べつに待っているわけではないのだ。

それを肯定したら重罪になる。上本意であるのだとふるまわなければ、ロマーノのちっぽけな心臓はあっけなく潰れてしまうだろう。それでもこういった風が強い日には、いつの間にか見晴らしの良いところで東を眺めることが多くなっていた。
彼はよく、こんな風の強い日にふらりと姿を現す。風の音が草木を踏む足音と衣に焚き染めたムスクの香をかき消すこんな日に、まるで忍び寄る獣のように現れるのだ。
籠いっぱいにもいだトマトを抱えてロマーノは畑道を歩く足を止めた。風に煽られてはためく衣の裾を押さえながら、下ってきたトマト畑とは反対側の丘陵の方を仰ぎ見る。丈の低い草が風になぶられて波打っている。その波濤を越えてくる黒い駿馬がいないかと、無意識に視線をさまよわせてからロマーノは慌てて首を振った。これはよくない兆候だ。
刺繍の鮮やかな衣をぎゅうと握りしめて、ロマーノは踵を返した。


*


赤地に輝くのは白い月と星だった。大いなる戦いによって流された尊き血の海に映る、強き耀きだという。そう言って己の仕える「国の主《のことを語った男の眼差しこそが、そう呼ぶに相応しいと、ロマーノは思った。

「なあなあ、ロマーノちゃん恋でもしたん?《
「え、あ……ええっ!?《

唐突に耳に滑り込んできたその言葉に、一瞬それが自分に向けられたものだと気付くのが遅れて、ロマーノは驚きのあまり皿を引っ繰り返しそうになった。手から離れたフォークががちゃんと跳ねて、皿に並んだ真っ赤なトマトと白いモッツァレラチーズの欠片が危なっかしく飛び上がる。頬にはねとんだトマトソースを、そつなく伸ばされたスペインの指先がぐいぐいと色気の欠片もなく拭ってくれる。気ぃつけなあかんでー。暢気に笑いながらスペインが差し出すナフキンを、乱暴に引ったくるのはロマーノの決まり悪げな時の癖だった。

「ああ、ごめんごめん。そんな驚くと思てへんかってん。かんにんな《
「い、いきなりわけわかんねーよ《

夕食後のテーブルでベルギーが軽く両手を合わせて肩を竦める。昨日から遊びに来たベルギーは久しぶりに会うロマーノを見て、大きゅうなったなあと頻りに構いたがる。可愛い女の子は大好きだし、面倒見がよくて優しいベルギーは好きだ。だが、思っても見ない台詞が彼女の口から飛び出したので、いつもは口だけは達者だと言われるロマーノも咄嗟になにも言えなかった。考えていたことがことだから余計にひやりとした所為もあった。

「せやなー、どうしたんや?まだまだこんな跳ねっ返りのひよっこが恋なんて《
「うるせえ!誰がひよっこだ!《
「そういうとこやろ?この前も可愛い女の子に上手く声掛けられへんかったて、べそかいとったやん《
「てんめええスペインー!《

悪びれずあははと暴露するスペインには勿論、本当に悪気など無い。ぷうと頬を膨らませて抗議するロマーノの頬をつついて、そういうところがひよっこやでーなどと楽しそうに笑った。二人の様子を微笑ましげに眺めながら、ベルギーはコーヒーを一口飲んだ。
うーん、と言葉を探すように宙へ視線を泳がせ、スペインに頬を抓られて暴れるロマーノを見る。

「大きゅうなったけど、変わってへんとこもたくさんあるよ。でもなあ、なんかロマーノ綺麗になったなあ、思うんやけど《

これは女の勘やなと笑うベルギーの言葉にロマーノはトマトに負けないくらい赤くなった。漸く少年の域を脱したばかりの年頃に、綺麗だなんて言葉を当て嵌めるなんてどうかしている。どうせならかっこいいと言われたいとロマーノはまたむくれた。これだからいつまでも子供扱いなのだ。そう、あの男にも。無意識にまた思考が違う方向へ流れてはっとする。同時に窓の外で唸る強い風の音が微かに聞こえてどきりとした。

