その日、日本は至極上機嫌だった。
「やはりフランスさんとベルギーさんの家のが絶品ですね」
あまり綻ばない白い頬を緩ませて羽織の裾を翻し、日本は雪のちらつく道を急いだ。二月の空気は痺れる寒さで吐息を白く凍らせている。年末年始の季節行事三昧を一段落させて一息つくこの時期。暦の上では春のはずなのですがと呟きながら、ぱしりと紫紺色のマフラーの端で冷気を跳ね返した日本は今では珍しい蛇の目で六花を遮った。
片手に提げた小さな紙袋にはちらりと赤いリボンの小箱が見える。
(二月の行事といえばこれが残っています)
製菓会社の大商戦。愛の記念日、聖ヴァレンタインデー。菓子屋の稼ぎ時とか恋人たちの甘い一日だとか、そんなことは二の次で日本は純粋にこの時期が好きだ。
「今年もいろいろ発売されてましたねえ」
味はもちろん、見た目やパッケージにも拘った様々なチョコレートが商戦を賑わせている。密かにこういったものが好きな日本としては、純粋に毎年この時期のデパートや菓子屋のショーウィンドウが楽しみなのだ。
最近は不況を打破しようとてか、マンネリの脱却か、男性が女性に送る「逆チョコ」なるものまで出てきた。この時期にチョコレートを買いづらくなる男の身にとってみればこの習慣は日本にとって嬉しい口実になる。
期間限定ガナッシュ。ふふふと唇を綻ばせて日本は帰り道を急ぐ。イギリスから貰った紅茶葉がまだ残っていたはずだ。帰ったら買ってきたチョコレートでお茶にしようと思いながら、幸せな気分で角を曲がって自宅へまっすぐ。
「ぽちくん、只今戻りまし…た……!?」
庭先の方に声をかけながら玄関の鍵を開けようとしてはたと日本は手を止めた。
鍵を差し込んで違和感。玄関の扉は鍵がかかっていない。
日本の声を聞けばすぐに尻尾を振って垣根の間から顔を出すぽちの姿も見えない。嫌な予感に襲われて日本は慌てて戸を開けた。
「まさか……って、ああっ!」
玄関を覗き込んだ途端に日本は悲鳴を上げて頭を抱えた。悪い予感が当たったことは一目瞭然だ。土間に脱ぎ散らかされた黒革のごつい編み上げブーツ、板の間には雪と泥による頑強な靴痕ががっつりとついていて、土足のままで上がりかけたことがばればれだ。申し訳ないと思って掃除するどころか証拠隠滅する気もないらしい。
思わず我が物顔で玄関を占拠する軍用ブーツを蹴っ飛ばそうと脚を上げかけて、日本はすんでのところで思いとどまった。鉄板仕込みの軍用ブーツを雪駄の爪先で蹴ろうものなら結果は目に見えている。
ぶつけられない苛立ちは直接ぶつけるにかぎると、蛇の目を脇に立て掛けるのもそこそこに日本はぴしゃりと戸を閉めて家へ上がった。泥の足跡をよけながら居間へ向かえば案の定、出掛けには消しておいたはずのテレビの音が微かに聞こえてくる。日本語のバラエティー番組など話がろくにわからないだろうに、なにをしているのだろうか。
すぱんと勢いよく襖を開いたそこに、日本が家を出るときにはなかった存在がひとつ。
「よお」
「よお、じゃありません!なにやってるんですかっ」
畳にだらりと寝そべって半身をコタツに突っ込んだまま、その男、プロイセンは億劫そうに首をねじ曲げて日本を見た。右腕を枕に左手はそばに転がってくつろいでいるぽちの毛並みをもふもふ撫でている。コタツの上には剥いたみかんの皮。ここはあなたの家ですかとツッコミを入れそうになって、日本はその言葉を飲み下した。言う前に答えがわかってしまったからだ。藪をつついて蛇を出すところだった。
自宅のつもりかすっかり寛いだ様子のプロイセンは眠たげに見える半眼で日本を睨んで唇を尖らせた。
「なにやってるはこっちの台詞だっつの。俺様が来たってのになんで家にいやがらねえ」
「無茶苦茶仰らないでください。まず連絡も寄越さずに来ないでくださいと何度も言っているじゃないですか」
ドイツからの飛行機での長旅を経ているとは思えないほど唐突にひょいとやってくるプロイセンに、度肝を抜かれたことはもう何度目か知れない。
家に居ろと言うわりには家主が居らずとも勝手知ったるような傲慢さでテレビとコタツを独占しているプロイセンの様子に、こめかみを押さえて(頭痛がしたのだ)ふと、重大なことに気がつく日本。
「プーさん」
「プーさん言うなジジイ」
「鍵、どうやって開けたんですか」
「人の話聞いてんのか」
「かぎどうやってあけたんですか!」
あくまでマイペースなプロイセンの主張をぶった切って日本はコタツを占領する男に詰め寄った。
「プーさん」
「るせーな、鍵は鍵で開けたに決まってんだろ」
前に無理矢理こじ開けてさんざん怒られたことは記憶にないのか、プロイセンは常識ぶって肩を竦める。目眩を覚える自分を叱咤して日本は細い手で彼の黒いシャツの襟首を掴んだ。ぐっと間近に迫る顔にニヨニヨ笑いが浮かぶ。半ば落ちた瞼の下から覗くピジョンブラッドの眼が余裕たっぷりで憎たらしい。
「鍵を、貴方に渡した覚えはありませんが」
近くで見てもアップに耐えうる美形、銀髪赤目に彫りの深いゲルマン系。この中身がこんなのだなんて詐欺だ!いつもなら爺も年甲斐なくときめくところだが、そんなものにはかからない。鬼気迫る様子の日本に怯むわけでもなく、ケセッと喉奥で笑ったプロイセンは憎たらしいほど平然と言ってのけた。
