日ノ本の国は礼節を尽くす国だという。だとしたらこれはなんだというのだろうか。冗談ではないとプロイセンは思う。あれだけ与えたものを貪っておきながらただ一言で切り捨てるのか。
元戦闘国家をなめてんじゃねえ。ぎりぎりと牙を磨り減らすほど噛み鳴らしてプロイセンは眼前の古式ゆかしい日本家屋の引戸を睨み付けた。つい先程、眼前でぴしゃりと閉められた戸口だった。
深く息を吸い込んで飴色の木枠を掴み、渾身の力でこじ開けようと試みる。だが、力を込めた途端にそれは再びがらりと開かれた。
対象物を失って行き場の無い力のベクトルに引き摺られたプロイセンは勢い、たたらを踏んでつんのめった。そのままブーツの先が敷居を越える。こんなことでようやく日本の境界に一歩だけ踏み込める。昔とは大違いだ。
顔を上げると冷ややかな黒い眸がじっとプロイセンを見つめている。奥の見えない黒い目はこういうときに狡いと、確か初めて会ったときもそう思った。あらゆる感情を隠匿し有耶無耶にして相手に内心を掴ませない。
最初の頃と同じ、能面に完璧に造った社交辞令の笑みを貼り付けて日本は慇懃に一礼するのだ。そうして己の裡に踏み込ませることは許さない。日本のそれをプロイセンはとうの昔に踏み越えた筈だった。
「あなた、まだいらっしゃったんですか」
能面の顔の中、柳眉を僅かに寄せて日本は冷ややかにそう言った。既に心が折れそうだがそれを矜持と根性で持ち直すプロイセン。
俺様は執拗なんだ。なめんなっつってんだろクソジジイ。
「お帰りください」
「自分で開けたじゃねえか。ようやっと俺様を入れる気になったかよ」
日本の言葉をわざと耳から耳に流してプロイセンは笑った。入りたいのは領域だとか心とか体のナカとかだったりするけれどとりあえず、家に入れなければ始まらない。
「申し上げた筈ですが、ご理解頂けなかったでしょうか」
「ふうん、いい度胸じゃねえか、どの口が言いやがる」
日本相手だと、もう眠って久しくなってしまった筈の、かつて己の本体が大国だった頃の獰猛ななにかが目を覚ます。プロイセンの言葉にく、と微かに日本の目が眇められた。見え隠れするその本音の綾を掠め取ってこじ開けるのに苦労した。もう一度やれというならばやってやろうとプロイセンは思う。思えるのだ。
日本がもう一度口を開く。
「申し上げます。あなたに教わることはもうありません、お引取りください」
その言葉の思いの外の重みにぎいい、と歯を食いしばってプロイセンは踏みとどまった。存外堪える、この俺様が。日本のその一言はつまり、昔にお世話になったときは色々教えていただきましたが、もう利用価値はなくなったので要りません、ということだ。
明治の開国の頃、懸命にプロイセンの後を追いかけてきては教えを請うて、その教えに素直に頷いては未知の知識に目を丸くしていた、あの日本は嘘だったと言いたいのか。
過酷な二つの大戦で、彼はプロイセンの弟であるドイツと同盟を組んでいたが、あの期間はプロイセン自身も本体の状況がままならず、日本とは顔を合わせていなかった。
漸く平穏が訪れても、世界会議ではアメリカとイギリスに挟まれた日本には近づけない。まだ親交があるドイツから様子を聞き、あれこれと画策してようよう再会できたと思ったら、実にそっけない対応。
以前の日本とはもう違うのだと言わんばかりの眼前の日本は、世界を席巻するアメリカの無理難題をのらりくらりと聞き、あるいはかわしながら鎖国とは違う名の引きこもりで独自の領域を囲ってしまっていた。
それでもこれは日本なのだと、時折垣間見えるしたたかな眼差しと精神にプロイセンは確信する。
和洋折衷を極めたイマドキの流行も電脳原色極彩色の珍妙なオタク文化も一時怯みはしたが、順応が早いのは誇るところだ。
食い下がって本宅までやってきた結果、先程の一撃。こんちくしょう今にまた前みてえにアンアン鳴かせてやる。アレは嘘だなんて言わせない。
言葉が通じないと見て取ったか、素早くまた日本は戸を閉めようとした。一瞬早くプロイセンは片脚を捻じ込んでその戸を阻んだ。金属仕込の殺傷力高レベルな軍靴をなめるなかれ。嫌な音を立てて戸が軋んだ。
締まりきらなかったそこに体を更に捻じ込んでプロイセンは日本に近づく。間合いに踏み込んだ途端にきっと日本の視線が強みを帯びてするりとさがった。その色に追い求めていた獲物の足跡を見つけたような心地を覚えて、プロイセンは唇を歪ませた。
嘘ではない、まだ捕まえられる、逃げられない。逃がすつもりもさらさらない。
「人の家の戸を壊すつもりですか」
「そりゃあてめえ次第だろうが」
「お引き取りください」
「そうですかってわけにいかねえんだよ。今更知らん振りできると思ってんのかよ、俺様相手に」
凄みのある赤い視線を真っ向から受けてぎりぎりと日本の視線の温度が上がっていく。しかしそれも束の間。仮面が剥がれるのを恐れるかのように長い睫が伏せられて、直ぐに温度の無い声が喉奥で笑った。
「本当に、あなた無茶苦茶を仰ることは変わっていませんね。もうなにも、でませんよ」
「はあ?」
言葉尻の違和感を嗅ぎ取ってプロイセンは眉をひそめた。どういう意味だ。詰め寄れば初めて日本の黒い目が感情に歪んだ。ぞっとするほどこれが好きだったことをプロイセンは思い出す。