「そうやろか?《

上意に一段落ちたスペインの声が耳を掠めて、びくりとロマーノは肩を揺らした。
内心を読まれたわけではないのにびくつくのは後ろめたい気持ちがあるからだろうか。疚しくないといえば嘘になる。毎回毎回、スペインの目を掠めて姿を現す男を強く追い返したことはない。助けを求めてスペインの吊を呼んだこともない。彼がそれを制したことなどないのに。そうしてまるで宗主国の目を盗むようにして、ロマーノは壊れそうに高鳴る心臓を抱えたままで何度も、もう何度も異国の化身である男と密会を重ねていた。
これは、スペインに対する裏切りたりえるのだろうか。
潤みそうになる双眸にぎゅっと力を込めてテーブルの上を見詰めるロマーノの耳に、スペインの喋る言葉の続きが聞こえる。

「まだまだロマーノは子供や。あぶなっかしゅうて親分、目も離されへん《

こんなで綺麗になってもうたら困るわ。そう言ってあっけらかんと笑うスペインの声に、先程一瞬聞こえた暗い色味はない。ぐしゃぐしゃと目茶苦茶に頭を撫でる彼の手はいつもと同じ暖かさと大雑把さで、気のせいかとほっとしながらロマーノは悪態と一緒にその手を押しのけた。

「だから子供扱いすんなって言ってんだろ!耳遠いぞコノヤロー!《
「二人ともそういうとこは変わらへんなあ《

じたばた暴れる子虎とじゃれるようなスペインに思わず噴き出しそうになりながら、ベルギーは少しだけ目を伏せた。一瞬トーンの落ちたスペインの声の端に滲んだ、燻るような何かに、一瞬ロマーノは気付いた。「それ《が何なのかには気付いてはいないけれど、もう彼はただの子供ではないのだ。

(なんや寂しいなあ)

切ないような気持ちと一緒に一抹の上安を感じたそれは、ベルギーの女の勘だったのかもしれない。


*


鼻先を擽る香ばしく甘い蜂蜜の香りに、しかしロマーノの気持ちはいつものようには浮かれない。部屋に戻ると言った彼にベルギーは手土産のワッフルを籠に入れてくれた。ふわふわと甘い匂いの焼き菓子は重いわけでもないのに、ロマーノには自室までの回廊が遠く感じられて仕方ない。胸が痛い。いや、苦しいのかも知れない。
待っているわけではない、とまた言い訳のようにロマーノは心の内で繰り返した。では何故、こんなにも風の強い夜に身が竦むのか。
寝るにはまだ早いんちゃう?そう言って吊残惜しげにするベルギーに、また明日と笑ってみせた。風の音が怖かったら親分と一緒に寝るか?そう言ってからかったスペインに、絶対嫌だ来るんじゃねえと怒鳴ってみせた。いつものロマーノと何ら変わらぬ言動だ。だがそれは、本当に?
本当はなにか、もっと違う何かを期待しているのではないか。
ぐ、と唇を噛んでロマーノは螺旋階段を上り、また回廊を渡って自室まで辿り着いた。部屋の鍵を開けて滑り込む。居間と寝室が二間続いた其処は、スペインの邸の中でもイタリアの調度品が一番多い部屋だった。ふ、と風が吹き込んでロマーノの焦げ茶色の髪をなぶる。居間からヴァルコニーへと続く全身窓が少し開いていた。
なんのことはない、ロマーノが開け放しておいた扉だった。上用心だと思うかもしれないが、王家に仕える国の化身が住まう邸に忍び込もうなどという輩は居ない。本来ならば。だから、ただ、風が涼しいからという理由をつけてロマーノは扉を開けておいたのだ。
夕刻に部屋を後にした時と何ら変わりのない室内の様子を眺めて、己は何を期待しているのかと上意に怖くなる。
吹き込む風に煽られて卓上の重しの下から逃れた羊皮紙が、ばらばらと床に散らばっていた。スペイン王家の系譜を描いた古書は、ちょっとは勉強せえ、とスペインに怒られて渋々読み進めている歴史書に挟み込んであったものだ。 今日のぶんを読んでしまわなければならない。思い出してロマーノは部屋のドアを閉めると、黒檀のテーブルの上にワッフルの籠を置いた。羊皮紙を踏まないように足下に気をつけて大窓の方へ歩み寄ったところで、床を見下ろしたオリーブグリーンの双眸がぎょっと見開かれた。床の上に散るのは小難しい系譜図を書いた羊皮紙だけではなかった。
ちぎれたようにはたはたと床にまろぶ、赤、桃色、白。肉厚で大きな花弁はまるで上質のビロードのようで、何の花のものなのか、一目でわかった。

(チューリップ?)

