を感じるプロイセンの勘は本人も自覚がないが本能的なものだった。
おおかた掃除中に絵皿を落として割ってしまったのだろうけれど、何故こいつはこんな顔をするのだろうか。プロイセンも昔は暴れ者の無体が過ぎて、よく上司の気に入りの帆船模型や絵画を落としたり壊したりしたものだ。それでもこんな顔はしなかったと思う。
こんな、皿一つが割れただけで世界が終わったような絶望的な顔なんて。

「な、に見てんだ、コノヤロー!ぼさっと突っ立ってんじゃねーよ!」

次の瞬間には塗り変えたようにロマーノの綺麗な眉がいつものように吊り上がり、威勢のいい罵声がプロイセンの鼓膜を打った。最前、一瞬だけ見えた表情が嘘のようにかき消えて、そこに居るのはいつものツンツンした気性の烈しい南イタリアの彼だ。

「家の中でまで迷ったのか、ジャガイモ野郎」
「そんなわけねえだろ」
「ふん。スペインの野郎とてめえらのかわいいイタリアちゃんは一階の南の客間だ」

さっさと行けよと邪険に手を振るロマーノのとげとげしい言葉にプロイセンはふん、と同じように鼻を鳴らした。腕を組んでそのまま近くの壁にぎしりと寄りかかり、片足に重心を移す。行けと言われると素直に従いたくなくなるサガを言い訳にして、プロイセンは動かない姿勢をとった。

「……な、んだよ」
「そういうオマエはなにやってんだよ」

逆に切り返せばロマーノの顔に怯む色がよぎる。目が泳ぐ様子にプロイセンは舌なめずりしたい気分になってくる。弟のヴェネチアーノは撫でたくなるくらい可愛いのに、兄のロマーノはなぜこんなにも嗜虐心を煽るのだろう。先程見たオリーブグリーンの目の美しさを思い出して、無意識にその眼差しが屈辱に歪む様を夢想する。

「なにって……な、なんだっていいだろ!」
「解せねえな。弟が来てんのにひとりでなに掃除してんだ。どう考えたって変だろ」

スペインがロマーノは掃除も洗濯もろくにできなくて大変なのだと、よく言っていたのを思い出す。それなのにこんな時にかぎって家事だなんて可笑しい。スペインと喧嘩でもしたのだろうか。適当にあたりをつけてつっついてやればロマーノの顔が歪んだ。

「はっ!ひとん家まで来て客間行くのにも迷ってるジャガイモのが変だっつーの!」

泣くか、と思ったが相手は口の減らない南イタリア。次の瞬間にはこ憎たらしい悪態が叩き返される。泣き虫の癖に人一倍態度のきつい様はねじ伏せたくなるばかりだ。

「俺様が迷うわけねーだろ!このクソガキ」
「じゃあさっさと行けよ!うぜえ!」
「指図すんじゃねえよ。俺様はいつだって一人楽しいからいいんだよっ」

言い返した途端に、何故か今になってロマーノは泣き出しそうな顔をした。く、ときつい眼差しが歪んで緑の目が濡れる。何故このタイミングなのかとプロイセンは眉をひそめた。今日のロマーノはどうしてか違和感がある。

「言いたいことがあんなら言ったらどうだ」
「っ、るせぇ!ひとりだとか、そういうこと簡単に嘯いてんじゃねぇよ……、」
「……はあ?」
「本当にひとりっての、は……っ、クソ!」

ぼろりと零れたロマーノの涙の粒に、思わずプロイセンはうろたえた。なにを泣くのか。ひとりたのしいだなんて、むしろこっちが泣いてもおかしくないはなしなのに。泣かないけれど。
ぎらぎらとした目でプロイセンを睨み据えていたロマーノは視線を外すと背を向けてしまった。ひねたような仕草は相変わらずだというのに、それが酷く痛々しく見えてプロイセンはごくりと喉をならした。馬鹿馬鹿しい、こんな愛想もないロマーノにつき合うより、かわいいイタリアとお茶をする方が何倍も有意義で楽しい。わかっている筈なのに何故かプロイセンはこのまま立ち去れずに彼の背中を睨んだ。

「……おい、」
「……」
「いっつもスペインにくっついてるじゃねえか。独りだとか、なに言ってんだ」
「うるせーこのやろー。てめーにわかってたまるか」

素っ気ない声が床に落ちる。振り返らないロマーノ髪がはらはらと揺れて泣いているようにみえた。プロイセンの位置からは彼の顔は見えないが、泣いているのだろうか。敵に遭遇すればすぐに白旗を振って泣き出すロマーノはよく知っているが、プロイセンは声も出さずに泣くロマーノを見たことがない。考えれば、怒っている顔か拗ねている顔か、大泣きしたり怯えたりしている顔しか、見たことがなかった。
気付いた途端に明確になる渇望に一層、プロイセンはこの場所を一人で立ち去ることが出来なくなる。己が今立ち去れば、ロマーノは独りで泣くのだろう。