「前に来たときに型取って合い鍵つくった」
「犯罪ですっ!」
そんな俺様すげーだろ、みたいな顔で言われても他にどうツッコミをいれればいいのかわからない。
お手上げだとばかりに日本はプロイセンの服から手を離して頭を押さえた。いつのまになんて聞いても無駄だろうと思う。勝つためには手段を選ばない、開けるためには手段を選ばないプロイセンだ。今更こんなことで再認識したくない。
身を起こしてコタツに肘をついたプロイセンはくああ、とひとつ欠伸をした。ころんと転がったぽちが起き上がると、撫でて欲しいらしくいそいそとプロイセンの胡座の上にのっかる。そうですよねプロイセンさん犬飼ってますもんねさぞかし撫でるのもお上手なんでしょうよ。日本は理不尽とわかっていながらもうらめしく愛犬を見つめる。裏切られた気分だ。
せっかくのんびりお茶にしようと思っていたのにみんな台無しだ。はあ、という日本の深い溜め息を聞き咎めたプロイセンが不服そうに鼻を鳴らした。
「なんだよ不満あんのか」
「ありまくりです。なんで急に来るんですか。どうせ用もないんでしょう」
だいたい貴方はいつも唐突なんです。人の都合も考えないし。この俺様男め。あとからあとから溢れてくる愚痴をここぞとばかりに並べ出す日本。プロイセンは呆れた風情で片目だけ半眼になって、急に饒舌になった日本を眺めた。普段溜め込んで抑えている日本が遠慮なく本音をぶちまけてくるのは相手がプロイセンだからなのだと知っているから、こんなことでも却って嬉しく思えるのは変ではないはずだ。
むしろ呆れているのは、よくもまあ溜めていたぶんこれだけ滔々と喋れるものだなということだった。もっとこまめにぶつけてくれても構わないのだが、長年のサガは覆せまい。
長々と愚痴を零す日本の言葉を五割聞いて五割流しながらプロイセンはとりあえず主張しておきたいことは言っておいた。愚痴られるのは構わないが、有耶無耶にされては困る。
「オマエ、恋人に会うのに用とか理由がいんのかよ」
「……」
タテマエが好きなのもいい加減にしろよな、と形のいい眉をしかめて吐き捨てたところで、おやとプロイセンはいつの間にか黙りこくった日本を見やった。俯く黒髪を指先でかきあげて覗き込み、思わず吹き出す。
「ばっか、おま、何で今更照れてんだクソジジイ」
「うるさいです、プーさんのくせになんてこと言うんですか」
「はあ?特別なことなんざ言ってねーだろ」
「だからそれが反則なんですああもう萌え……っ」
「わかんねえよ」
真っ赤になった頬を隠すようにコタツに突っ伏してしまった日本の髪をわしわし撫でながらプロイセンはまた唇が緩みだすのを止められない。なにが日本のツボだったのかはわからないが、照れて恥ずかしがる日本を見るのは大好きだ。
によによ笑いのまま日本の黒髪を掻き分けて指先に触れた耳をひっぱる。そこまでしもやけのように真っ赤だ。
「……で?」
「はい?」
「俺様の訪問を歓迎する気にはなったか」
「……お土産はあるんでしょうね」
決まり悪げに顔を上げた日本の言葉にプロイセンはにまにまと笑った。
「ヴルストにビール。あとちっと遅れちまったが、てめえの誕生祝いな」
「……え」
「お前まさか自分の誕生日まで忘れてんじゃねえだろうな」
耄碌するにゃあまだ早えぞ、というプロイセンの余計な一言は、幸いかな日本の耳には届いていなかった。プロイセンの言った言葉を反芻して驚いたようにぱしぱしと双眸を瞬く。その様子にプロイセンは毎回思うのだ、わざわざ海を渡ってきた甲斐があったというものだと。
「だって、もう誕生日って柄でも……」
「だから恋び……」
「駄目ですプーさん!これ以上ときめきで爺の心臓に負担をかけないでくださいっ!」
「だからプーさん言うな」
「うわあああ!若者にはついていけません!ジェネレーションギャップです!」
わけのわからないことを言って慌てる日本に、そりゃあ何百年のギャップだよと思いながら、プロイセンは滅多に取り乱さない日本の珍しい姿を眺める。つんとすまして老獪に世間をすりぬける日本もいいが、隙をみせる瞬間だって見たいと思うのは恋人同士なら欲張りなことではない筈だ。
年の差カップルかよ最先端じゃねえの。そういやお前、年の差カップルのトシシタゼメが熱いんですよねとか語ってたじゃねえか。言ったところに座布団を顔面目掛けて投げつけられた。これがデレってやつか?と考えられるプロイセンは果てしなく前向きだ。
「黙ってて下さい。あなた黙ってればかっこいいんですから」
「いつもかっこいいだろ。よく見ろ」
「もういいです」
ぷう、とむくれてコタツに潜り込んできた日本に、そういえばとプロイセンは空港から此方に来るまでの街頭の様子を思い出しながら声をかけた。
「……ところで日本」
「はい?」
「今日って何の日か知ってるか」
「……え、」
ここにきてまさかの問いに日本がはっとする。そんな日本を相変わらずのニヨニヨ笑いで眺めながら、俺様何様プロイセン様々は最大級の殺し文句をのたまった。
「俺様は本命からしか受け取らねー主義なんだよ。さっさと寄越しやがれ」
「……フランスさんちのでよろしければ」
「てめえそりゃどういうツンだよ!嫌がらせか!」
恋愛戦線異状なし
Close
20100228
|