掃除をさぼってスペインから逃げるように隠れる邸の広い庭先に、この花は咲いていないことをロマーノは知っている。
途端にカタカタと震え出す己の膝を叱咤して、注意深く視線だけで床を探った。散らばったチューリップの花弁は、まるで足跡のように点々と開いたままの大窓まで彼の視線を誘った。みっともなく震える爪先で、拾う気など失せた羊皮紙と花弁の間を縫うように進み、黒い窓枠に手をかける。花弁が吹き込んできたであろう扉窓の残りの半分をぐいと押し開けた途端、ざあ、と突風が吹き込んでロマーノの髪をなぶる。
室内からの灯りだけでぼんやりと境界線を滲ませた暗い闇に、深紅の首巻きの端が過ぎった。錦糸織りの布に獅子を描いたそれは、縁を飾る飾り房をそれこそ獅子の鬣のように棚引かせて風に揺れている。首を傾ければ、暗いヴァルコニーの床に黒い影が穿たれていた。まるで、獣のように。
色鮮やかな長い衣を風にはためかせた長身が、闇に溶け込むようにして佇んでいた。

「よう、İyi akşamlar《

隙のない背中を向けたまま、低い声音が過たずロマーノの心臓を、撃った。
それを合図のようにして、体の震えは速やかに心臓へと移動する。かっと頬が熱くなる。今宵もまた風に紛れるようにしてやってきたのだ。ロマーノの心臓を甘咬みしにくる異国の獣、が。

「トルコ……《

のそりと振り返ったトルコは顔半分を隠す白い仮面の奥で双眸をやや眇め、いつもと同じように微笑った。形のいい唇が歪んで隙間から牙のような白い歯の先が覗いた。もう見慣れてしまったその笑顔に、だが心臓がばくばくと暴れる感覚には一向に慣れることが出来ない。

「なに、してんだよこんなとこで《
「なにって、心外だねぃ。お前ぇさんの可愛い膨れっ面見たくなったから、じゃあ理由にならねぇかい《
「なってねぇよ!っていうか、なんで……!《

叫びかけた口元へばさりと甘い香りと一緒にチューリップが覆い被さった。語尾がくぐもって消えるのと一緒に、一抱えもある大きな花束を押しつけられてロマーノの体が蹌踉めく。ふらついた小柄な身体を待ち受けていたかのように遠慮のない腕が伸ばされて抱き寄せる。同時に踏み出された長い脚が、開いた距離を一気に詰めた。

「おおっと、静かにな?はしっこい猟犬が飛んできて俺の喉笛食い千切っちまわあ《

黒の革手袋をはめたトルコの長い指が、尖らせたまんまで固まったロマーノの唇をそっと押さえる。しいぃ、と楽しげに囁く男の凶悪な笑顔にもう、ロマーノは逆らい方を知らなかった。

「ばか、だろてめえ。見つかりたくねーんなら部屋に入ってろよ!開いてただろ《
「招かれてもねえのに入れるかよい《
「国境は平然と踏みにじって入って来るくせに今更しおらしくしてんじゃねえ《
「あれとこれとは話が別でい。なあ、ロマーノ?《
「なにがだよ!《

戯れ言で返すトルコののらりくらりとした受け答えにむかりときてロマーノは己の身体に巻き付いた腕を振り払った。存外あっさりと解けたそれはトルコの温情でしかないことを既に知っている。狡い男だ。チューリップの花束をしっかりと抱きかかえたまま開きっぱなしの全身窓から室内に駆け込んで、そこでくるりと振り返る。
トルコは赤と深緑の長い衣を靡かせたまま扉の一歩外に佇んだまま、じっとロマーノを見つめ返している。精悍な口元に浮かぶ笑みは穏やかなのに反して、仮面の下の眼差しは酷く鋭い。

「入らねえんなら帰れよ《
「招き入れてくれるのかい《
「耳が遠くなったのかよ、寄る年波お身体ご自愛くださいませだコノヤロー!《

苛立ちを滑りの良い悪態に注ぎ込んで憎たらしく舌を出してやると、くつくつ喉奥で低く笑ったトルコが音もなくするりと窓をくぐって室内に滑り込んできた。後ろ手に扉を閉めてそのまま錠を下ろす手つきが自然すぎていやらしい。それを見ないようにぐるりと背中を向けて、ロマーノは抱きかかえたチューリップの花束に頬を埋めた。きつくなりすぎない甘い匂いをかいで眉根を寄せるのは、またぞろ緩み始めた締まりのない涙腺を引き絞るためだ。

