余韻の残ったけだるく甘い空気が好きだ。その感覚を楽しむようにして、フランスはついと手を伸ばす。シーツの上に流れる鳶色の髪に指を差し入れて梳くと、少し固い髪房がさらさらと指の間をすり抜けていく。名残惜しくてまた髪に指を差し入れて梳く。それを繰り返した。
普段なら触れるや否や振り払われて、威勢のいい罵声の一つも飛んでこようものだが、そんな気配は微塵もなかった。ただ、フランスの指がそっと触れるたびに微かに震える細い肩。それでも、必死にばれないようにしているつもりらしい。こういうところが、ロマーノは愚かで健気で、愛おしい。本能に従ってその髪先をかき分け、項に触れた刹那に隠しようもないくらいはっきりと体が逃げた。

「な、れなれしく触んじゃねー」

険のあるいつものロマーノの罵声は、しかし多分に掠れて色っぽく、迫力の欠片もない。微笑ましいと同時に焦れったさを覚えてフランスは喉奥で笑いを噛み潰した。

「今更でしょ。さっきはちゃんと触らせてくれたくせに」
「あれはあれ!これはこれだっ。調子乗んなバカ!」
「ロマーノに触ってもいいなら、バカでもかまわないな」

ちゅ、と隙を見せたロマーノの髪の間から覗く耳に口づけた途端、拒絶は明らかになった。ぶんと跳ね上がった片腕をあっさり受け止めてフランスは微笑う。

「つっかまーえた」
「てめえ、卑怯だぞっ!」

ぐいと握った手首を引っ張ってロマーノの体をひっくり返す。抵抗虚しくシーツの上を転がって、漸く枕に埋められて見えなかったロマーノの顔が見えるようになる。嗚呼、内心でフランスは感嘆のため息をもらした。
涙の跡が残る赤い眦とは反対に、ぎらついた輝きを宿す淡いグリーンの双眸の鮮烈さよ!ロマーノは可愛いだけじゃないのだとフランスは最近気づいたその事実を確信する。痛々しいゆえに酷く綺麗なものを、ロマーノはその奥底に抱えている。

「触んなよ、ワイン野郎」
「俺は触りたいんだけど」
「もう今は必要がねーだろ」
「必要性の問題じゃないよ」

少しだけ窘めるように返した言葉は、思ったより声が低く落ちた。ぎくりとロマーノの体がまた震える。フランスの殺し切れなかった真剣な声音に、戦くようにぱしぱしと瞬きをして己の体を組み敷く男を見上げる。圧倒的に不利な体勢と力の差。それでも狂おしいまでに勝ち気な瞳は潤みながらも鋭さを捨てない。捨てきれない。
きり、と強くなる手指の力に抗うように、ロマーノの整った唇が毒を吐き捨てる。

「ん、なの、前戯で突っ込むための前準備だろーが。用は済んだんだから必要ねえだろ!」
「色気のないこと言うなよ。だいたいお兄さんはそんな風には思ってないよ」

さっきまで散々フランスに吸われて舐められてとろけた唇で拒絶の咆吼を上げるロマーノが、フランスには愛おしくてもどかしくて、小憎らしくて、たまらない。
頑なに我を張るのは愚かだというのに、わかっていながらそれを止められないのはロマーノ自身の身の上と防衛本能の賜物だろう。融通のきかない恐ろしいほどの意地っ張りに、厚く塗り込められた彼の本心を誰も気づかない。でも、触れたことでフランスは気づいてしまったのだ。

「嘘はいけないな、ロマーノ」
「なに、が嘘だっ」
「触られるの、嫌いじゃないでしょ」

少し強引なくらいがいい。彼の保護者だった太陽の沈まぬ王国の男のような優しさだけでは、ロマーノの手を掴むことはできない。
頑是無いロマーノの体を抱き込んでフランスはその赤い目尻に唇を落とす。髪を撫でてかきあげ、露わになる項の儚さにかり、と牙を立てるとあおのいた喉が無防備にフランスへと晒されるのが、綺麗だ。普段なら誰にも赦されないはずのそれを、赦されることに甘い劣情がフランスの心臓を焦がす。パリの街が燃え上がってもおかしくない。
優しく撫でて腰骨の窪みをなぞり、鎖骨を甘噛みしてはキスをする。そのたびに震えてロマーノは声を上げた。嬌声というには痛々しく悲鳴というには甘く、怒声というには弱々しいそれは、もしかしたら切実な泣き声なのかもしれないとフランスはロマーノの体を抱きながら思う。