「お引取りください。もう煽てても甘やかしても脅しても騙しても、何も出ません。私からはもうなにも奪えません、手に入らないといっているのです」
「んだよその言い方は」
「残念ながら辛酸をなめて、私もそれ相応に理解は致しました。あの頃の扱いやすい私をお望みならばもう、無理なのですよ。なんでも差し出すとお思いならばお門違いだと申し上げています」
「待てよてめえ、いつ俺様がそんなことを言った?」
思わず声を荒げたプロイセンに引き摺られるように日本の声も鋭くなる。剥き出しになる激甚なそれは、確かに嘗ての日本でしかない。
「ちょっと脅しすかして優しくすれば、心を開いて言うなりだと思っていたのでしょう。残念ながら東洋の猿真似の国でも心と魂はあるのです。何故、何故私があなたに接吻されたりあんなことをされても何も抵抗しなかったと思っているんですか。まだ気づいていないと思われるのならば大した侮辱です。ですからお引き取りくださいと、そう申し上げています!」
反論を差し挟む隙も与えない言葉の鞭に、普段は己の意見も控えて口にしない日本の、裡に抱える苛烈な色がちらつく。それが時折さらけ出されるのがプロイセンは好きだった。そしてそれを日本が露わにするのはプロイセンの前でだけだということが堪らなく嬉しかった。
だが今の言葉は聞き捨てならない。理不尽なことを突きつける日本の言い分に、プロイセンは抑えていたはずの怒りがこみ上げてくるのを感じた。なんということだろうか、そんなつもりでいたことなどないというのに、日本はずっとそう思っていたのだろうか。
一時の火遊びだと、立場の上下で無理強いした関係だと、嘘と虚言で飾った間柄だったと、そう、思っていたというのか。
だとしたら此方のほうが不条理だ。何百年忘れたこともなく、今でもこんなに焦がれているのに、今までのことをそんな勝手に片付けられてはかなわない。
プロイセンは咄嗟に伸ばした腕で日本の腕を掴んで逃げられないように近くの壁に押し付けた。華麗な巴投げも背負い投げも既に昔に体験済みだ、同じ手が通用すると思うな。
だからなめるなっつってんだクソジジイ。反撃の手を尽く封じてプロイセンは獲物を封じ込めた。
「なにを、するんですかプロイセンさんっ!」
「そりゃあこっちの台詞だくそったれ!俺様の純情弄びやがって!」
「なんのはなしですか人聞きの悪い!あなたこそ、私の、」
「うるせえ、お得意の自己卑下も大概にしろや。今になったら自己完結してハイおしまいか!」
ぎりぎりとプロイセンの指が白い日本の手首に食い込む。以前は強くすれば折れそうで握るのも怖かった。
でもそんなことをしていたらまたするりと逃げられる。老獪狡猾なクソジジイは此方の側に引きずり込まなければまた逃げる。たとえ本体が消滅していても現代のぬるま湯に浸かっていても、勝ち逃げを許すほどプロイセン様々は落ちぶれてはいないのだ。
「ふざけんな、クソジジイ。俺様があのときどんだけ苦労しててめえの手を握ったか知ってんのか。接吻までもちこんでセックスまで許されんのにどんだけどんな気持ちでどんなに必死だったかわかんのかコラ!」
間近に見る日本の目が見開かれ唇が震える。奪ったのはどっちだ。奪われたのはどっちだ。
「まだ寄越せるもんあんだろ!てめえの心だろ!俺様のはてめえにやったんだから寄越しやがれ!」
不意にプロイセンの肩を押しのけようとしていた日本の手が動いて銀髪に触れた。その指先が震えていることにプロイセンは気づく。
「なんだよ、日本」
「それは、ほんとうですか」
今更の言葉にプロイセンは泣きたくなる。これ以上どうすればいいのだろうか。無理矢理にキスして抱いてしまえばいいのか。でもそれでは駄目なのだと知っている。
あたりまえだ莫迦野郎と言ったプロイセンの言葉に目を瞬いて、日本は同じように震える声で囁いた。
「……本当ならば、あの言葉を言っていただけますか」
そこで初めてプロイセンはまだ一度たりとも、それを口にしたことがなかったと気がついた。互いに必死すぎていつの間にか抜け落ちていたほんのワンステップ。一番最初にあるべき段階だ。
今更だとプロイセンは思う。だがその一言がないだけで日本を堪らなく不安にさせていたのだと気付く。
震えるほどに不安になるのは、きっと言葉にしなければ互いに抱える心の裡などわかりあうことができない、かなしい「ヒト」としてのさがなのだろう。どんなにあがいても他人の心の中はわからない。どんなに欲しても二つの身体は一つにはとけ合えない。
だからヒトの形を取る限り、互いに想いのたけを言葉にして、身体を繋げあうのだ。
そのたったひとことが心臓を貫いて繋ぎ止める、単純でありながらなによりも大切な言葉。
だったら、足りなかった分までありったけくれてやろうとプロイセンは思った。今度こそ擦れ違って擦り抜けてこの腕から逃げ去ってしまわないように。
「アイシテルぜ。クソジジイ」
こっそり何度も繰り返して覚えた日本語で、その言葉を囁いてやれば、日本は舌っ足らずな彼の母国語で同じ意味の言葉を返してきた。
グングニル
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20100504
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