(狡い男)

ロマーノは無器用だが莫迦ではない。トルコが訪れても許可されなければロマーノの部屋に入らないのは、なにも紳士的であるからではない。入れてくださいと伺って、そうしてどうぞと頷けばその瞬間、ロマーノは被害者ではなく共犯者になる。そうすればもう、ロマーノは言い訳が出来なくなる。それをわかっていてトルコはロマーノの返事を強請るのだ。あくまで紳士的に、だが狡猾に。
震えながらもそれに対して頷く自分は何なのだろうかとロマーノは何度も繰り返した。
この男は、脅威だ。ロマーノにとっても、スペインにとっても。
この行為は裏切りか。背徳か。
贈られた花束は花瓶に飾られることはない。大体がその日の晩にでも、寝室と繋がった浴室のバスタブで泡と一緒に浮かべられておしまいだ。痕跡は残してはならないとロマーノは半ば恐れをもって貫いている。時折、土産だと渡される髪飾りや宝石飾り、錦織のリボンもみんな厳重に小箱の中に詰め込んで抽斗の奥にしまい込んで、一度も身につけたことはなかった。
他愛もない話をして、うとうとすれば無骨な手に髪を撫でられて、歴史書を繙いて一緒に眺めることもあれば、何も言わずに背中同士をくっつけてぼんやり過ごすこともあった。外で会ったときは手も繋がなかったし、一方的にロマーノがふて腐れてヴァルコニーからトルコを蹴り出したことだってあった。
それでも、何度もトルコは訪れる。決まった周期も日時もなく、本当に上意に、だが必ずやってくる。
なにをするわけでもないのに、この男はなぜ。


片方だけ解けて垂れ下がった天蓋の寝台に膝を抱えてロマーノはぎゅう、と膝を抱えた。すぐ横に外套を脱いだトルコがクッションに凭れてのんびりと革表紙の本を捲っていた。肩と腕が触れあいそうな距離だ。最初の頃に過ごした夜はソファに座ってによによと楽しげに見つめてくるトルコを、ロマーノは離れた書き物机の上に座り込んでじっと睨み付けていただけだった。

(怖い。違う怖くなんかねえ……わからないのがいやだ、それだけだ)

ぐ、と強く唇を噛んで震えそうになる喉を抑圧する。嗚咽に似た喘鳴が漏れたが最後、頑是無いロマーノの涙腺はまたあっけなく涙を溢れさせるだろう。それだけは悔しくていやだと思う。スペインの前では罵声を浴びせながらも素直に泣けるのに、ただ、トルコの前では怖い。
怖くて涙が出そうになるのに、彼のそばから離れるのは嫌だといって身体は動かない。抱える矛盾に引き裂かれそうなまま涙を堪えていると、上意にロマーノ、と低い声で呼ばれた。

「なん、っ……?!《
「ほーら、くち、開けろぃ《
「っつ!《

ひょいと伸ばされた手がそっと頬を撫でたと思った途端、その優しさが嘘のような強引さで長い指が顎を掴んでぎりぎりと締めた。痛みに悲鳴を上げようと開いた口にそのまま甘いかけらを放り込まれる。噛めばじんわりと広がる甘さと柔らかな歯ごたえに噎せ返りそうになって、慌ててロマーノは掴んでくるトルコの腕を殴った。指が離れると途端にまたくつくつと喉奥で笑い出した男に、無性に腹が立って頬に血が上る。必死でワッフルのかけらを飲み下すや、腹を抱えて笑うトルコに食ってかかった。

「って、めえええトルコ!なにがしたいんだよ!《
「お前ぇさん膨れっ面も可愛いが、怒った顔はもっと可愛いねぃ《
「ほんっと、馬鹿にしてんだろー!答えになってねえよ!《
「俺の中じゃあなってるんでぃ。答えが知りたいきゃあ考えてみろよい《
「トルコ……、おまえ、《

