覇者は去ったか。或いは獅子は老いたか。
それを確かめたいと願っているのかどうなのかロマーノ自身にもよくわからない。確かめたなら、或いは求めている答えが手に入るのか。
白い壁を見上げながらロマーノは長い廊下を足早に駆け抜けた。近代的な建物は国際的にも有吊な建築家が建てたものだという。斬新な構造と、自然を取り入れたデザインに、何度か此処を訪れているロマーノでも迷いそうになる。
ガラス張りの回廊を曲がって中庭に面したところで柱の影に隠れるように開く扉を抜けると、ガラス越しにしか見えなかった緑溢れる庭園に出ることができるのだ。
外に出ると風がロマーノの頬をなぶった。草葉が揺れている。白い壁に揺れる蔦は赤い花を咲かせている。目の覚めるような赤と、目の眩むような、白。既視感が胸の中を暴れるなにかを助長し、四肢を震わせて脚を速めろと促してくる。
笑いそうになる膝を叱咤して、まるで獣の跡を追うようにロマーノは木々の間を用心深くすり抜けた。水の音がする。風が強くなる。再び襲いくる既視感にもう一度震えた爪先がささやかに石畳を踏んだとき、白い壁に囲まれた小さな庭に探していたものをみつけた。
白い石造りの噴水が午後の光に虹色の輪を投げている。水の女神を象るその噴水の縁に腰を下ろした男の背中が見えた。
深緑の軍用コートを纏う背中に、まるで白獅子の鬣のように長い首巻きが棚引いている。頭に被った深紅の帽子の飾り房が揺れる様を見つめながら、否応なしにざわめきたつ左胸をおさえてロマーノは息を詰める。これはよく知った感覚だ。国境を踏み越える瞬間の戦慄。揺れる吊り橋に立ち竦む恐怖。違う、それは間接的な類似でしかない。それ以上に直截に「それ《を感じる瞬間をロマーノは既に知っている。
この男に触れる瞬間、だ。
足音を殺してその背に近づく。遥か昔から何度も繰り返すうちにその仕草は慣れたものになった。伸ばした指先が揺れる房飾りに触れても、それを咎める低い声は耳に届かない。そのことに何故己の心臓は悲鳴のように軋みを上げるのだろうか。その答えをロマーノは知りたい。かつていつかの時のように、知りたいと思いながらロマーノは男の元へ向かう。だが欲しい答えはもう以前とは違った。
そっと近付いて正面へ回ると、俯いたトルコの横顔が見えた。白い仮面に半分隠された顔はうたた寝の最中で、ゆらゆらと船を漕いでいる。
覇者は去ったか。獅子は老いたか。
(俺がこんなに近付いても目ェ覚まさねえし……呆けてんじゃねえ)
仮面の奥で伏せられた双眸に嘗ての覇気を探そうとするのは無駄なことだろうか。
最初に出会った時からもう何百年もたつが、トルコの面差しはさほど変わっていない。国の化身とはそういうものだ。だが彼の本体は激変した。古のオスマン帝国は今や、地中海の片隅の穏やかな国だ。
(トルコ……)
おそるおそる手を伸ばしてロマーノはトルコの髪に触れた。短くやや癖のある黒髪は獅子の鬣に似て、最後に触れたときと違いない。
(目覚ませよ、ばかやろう)
獅子は老いたか。眸を開いてロマーノを見てくれないのは、時代の流れと平穏に飼い慣らされてしまったせいなのか、それとももう、ロマーノへ向ける感情も興味も失ってしまったせいなのか。
平原の灌木の影で息を殺しても塔の扉の向こうで身を縮めていても、必ずロマーノを見つけ出して、心臓の裏までもを暴こうとするかのような獰猛な視線を向けてきたというのに。
世界会議の場で久々に顔を合わせる機会でも、トルコはいつも遠くにいた。ギリシャと口論してはエジプトの世話を焼き、時折日本に声をかけてはなにか楽しげに笑っていた。だが、白い仮面の奥の眼差しはロマーノには向けられない。
(もう飽きたのか。もう手遅れなのか?)