「いいから行くぞ」
「ひとりで行けよジャガイモ野郎」
「客人ほっとくなよ。弟だって来てんだし、お前も……」
「だ、から、行けるわけがないだろ!」

鋭い拒絶とともにロマーノの手から掃除機が床に落ちる。がちゃん、と音を立てて落下したそれは砕けた絵皿を更に粉砕してとどめをさした。同時に床の上にぱたぱたと透明な雫が落ちる。

「ロマーノ?」

名を呼びかけたとき、不意に遠くから人の声が聞こえた。階段を上ってくる足音に被って楽しそうな話し声が廊下から響く。ふわふわと花が舞うような声はイタリアだろう。

「ヴェー!スペイン兄ちゃんちのチュロス久しぶりだよ。あれ、好きなんだー!」

頬を緩ませて笑う様が目に見えるような声だ。続いてよく聞き慣れた声がそれに重ねて届く。

「ほんま?嬉しいわー。やっぱりイタちゃんは素直でかわええなあ。誰かさんとは大違いやんなあ」
「ヴェ?」
「イタちゃんがそう言うてくれると親分、元気出るわぁ」

幸せそうにとろけたスペインの声が聞こえた途端にロマーノの最後の堰が決壊するのをプロイセンは呆気にとられて見つめた。声も出さずにぼろぼろと溢れ出す涙に頬を濡らして、嗚咽を噛み殺すロマーノ。あの生意気できつい顔立ちが見るも無残に崩れてあらわれるそのかお。ずくん、とプロイセンの左胸が疼く。なんだこの、痛みは。ずくずくと心臓のあたりが熱をもって締めつけられるように痛む。
大泣きするか怒るかしかしない筈のロマーノの剥き出しのなにかに、プロイセンは戦慄した。

「おまえ、」
「代用品は、出る幕なんてねぇんだ」
「おい」
「俺はあいつの代わりなんだよ。そんなことにも気付いてなかったのかよジャガイモ野郎」

イタリア=ヴェネチアーノの兄、ローマ帝国の忘れ形見のもう半分。本当に欲しがられ愛されるのはいつだって半分で、それが手に入らなかったときの慰め。「イタリア」が欲されているその影で、本当は何が真実かをロマーノは知っている。側に誰が居ても満たされない。本当の意味でロマーノはひとりだ。時が経つにつれて気づいた。差し伸べられる手は嘘ではないけれど、見つめる目はロマーノを通して違うものを見ている。それはまやかしの愛だったのだ。
階段を上がってくる足音が近づいてきて、ぎくりと体を震わせたロマーノはまるで怯えたウサギのように顔を上げて戸口の方をみた。その表情に彼の言葉の意味を嗅ぎ取ってプロイセンは低く呻く。
スペインのロマーノに向ける愛情が本物なのか仮初めなのかプロイセンにはわからない。かの宗主国は確かにヴェネチアーノもロマーノも同じように愛でている。それがどちらが真実でどちらが仮初めなのかは第三者のプロイセンには判断できない。けれど、どちらであったとしても、当事者のロマーノがそれを真実のものだと受け入れなければ成立はしないのだ。
ロマーノはずっとひとりぼっちだ。甘えて媚びを売る賢さはないくせに、己に向けられる愛情が偽りのものだと気づくほどには賢い。代替品に与えられる愛は脆く、それによって得られるぬくもりは苦しいだけだというのに、わかっていてなお、差し伸べられるただひとつの腕に縋るしかできないほど、彼は臆病だ。俺を愛して。俺だけを愛して。怖くて怖くて、強がりだけを口にして、本当のことなど素直に言えないまま無言で叫び続ける愚かで臆病なロマーノ。馬鹿だ、愚かだとプロイセンは思った。

「ロマーノどこ行ったんやろな。せっかくイタちゃんが来てくれたのに、ほんまいっつも間が悪い子やわあ……」

ロマーノ、と名を呼ぶスペインの声が少し大きくなる。びくりとまた震えたロマーノはどうしようかと逡巡して、それから諦めたように目を伏せた。

「、……」

その唇が返事をするために開きかけた瞬間、プロイセンは音もなく床を蹴った。
一瞬で間合いを駆け抜けて腕を伸ばす。掴んだロマーノの腕を引き寄せて抱き込むと、なにが起こったのか判断のつかないらしい彼の顔がすぐ間近に寄せられる。その、今しもスペインの名を呼ばおうとして開かれた唇に、プロイセンは噛みついた。息も止めんばかりに唇を塞いで、半開きの口の中に舌を突っ込む。