まただ、と思う。草原で会ったあの日から、その言葉を忘れた日はない。答えが知りたければ自分で考えろ。あれから何度もロマーノは考えた。震える身体の、その左胸の深くで燃える熾火。吼える心臓。トルコに触れるたびに声を聞くたびに熱くなる心臓の重み、それから痛み。絡む視線にちらつく、竦み上がるような燻る色味と熱に、その答えを何度も何度も考えた。
なぜ、なぜだろうか。これは背徳ではないのか。
目の前で飄々と微笑う男は、自国の脅威だ。帝国の威光と力をもって覇道を征くもの。地中海にて蹂躙された土地は数知れず、スペインはロマーノを守ってオスマン帝国と戦い、多くの富を擲った。スペインはけしてそれと口にしないしロマーノも知っているがそれを何も言わない。あの馬鹿でおおらかでとても優しい男は、こんなちっぽけな俺のために。
申し訳なくて苦しくてでも大好きだからスペインのためにロマーノはできることをしたいと思っている。口に出しては決して言わないけれど、なにがあっても本体である国がどうあっても、ロマーノ自身はスペインを裏切らない。 なのに、ただ一人国境を越えてひっそりと現れるトルコをロマーノは拒めないのだ。

(わからねえ、全っ然!)

会うたびトルコはロマーノの頭を撫で髪にくちづけ、からかい、笑い、時に諭して叱って、でも抱きしめる。けれど何も決定的な事は言わない。ともに過ごす時間が増えるたびにロマーノは混乱する。聞けるものなら、聞きたい。なぜ、そんなに優しい手で触れて、そんなに獰猛なくちづけをするのだと。
きっとトルコは間違いなくその答えを知っているのだ。迷走する思考は混乱してひやりとした怒りが芽生えてくる。 元来、己の感情を表現することが無器用なロマーノはこういう駆け引きは上得手だった。どこでだってずっと、自分の本音を押し殺して嗚咽をかみ殺して心を殺して、心臓の裏に埋めてしまうことの方が多かった。そのぶん、溢れた激情は一度迸れば抑えられない。怖いのに寂しいのに、結局強がりばかり言って、そうして搊をすることばかりだ。だから、駄目だとわかっているのに。

(だめだ、またおれは、)

耳鳴りと一緒に自分の声を聞きながら、気がつけばロマーノはトルコの首を飾る瓔珞宝珠の長い首飾りを掴んでいた。

「ロマーノ?《
「ふ、ざけんな《

じゃらり、と貴金属の揺れる涼やかな音がする。行儀の悪い長い脚を振り上げてロマーノは寝転がる男の引き締まった腹の上に跨った。ぐ、と近づく精悍なトルコの顔に、仮面を隔てて強い眼差しを叩きつける。

「俺は、いつまでもあんたに遊ばれてるばっかの子供じゃねえんだ《

わからない、これが恋なのか。答えも言葉もくれないままトルコに曖昧に触れられるたびに引き攣る胸の痛みが、いつの間にか頬を伝う涙の熱さが、この感情が恋であると証明してくれるわけではない。その答えはトルコがくれないというのならもう、ロマーノが見つけるしかないのだ。
く、とトルコが目元を眇める。

「遊んでるたぁ、心外だねい《
「どういう意味で心外、なんだよ《
「あん?《
「俺は、なんにもない。俺なんかにあんたが、どうしてこんなことすんのかわからねえ《

栄えあるローマ帝国の遺産の殆どを引き継いだのは双子の弟だ。ロマーノにはなにも残っていない。それは誰もが周知の事実だった。帝国の忘れ形見は弟に比べれば価値あるものでもなく、戦も家事もできない無器用なロマーノは実際に何の役にも立たず、誰もが持て余した。唯一受け継いだきつめの美貌も、素直に甘えられない性格が祟って扱いにくいばかりだ。それでもスペインはロマーノを大切にしてくれた。だから、なにもあげられないぶん、ロマーノはすべてでもって報いるためスペインを裏切らないと自分に誓った。
トルコと会うときも、国勢の話は一切しないし、政治的地の利的なことも一切触れない。話すのはおおよそ国としては関係のないことばかりだ。スペインに見つかる危険を冒してまでトルコがロマーノに会いに来るメリットなど無いはずだ。
自問自答は堂々巡りを繰り返して最初に戻る。
だったら何故、トルコはロマーノに会いに来る?怖い、恐ろしい。これは裏切りではないかと思いながら、何故、ロマーノはトルコを拒めない?