正面切ってもう一度会えばわかると思って、震える脚を叱咤しながら会いに行ったのは、古のあの日と同じ。去り際のトルコは知りたければ己から会いに来いと言った。だが、ロマーノは一度も己から足を向けることが出来なかった。永い年月の間で何度も再会を果たしたが、いつも前触れもなく嵐と共に現れるトルコに甘えていたのだ。そうしていつからか訪いが途切れて、ずっと先延ばしにし続けていた答えについてロマーノは考えた。
あの日のトルコの言葉を。何度も会うたびに囁かれる言葉の意味を。触れるたびに震える怖れの理由と胸の痛みの意味を。
(あんたは俺の何だ。俺にとってあんたはなんだ?なあ、教えろよ、ばか)
再び世界会議でその姿を見かけるようになって何度も考えた。じくじくと疼きを訴える胸の痛みの意味を、ロマーノはやはりはっきりと知りたいと思った。
だから、自分から会いに来た。だが、今度は会った瞬間に問いかけるより先にその答えを確信してしまった。
会うたび触れるたび、あれほどまでに心臓が竦んだというのに、ロマーノはトルコのあの燃えるような眼差しが欲しいと思う。向けられなくなった視線の理由を、近付くことのなくなった距離を、その理由をどう説明つけたとしても、ロマーノの中で燻る熾火を鎮める手だてにはもう、ならないのだ。
トルコの精悍な顔立ちにくちづけようとして、衝動を堪える。心臓が壊れそうなほど早鐘をうって、それに自分自身で身を竦めた。いまだにロマーノには自分から触れる勇気も立ち去る勇気もない。
トルコが怖い、おそろしい。でも今はもう明らかに別の意味で、だ。
気付かないでくれ、でも気付いて欲しい。
溢れそうになる感情が涙になって頬を伝う刹那、低く押し殺した囁きが耳に届いた。
「なんでぃ、接吻はしてくれねえのかい《
聞き慣れているのに無性に懐かしい低音が剣呑な甘さで耳を擽って肌を粟立たせる。弾かれたように顔を上げてロマーノは体を震わせた。人一倊敏感な防衛本能が神経に直結して反射的に逃げ出そうと四肢の筋肉を動かす。
だが、ロマーノの身体は動かなかった。さがろうとした背中が押しとどめられ強く腰を引かれる。いつの間にか、トルコの腕が腰に回っている。はっとして濡れた目を瞬くロマーノの間合いを軽々と侵して、間近に寄せられたトルコの顔が悪戯っぽく微笑っていた。
「お前ぇさん、何百年経っても変わりゃあしねェなあ。泣き虫で無防備で隙だらけだぜい《
「な、な……!?《
ぶわ、と頬に血が上って、堪えていた涙が零れ落ちる。いつから起きていたのだろうかと考えるのも恥ずかしくてロマーノは頭の中が真っ白になった。どうして、眠っていたのではないのか。なぜ、また同じように笑ってくれるのか。
「ひ、卑怯だぞ!てめえこそぜんっぜん変わってねえ!卑怯で意地悪だ!《
「そうだよぃ。俺はなァんにも変わっちゃいねぇ。先走ってんじゃぁねえやい《
「なん、《
くつくつと喉奧で笑ってトルコの片手がロマーノの焦げ茶色の髪を撫でた。まるで馬の鬣を撫でるような手つきが涙が出るほど懐かしくて、胸の痛みにロマーノは咽ぶ。
仮面越しに向けられる眼差しの鋭さに、隠しようの無いほどに軋みを上げる左胸。この感覚に戸惑うままいつも、ロマーノは素直な言葉など何一つ言えないのに。
「なんで、だよ、もう俺なんてどうだっていいんじゃねえのかよ!平和呆けしてんなこのハゲ!《
「そいつぁお前ぇさんの方だろうがよぃ。平和呆けして俺がどういう野郎だってのも忘れちまったってぇのかい?《
「どういう、意味……《
上意にく、と眇められた仮面奧の眼差しにひやり、とロマーノの背中を何かの前触れが伝う。何度も経験した予感に身体が震えた。吊り橋に立つように揺れる足元に、けれど既にロマーノはその答えを見出している。
崩れ落ちそうになる身体を逃がさぬように強く抱くトルコの腕の力が愛おしい。黒革の手袋を嵌めた大きな手が遠慮無く腰を抱き寄せて、男の膝の上に頽れる。
「他には聡い癖にてめえ自身のことにゃあ鈊いんでぇ。ずっと俺が見てんのに気づきもしやがらねぇ《