「……っ、!」

間近に見開かれるペリドットの眸を覗き込みながら舌を絡めて声を封じ込める。返事なんかさせてやるものかと、思ったのは刹那的な意地の悪い嗜虐心からだけではない。そんな顔をするなら返事をしなければいいと思った。
唇を塞ぎ舌先を噛んで声を奪い、強張るロマーノの背中を抱く。大人しくなったのを確認して唇を離すと、怯えるように強く振り払われた。とっさに拳に握られるロマーノの右手を見てもプロイセンは動じない。殴れるわけがない。怒鳴れるはずもないと、確信しているからだ。

「……っ、!」

案の定、拳を握り固めたままロマーノは殴りかかろうとして踏みとどまり、吐き出そうとした悪罵と怒声を寸前で呑み込んだ。勿論それは廊下から聞こえるスペインの足音のせいだ。見られたくないだろう。皿を割ったうえに真っ赤な顔でプロイセンに殴りかかっている現場など見られたら、理由が理由だけにどう言い訳していいのかわからない。 我慢のできないロマーノのくせに、スペインのことが絡むと必死だ。そんなに見られたくないか、とプロイセンは凶悪な顔でせせら笑う。そうまでして、スペインに見限られたくないのか。彼から与えられる残酷な愛に悲鳴を上げても、それでも偽りのそれが欲しいのか。
ロマーノは馬鹿だとプロイセンは思った。
苦しいのに、逃げ出す勇気も向かい合う勇気もなく、ただ立ち尽くして与えられる腕に必死で縋るしかない宙吊りの爪先が、痛々しくも綺麗で愚かしいと思う。苦しいのならば叫べばいいのに、欲しいならば欲しいと言えばいい。捨てられて独りになるのが怖くて、まやかしでもいいからと緩く抱き締める腕の温もりを振り切れない彼は、ぬるい手慰みの愛情によってスペインに飼い殺しにされている。
望めばいい。ロマーノはちゃんとその魂の奥に鮮烈に輝くものをもっているのだ。それに気がつかないなんて、ロマーノは馬鹿だ。
ぎりり、と睨みつける彼の視線を赤い眼で見返して、プロイセンは足を踏み出した。ごつい軍用ブーツの靴底は無造作に、しかし音もなく床を踏み、動けないロマーノの横を通って部屋を突っ切る。ごう、と開け放したヴァルコニーの大窓から強い風が彼の月色の銀髪をなぶった。振り返る。思った通り同じように振り向いたロマーノの赤く染まった顔が目に映る。涙に濡れたペリドットの眼がきらきらと燃えるように見つめてきた。そう、そんな顔ができるのだ。

「おま、え、ど、いう……、」

押し殺した声で問うロマーノに、プロイセンは片手を差し出した。

「来いよ」
「な、」
「スペインに会いたくねえんだろ?」

びくりとロマーノの肩が揺れる。背後の廊下から聞こえるスペインの呼び声と、近くなる足音。彼はドアの方を振り返り、迷うようにプロイセンの方を見た。
手を差し出したまま、プロイセンは変わらぬ傲慢な態度で繰り返した。

「来いよ」
「あ、憐れみかよ……っ」
「俺はそんなに優しくねーよ」
「プロイセン……っ」
「常に自分に正直なだけだっつの」

俺様が攫ってやる。そう言ってぎらぎらと獰猛に燃える赤い眼は恐ろしい。怖いけれどそこにはスペインのくれるものには決してない、なにかがある。怖いほど真摯な眼差しにロマーノは初めて左胸が突風に撃たれたような衝撃を覚えた。強い風が頬を打って焦げ茶色の髪をなぶる。

「どうして、っ」
「ばっかじゃねえの、お前」
「な、」
「お前はお前なんだから、とわられる必要なんてねえだろ」

瞠目したままロマーノはプロイセンを見つめた。彼自身気付かなかったことを真正面から撃ち抜くその一言。
理解する。この風を己はずっと待っていたのだと、そのときロマーノは気がついた。

「……っ、!」

動けなかった脚を動かしてロマーノは床を蹴った。青嵐のさ中に立つ男の差し出した手を、掴む。掴んだ途端に強く握り返されて引き寄せられる。
あ、と思った時にはプロイセンの腕に担ぐように抱え上げられて、絵皿の散らばった床が見えた。
胸を締め付ける痛みに息を詰めると、プロイセンはロマーノを抱えてヴァルコニーへ出た。軽々と欄干を乗り越えて慣れた猫のように下の芝生へ飛び降りる。突風のように石畳を駆け抜けて瞬く間に門を抜ける。
肩に顔を押し付けたロマーノが小さく嗚咽を漏らした。
そうだろう、なにかを掴み取ろうとするならば、そのために手を離さなければならないのだ。失う痛みに耐えねばなにも望むことは出来ない。だとしたら、その空いた手を己が握ってやりたいとプロイセンは思ったのだ。
しがみついてくる彼の腕の強さにプロイセンは確信する。

憐れみや気紛れならばこの左胸はこんなにも軋まない。








嵐を待っている







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