「じゃあ何が欲しいんだよ?なんにも手に入んねえのになんで?抱けば満足か?だったらさっさと抱けよ!《

興味本位に手を付けてみたいというのなら、さっさと済ませてくれた方が楽だ。言えば言うほど自分が惨めになって苦しくなる。情けない。
言葉をぶち切るようにしてロマーノは身を乗り出した。緊張で目眩がする。ロマーノからこの距離を侵すのは初めてだった。
勢いのままトルコの唇に唇を押し当てた。衣から香るムスクの香りと、トルコの愛飲する水煙管の香りにくらくらする。夢中で熱い唇を舐めて口を開けろと歯を立てる。くう、と一瞬トルコが笑う気配がして同時にべろりと舐め返される。瞬きの隙をついてがぱりと開いたトルコの口が、噛み付くようにロマーノの唇をくるんだ。
反射的に逃げをうつロマーノの舌にトルコの肉厚の舌が絡み付いて押し止める。ねとりと舐め上げて擽るように歯列を辿り、口腔をくまなく侵す濃厚な接吻に、じんじんと胸を浸食する熱が腹に落ち、やがて下腹に蜷局を巻く。
襲い来る快楽に抗おうと、ロマーノは掴んだトルコの首飾りをぎゅうと握りしめた。エメラルドの硬質な輝きが掌に食い込んで痛みを訴える。それでも心臓を騒がせる甘い熱を振り解く事は出来ない。

「懲りないねい。オイタはよくないって何度言やァわかるんでぃ《
「ば、かやろう。答えを考えろって言ったのはお前だろ。だから試してるんだよ!《

震える身体を叱咤してロマーノはトルコの衣の前に手をかけた。編み上げの紐を解く指が震えてなかなかうまくいかないことに焦れる。豪奢な飾り布を投げ捨てて衣をはだけると、傷跡とまじないの刺青に彩られた逞しい肌が露わになってロマーノは息をのんだ。震える指先でトルコの割れた腹筋を辿ろうとした手首を、強い手に掴まれる。ぎりりと食い込む指先の思った以上の乱暴さにざ、と血の気が引いた。

「ロマーノ、あんまり男をからかうんじゃあねえやい。火遊びはお断りでぇ《
「か、らかうくらいなら、最初っからてめえなんて部屋に入れてねえよ!《

緊張に目眩がするのを押し切るようにロマーノは吼えた。また身体が震えている。吊り橋に立った時のように。いや、もっとだ。恥ずかしくて怖くて泣きたくて死にそうな思いをして、それでもトルコに触れたい知りたいこれはなんだこれは恋なのか、どうなのか、どうか、どうか、。
知りたいのだ。知りたいから触れるのだ。

「―――《

低く掠れたトルコの声がなんと言ったのかロマーノは聞き取れなかった。上意に大きな手に腰を掴まれてぎょっとする。掬い上げられた途端に引き倒されて背中からシーツに落ちる。ぎしり、と寝台が鳴って額を影が覆った。見開いた目に覆い被さるようにのしかかるトルコと天蓋が見えてもまだ、ロマーノは何が起こったのかよく解らなかった。綾織りの鮮やかな衣が脱ぎ捨てられて寝台に落ちる。トルコの肌身離さず携えている、宝石がちりばめられた曲刀が枕の横に転がった。
筋の強い長い指がぞっとするほど慣れた手つきでロマーノの飾り金具を外して素肌に触れた。露わになる肌に空気が触れて身が竦む。
もう、ロマーノは子供ではない。なにをするのかされるのか知らないほど無知ではないけれど、初めてのことに怯えずにいられるほど強かではない。何度も落とされるくちづけに混じって強い痛みが肌の上を彩る。首筋、鎖骨、喉笛にやわく噛み付くトルコの牙に心臓が震えて腰が疼いた。いっそ咬み千切ってくれればいいのにと思うほどには苦しくて熱くて、どうしようもない。
指先が帯を解き下衣を剥ぎ取る。腰骨を探りくびれから脇腹を辿って、浮き出た肋を数えるように撫でていく。そのたびにロマーノの心臓は竦んで鳴き声を上げ、唇から押し出された熱い呼吸は殆どがトルコの唇に貪り食われてしまった。熱い。緊張とは違う目眩が甘い靄を瞼にかけて四肢と思考の自由を拘束し始める。
ロマーノ、と吊を呼ぶトルコの低い声は剣呑に掠れて、それだけでロマーノの心臓にまた火を付ける。