見ていたことに気付いていたのか。吃驚して見開いたオリーブグリーンの眸の色に、トルコは満足したように笑った。一度手に入れた至高の宝をだれが手放すというのだろうか。
「トルコ……、おれ、《
「平和呆けしてるってぇンなら、てめえの身体で確かめてみるかい《
囁かれた声は獰猛に掠れていた。耳から直接脳髄へ流れ込んでくる甘い毒のようなそれにロマーノは息を呑む。吊り上がる口角の凄艶ながら凶悪な様。仮面の向こうできゅううと歪む双眸の鋭い切っ先にああしまった、と竦み上がる。相手の謀ったとおり踏んだらしい。何をって、彼のとびっきりの地雷を。
「トル、コ!待っ…!!《
「何十年も何百年も待ってやったんでぃ。もう待てねえよい《
強引な指先にぞっとするほど優しく顎を撫でられたかと思った途端、ぐいと背が弓に反る。回る視界と一緒にトルコの唇が触れて、ムスクの香りが四肢を痺れさせた。熱い舌先に促されて唇を開けば、歯列を掠めて侵入するそれに呼吸ごと絡め取られる。
目眩く天鵞絨の感触に喘ぎが吐息に混じって口の端からこぼれ落ちる。巧みな接吻けに翻弄されるまま呼吸をもとめてロマーノは腕を伸ばした。侵す熱の感触に目が眩んで甘く痺れる。トルコが好む水煙管の香にずくり、と身体の奧が疼いて眩暈がした。溺れないようにしがみつくとく、とトルコが唸って舌先をやわく噛んだ。大きな背に爪を立てて切なさに絶えきれずに、指先に触れた男の髪をぐしゃりと掻き回す。獅子の鬣の感触に恋情と劣情が疼く。
「あんまり、煽るんじゃねぇやい。危なっかしいのも相変わらずだねぃ《
唇を触れさせたまま低く唸るように囁くトルコのぎらついた眼差しに射竦められながら、ロマーノの心臓は軋む。これは痛みではなく悦びだ。覇者は去りなどしていない。獅子は老いてなどいない。巧妙に隠された平穏のヴェールの下で、昔日と変わらぬ鋭さでロマーノを魅了し続けるその、耀き。
(嗚呼、ちくしょう、俺は)
何処をどう見誤ったなら、その牙が折れ摩滅したなどと。
(俺は、本当に、謀ることができないほど、)
この男が、好きなのだ。吊り橋の揺れに惑わされているのではない。ただただもう、目も離せないほどに。喉に触れる獅子の牙の恐怖にさえ、焦がれている。
トルコの手がロマーノの髪に触れ、くるりと捲いた一房の毛束をつうと撫でる。たまらずちぎ、と悲鳴を漏らすと男らしい喉仏がごくりと動いた。
「やらしいかおしてんじゃねえやぃ《
「ば、っかやろ!てめえがやらしい触り方してるんだよ、えろおやじっ!《
「へいへい。どうとでも言いやがれい。俺ァ満足なんでい《
「勝手なこと言ってんじゃねえ!どういう意味だよそれっ!《
恥ずかしくてどうしようもなくてやけくそで怒鳴れば、やはりトルコは慣れた様子で子猫をあしらうように飄々と笑った。
「何百年も掛かって、漸くお前ぇさんから会いにきてくれたじゃねぇかよい《
言った筈だろう。そう嘯いてトルコはロマーノの頬に触れた。革手袋を嵌めた指先が熱く濡れるロマーノの頬を撫でて涙の粒を宝石のようにそっと拭い取る。
「さんざっぱら焦らして人の心臓焦がしておいて、忘れたなんて言わせねえ。言ったろい《
あのときと同じようにトルコは仮面越しににやりと微笑って獰猛に囁いた。
「答えが知りたきゃあ、また来い。ただし、今度はちゃあんと覚悟して来なきゃぁだめでぃ《
そうしてやって来た以上、捕まえた腕を離すつもりはない。
「Seni seviyorum. ロマーノ、俺の甘い災い。心臓で燃える唯一の焔《
震え上がるほどに切なくて甘い告白に、ロマーノは俺もti amoと言うつもりだったのも忘れ、恥ずかしさのあまり勢いよくトルコをひっぱたいた。
「Turchia, ti amo!《
Aslan yelesi
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20110924
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