「ほら、嫌じゃない」
「や、だ!……お前、は、嫌だ……っ」
「なんで?」
「卑怯だろうが、この変態っ」

いつもの罵声なのに覇気がないのはフランスの腕に抱かれているからか。それくらいは自惚れても構わないだろうか。体を突っぱねようとする手指が爪を立ててフランスの腕や肩に赤い痕を刻んでいく。
それでもフランスは抱く腕を離さなかった。

「なにが卑怯なの?」

そっと耳元に囁くのはわざとだ。

「遊びだ、って言っただろ!」
「うん?」
「だ、ったら!こんなふうに、触るな、っ!」

ただでさえ緩い涙腺を制御できるわけもなく、ロマーノは涙混じりの悲鳴のような罵声をフランスに叩きつけた。なけなしの矜恃で否定していた感情が溢れてしまう。怖い、怖いのだ。ロマーノはフランスが怖い。まだ中世の時代の幼い頃から、フランスが怖かった。頭を撫でて抱きしめてお兄さんとこの子になろうよと囁き、飽きもせずスペインと血で血を洗って南イタリアの国土を欲しがるこの、男が。
あれから気の遠くなるような長い年月が経った。スペインの庇護がなくてもイタリア本土はもう平穏だ。二度の大戦もなんとか過ごしてイタリアは過去の遺産と昔から変わらぬ恵まれた風土のもとに栄えている。世界は一定の均衡を保ち、水面下ではしのぎを削りながらもある程度の安寧を享受している。もう脅威を感じる必要はなくなった。
それなのにロマーノはフランスが怖い。かつてそうしたのと変わらず、髪を撫でて優しい腕で抱きしめて、お兄さんのものにならない?と囁く彼が怖い。

「ロマーノ」

優しく両腕の檻の中に閉じ込められる。怖い。でも、もう怖れる必要はないはずなのに、怖いのだ。
誰にでも愛を語るその声が、ロマーノの名を呼ぶときに不意に真摯な響きをはらむことに気づいたからか。いつもと同じように愛想よく微笑みながらも、ロマーノを見るその碧眼の奥にくすぶるような色が閃くことに気づいたからか。
それとも、肌に触れてくるフランスの手指のぬくもりに自分の左胸が何故か酷く軋むからなのか。

「遊びなんだから、余計なことすんなよ!うぜぇんだよっ」

当然のことなのに言葉にした刹那に吃驚するほど胸が痛んでロマーノは語尾を喉ですり潰した。耐え性のない涙腺が呆気なく決壊するのはいつものことなのに、たまらなく惨めになって涙を零す。
黙ってロマーノの言葉を聞いていたフランスはうん、と頷いた。頑是無い子供の泣き言に優しく頷くのは彼の包容力だろう。それが好きだが嫌いだ。
うん、と頷いたフランスはそうだなと囁いた。

「確かに遊びだな」

わかりきっていた言葉だったはずなのに、実際にフランスの口から聞いたら、何故こんなにも苦しいのだろうか。この痛みのわけがわからないままロマーノは歯を食いしばって嗚咽をかみ殺しながら答えを探そうとした。わからないのはわかりたくないと思っているからだろうか。

「ロマーノが、」

不意にフランスの声が低く落ちた。
僅かだけ。ほんの小さな異変だったけれど、気付けるはずのそれに、ロマーノは一瞬気付くのが遅れた。

「ロマーノが遊びだって言うからね」

フランスのロマーノの腕を掴む手に力が籠もる。はっとして見上げた蒼の眸の奥に燻る色に、ロマーノは竦み上がった。それはずっと恐れているものだ。
しまったと思った時にはいつも手遅れだ。ロマーノはよく、知らないうちに相手の地雷を踏む。自分では気をつけているつもりなのに、許容を越えているらしい。読み違えたり間が悪かったり、何故だろうと思う。距離がはかれない、素直な言葉が出ない。本当はそんなつもりではなかったのに、と、弁明や謝罪のさえもが上手く言葉に出来なくていつも罵声になる。
のし掛かる男の気配に息が止まりそうになる。ごめんなさい、のたった一言が出なくてロマーノはぎゅうと目を瞑って彼の視線を遮った。

「フランス……っ」

唇が触れる。柔らかく耳朶をはむ仕草は優しいのに腕を掴む手指は痛いほどきつく結ばれる。二つの感触にロマーノの心臓は引きちぎられそうになる。止めてくれ、そんな風に触らないで……。

「でも、俺は遊びだなんてつもりはないけどね」

落とされたその言葉の意味がわからなくてロマーノは嗚咽を噛み締めたまま双眸を瞬いた。自分の溢れそうな感情いっぱいいっぱいで、その意味をうまく咀嚼できない。でも本能的に怖いと思う。なにが?フランスの言わんとするその意味が?