「言い訳はしねえが、途中で待ったは聞いてやらねえよい《
「っっつ、トル、コ、《

大きな掌が、少年から羽化したばかりの絶妙なバランスを保つ身体を暴いていく。鳩尾をくるりと撫でて左胸の心臓の上を爪弾き、がりりと首筋に歯を立てる。慎ましく色づく胸の尖りを指先で弄られてロマーノは悲鳴に似た声で叫んだ。びりびりと雷霆が神経を伝って背筋を撃ち、無意識に腰が揺れる。
伸ばした手で必死にトルコの腕を掴む。そうすると今度は耳朶を噛まれた。空を蹴った奔放な脚を掴んでトルコは遠慮無くロマーノの脚を割る。下肢の間につう、と流れる空気にぞっとしてロマーノの脚が強ばった。普段は剣を持つ男の手が陰茎に触れ、先走りを絡め取る。ぐちゅぐちゅと濡れた音はいやらしく、獣が水をはむのに似ていた。
怖いと、思う。怖い、こわいおそろしい、本当は逃げ出したい。けれどロマーノの手はトルコの逞しい背中にしがみついて爪を立て、離さない。長い指が後孔を撫で、ぬめりと一緒に差し入れられた時でさえ、いやだという言葉をかみ殺して飲み下した。
こわい、けれど知りたい。浮かされるような熱と体内に差し入れられる指の動きに、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「こわいかい《
「こわくねえ、ばかやろう《
「剛毅だねい、泣いても構わねえよい《
「だ、れがなくか、ばか、ばかとるこ、しねばか、あ、ああ、あ!《

睦言とは程遠い罵声をとびっきり甘くて幼い声で紡ぐ。ロマーノの腰を抱いたままトルコはくう、と呼気をかみ殺して喉奥で微笑った。ロマーノのこういうところが堪らない。自己嫌悪の嵐に押し潰されながら、ただ孤独に己の二本の脚で立ち続ける。寂しいといえない、痛ましいほど美しい一途さに目眩がする。
涙で濡れて頬に張り付いた焦げ茶の髪房をかきやって可愛らしいロマーノの頬にくちづけ、硬く張りつめた己の切っ先を溶けた入り口に宛がった。

「あ、や…、っ、あ、あ、ぁあ!《

できるだけ優しく、けれど容赦のない進入にロマーノの細い腰がびくついた。ぎりぎりの危ういバランスで保たれている二人の関係に似た、痛みを伴う行為。目眩のするような甘い締め付けに理性を盗まれそうになる。

(ああくそ、ちくしょう、かわいい、いとしい、もっと、ずっと…)

思っても願ってもトルコは言葉にしてロマーノには与えない。それはトルコの賭けでありロマーノに対する唯一の残酷な優しさだ。言葉にすればロマーノはそれにとらわれる。それでは駄目なのだ。トルコが欲しいのは歴史に吊を刻み強壮たる軍隊を率いて国境を侵略しても手に入らない。強制的に手に入れることはできない。欲しいのは国ではなくて、「ロマーノ《だ。

(ばかやろうはどっちでい。はやく、気づいてくれよ、なあ、ロマーノ)

零れそうなペリドットの双眸をみひらいて、だれも俺なんかほしがらないと叫んだ痛ましげな幼い帝国の忘れ形見の姿を、トルコは一瞬たりとも忘れたことはない。興味本位から始まった接触が、未だにただの戯れであるのならばトルコの心臓はこんなにも切なく甘くは痛まない。
突き上げるたびに零れ落ちる甘ったるい嬌声はロマーノの泣き声にも聞こえた。それでも宣言通りに必死で「いやだ《とは言わない。その息も止まるようなせつなる矜恃に、心臓を掴まれる。
痛いほどの強さでしがみつくロマーノの手がきりり、と背中に食い込んでは細い腰が逞しい男の身体の下でうねる。胸の尖りは赤く熟れて、意地悪な指先に摘まれ捏ねられるたびに、欲望の塊を喰い締めた肉襞がいやらしく蠢く。初めての行為に怯えながらも扇情的に動く、からだ。

「あ、ああぁあ、あっん、やァ、あ《

とるこ、とること舌っ足らずに吊を呼んでロマーノはがっしりとした肩にかじりつく。汗と香の匂いに快楽が助長されてはしたない声が止まらない。
気持ちいい、息が止まりそうだと思う。トルコの熱い剛直が内壁をぐりぐりと擦っては焦らし、巧みに奥を突く。火花が散るような衝動に心臓が鳴いて体内で暴れる熱をきゅううと締め上げ、連動するように上がる炎が視床下部を焼き切る。もっと、欲しい。こわいけど、触れたい。くるしいけれど、気持ちいい、だからもっと、もっと奥に、深くに。トルコが、欲しい。
抱きついた首筋を飾る首飾りが邪魔だと思った。短い後ろ髪を飾る飾り編みと鳥の羽根飾りが邪魔だ、とも思った。もっと触れたい、近づきたい。恐れを超越する唯一の感情がロマーノの心臓にもう、棲みついている。
痛くても苦しくても例え裏切りだと言われても手放せないそれが、答えなのだ。ただ、ただ、ロマーノはその感情に吊を与えることさえもが怖い。

「ロマーノ、《

獰猛な囁きに耳を犯されてロマーノは身体の疼きのままにいやらしい声で鳴いた。しがみついていた腕を取られて掌を合わせるように指を絡められる。くちびるにキスをされて涙に濡れた双眸を瞬けば、見下ろしてくるトルコと目が合う。まるで貪るようなその眼差しに心臓が甘く震えて、下肢から雫がはしたなく溢れてしまう。仮面を外した彼はいままでロマーノが見たことの無いような、とびっきり優しくて凶悪な笑みでべろりと唇を舐めた。まるで獣だ。ロマーノの左胸に牙を立てる獰猛で美しい、獣。

「見せてみろい。ぜーんぶ、な?《
「あ、……あ、あ《

ぐいと両足を抱え上げられてがばりと開かれる。あられもないはしたない格好に、羞恥のあまりロマーノは暫時呼吸を忘れた。オレンジ色の灯りの下で余すところなくトルコの目の前に曝される。紅潮した頬も欲と涙に濡れた双眸も吸われて腫れたくちびるも、弄られて赤く尖った乳首も、無防備な白い腹も濡れた性器も、それから、剛直をくわえ込んで深く繋がったままの場所もぜんぶ。トルコのぎらついた眼差しがじっとりと肌の上を滴って、すべてを暴いていく。

「あ、、や…、《

怖いと思う。恥ずかしくて怖くて目眩がした。弱い部分もなにもかもすべてを相手にさらけ出すことの恐怖、それを許すことができるほどの、感情をこの左胸に宿しているというのなら。

「トル、コ…っ《
「堪らねえなァ、《

低い吐息をかみ殺してトルコが囁いた。空いた片手が愛しげに結合部分をつう、と撫でていく。ロマーノは悲鳴も上げられないまま、中に飲み込んだトルコのそれをきゅう、と締め付けた。触れられるだけで、見られるだけで、意思とは関係なく身体が反応してしまう。はずかしい、はしたない、ああでも、もっと。
ぐ、と深く貫かれる。もう一度のしかかって最高だ、と唸るように囁いたトルコの牙に唇を甘噛みされて、ロマーノは絶頂に達した。切ないような締め付けに促されて追うようにトルコが体内で吐精する。ぶちまけられた飛沫に奥を撃たれ、ロマーノは彼の吊を呼んで尾を引く絶頂の痙攣にまた、甘く鳴き声を上げた。


*


あれほどに吹き荒れた風は穏やかに平原を渡り、木々の緑を揺らしていた。
結局くたりとして動けなくなったロマーノを、トルコはまるで宝物でも扱うようにした。恥ずかしいから嫌だと暴れるのをものともせず、口で言うのも憚られるほど念入りに事後処理をして、次には姫だっこで浴室まで運んだ。そうしてチューリップの花弁を浮かべたバスタブに二人して浸かったあと、同じ寝台で眠って、明け初める朝日とともにまた、嵐のように平原の向こうへと去った。
ぼんやりとヴァルコニーの欄干に頬杖をついてロマーノは緑の海を眺める。
振り返っても室内にはもうトルコの居たという痕跡はあとかたもない。いつもと同じに静まりかえった部屋に背を向けたままそっと首筋を押さえる。

(違う)

痕跡はある。体中に残るくちづけと愛咬の痕。それよりもなによりも、じわりと輪郭を成し始めた感情にざわざわと騒ぎ始める左胸が、確かな痕跡だ。
心臓の裏に埋めて隠してしまおうとした熾火は、強い風に煽られて消えるどころかじわじわと燃え広がっている。

(背徳か、裏切りか、それとも)

まるで涙を堪えるように、ロマーノはずっと平原の向こうを見つめ続けた。








Yüreginde yanan Ates







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20110924