「な、に……フランス……っ?!」

絞り出した声はフランスの口に飲み込まれた。唇が軽く擦り合わされたと思った途端にくるむように上唇を食まれ、ぴったりと塞がれた。

「……っ、」

歯列をこじ開けてぬるり、とねじ込まれた舌先が、口腔を侵した。今までの優しさが嘘のような烈しいくちづけに息が止まりそうになる。絡め取られる粘膜と混じり合う吐息に甘い目眩が始まる。苦しくて、気持ちよくて、ロマーノは背筋を強ばらせた。本能的に危険を感じた反射神経が逃げようと体を叱咤するが、身を捩ろうにもフランスの腕がいつにない強さで体を拘束している。いつのまにか片手がロマーノの後頭部をしっかりととらえていて後ろにも引けず、逃げられない。

「ロマーノ……」

名前を呼ばれただけで背骨を伝い落ちる官能に、ロマーノは徐々に己の中のなにかが暴かれていくのを感じて、恐れる。絡まる舌先と触れる指から伝わるフランスの本気に、戦慄する。ずっと遊びだと言ってくれるのが慈悲であろうに、フランスは残酷だ。
偉大なる祖父ローマ帝国の文化や富は殆どが弟に宿った。ヴェネチアーノのように器用でも愛らしくもなく、一番ロマーノに手をかけてくれた宗主国のスペインさえも本当は弟の方が欲しいのだと零した。知っている、愛される資格など己には何もないのだとロマーノはちゃんと知っていた。それを受け入れていたはずだ。それなのに。

「ロマーノ、俺のものになりなよ」

苦しいほど優しい声でフランスはそう繰り返すのだ!遊びだと言ってくれれば、そのたびに震える胸を偽れると思っていた。
なのに、そんな真摯な声音で優しい指先で獰猛なくちづけをされたら、本気だと言われたら。信じてしまう。
淫らな仕草でねっとりと歯茎の裏を舐められて快楽中枢が切なく痺れた。初めてだ、こんなに甘くて苦しくて胸の痛みに息ができなくなるくちづけなんて、ロマーノは知らなかった。

「や、あ、んン、っ……!」
「ロマーノ、かわいい」

塗り重ねるくちづけと呼吸の合間に囁きながらフランスはロマーノの体を抱く。後頭部をとらえていた手で項を撫でて背骨を辿りながら確信する。緊張に強張った背骨が、合わせた唇から差し入れる舌の愛技に溶かされるようにくったりとしなっていく変化に、心臓を絞られるような愛しさと劣情を感じてたまらなくなる。この子は触られるのが嫌なのではなく、慣れていないから怖いのだ。 必死で強がって粋がってはねつけて、弟とは違い甘え方を知らずにただ拒むしかできないロマーノは、本当は寂しがりやでずっと飢えている。無器用なまま拒み続けることしか出来ないその魂は殻に閉ざされたまま。触られるのが嫌なのではなく、優しく触れられることに慣れていないのだ。棘を纏って頑なに振る舞うのは本心の裏返し。そのことに誰よりも先に気づけたことをフランスは運命の女神に感謝した。この痛々しいほどの一途な輝きが愛おしくて渇望している。
最初はただ可愛いから欲しいと、花を愛でるように思っていただけの筈だったのに、流れ流れてゆく時代の中でその事実に気付いてしまった瞬間から願望は欲望に、そして渇望から執着にかわった。欲しいのは「イタリア」ではなく「彼」だ。壊れものに触れるようにそっと触れなければならない。拒絶する爪に何度引っ掻かれても辛抱強く待ち続け、手に入れるためには慎重かつ強引に奪うしかない。こんな愛なんてフランスは面倒だと思っていたはずなのに。

「愛してる」
「っ、……あ、あぁァ、あ、!」

悲鳴を上げたロマーノの手がフランスの肩に縋り、きつく爪痕を刻む。いつもよそよそしく触れるのが嘘のようにつよく、つよく抱きつくその体をフランスは抱きしめる。これほどまでに苦しいのなら愛なんて最初から必要ないと思うのがロマーノならば、苦しいがゆえにそれでも与えたいと願うのがフランスだ。それがこの抱擁の痛みの意味なのだろう。
互いに皮膚の下で燃える焦げ付くような炎を燻らせて、ロマーノが自らこの感情に名を付ける日を、フランスは秘やかに待っている。








これは炎の前日







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20100504