[C6H2N4O5]
大学の講義において眠気との戦いというものは、永遠に解決しない問題のひとつであると考えられる。要因が分かればある程度の対策も立てられようものだが、それでも限界がある。
例えば、と開いたままのノートと前方の黒板を見比べて政宗は早速、瞼が下がってくるのを阻止しようと、口中に入れていた飴をがりりと噛んでみた。薄荷の香りが口の中に広がって少しだけ眠気は飛んだが、これもごく一時的な効果しかない。
再び、板書を見比べる。小難しい専門用語と漢字の羅列、及び複雑な方程式と化学式。これで眠くならないはずがない。この講義の教授は達筆で白墨の文字も読みやすく、いっそ美しい程だったが、如何せん講義内容自体が難解だった。
次に挙げられる要素としては教授の講義の進め方がある。わかりにくく退屈な授業は勿論、速攻で睡魔と心中だ。その点、教壇の前で分厚いテキスト片手に無煙火薬の反応式を解説している教授の講義は、少なくともわかりにくいとは言えない。
立て板に水、滔々と続く解説と解り易い例題に引用。テキストと便覧のひき方も適切だし、複雑な証明や化学反応計算も論理的な解説で非の打ちどころがない。講義自体も人気で、一般教養でもなければ日常的に必要な科目内容とも到底考えられない講義であるのに、誰でも受けられるが故に毎期の受講人数は学部問わず多かった。
但し、と大分小さくなった薄荷飴の欠片を舌の上で転がしながら、半ば投げやりに政宗はペンを走らせる。解説は的確だが酷くたちが悪い。難しい言葉や言い回しが混じり、論理的だが進むスピードが鬼のように速い。ときどき挟まれるウィットや、妙に生々しい追加知識や実例は一部生徒に大人気だが、政宗としてはなんだか背筋が寒くならないでもない。どう考えても教授当人の為人だろう、これは。
受講人数が多い講義は大体、大人数を収容できる階段教室が宛がわれる。教壇からなるべく遠い席に陣取った政宗は、隻眼でちらりと斜め左を見た。銀色のおさまりの悪い髪がはねた頭が机に轟沈している。西海の鬼、此処に討死。と脳内で卒塔婆を立ててやって再び前に視線を戻した。見渡せる教室内はだいぶ席が埋まっている方だが、元親同様に睡魔に敗退している者も少なくなさそうだ。
教授は居眠りの生徒に対して特にどうこう言うわけでもない―――当然だ、大学の講義において、生徒が居眠りして単位を落とそうが自業自得なのだ。教授にとっては痛くも痒くもないだろう。
二列ほど前の席に見知った後ろ姿を見つけて、政宗はまた少し落ちかけていた瞼を押し上げた。いつも一緒に席をとる仲間だが、今日はひとつ前の講義がおしていたらしく、滑り込みだったので前寄りの席に座っている。
隣にいるのは長い黒髪の女生徒だ。一目見てはっとするほどの美人なのだが、纏う雰囲気がどうにも肌寒く薄暗いので、そちらの印象が強い。あれは確か理事長の妹で、数学部准教授浅井の許嫁だ。隣に座る家康が理事長の一家に昔から世話になっていたために、彼女―――市は随分と懐いているらしい。二人は恐らく先の講義が一緒だったのだろう。
うすどんよりと暗雲を背負った小さな頭と一緒に並んでいる、つんつんと逆立てた黒髪の頭の方は角度からして、まだ討死はしていないようだ。大変に危うそうだが。家康は睡魔と戦いながらペンを握りしめているようだった。
家康については、政宗とは講義のノートを見せ合う同盟相手だった。この講義では居眠りをしているのを見たことがない。というか、居眠りしていないか欠席しているかの二択だった。正直、政宗と出席率はどっこいどっこい。一度聞いてみたところ、なんとなくこの講義で眠ったら身の危険を感じるのだと真顔で返された。それには政宗も流石に反論できない。
「であるからして、このトリニトロトルエンの反応における爆轟速度を求めると、先程の例より……」
朗々と響く講釈を左から右に流しながら、政宗は再び憚ることなく大欠伸をした。
たぶん最大の要素はこの声ではないかと思う。穏やかに響く張りのある声は耳に心地よい低音で、時折掠れる様はやけに色っぽい。そのくせ紡ぐ言葉は、よく聞けば鋭い棘と甘い毒を共に含んでいて、まるでわかっていて惹かれずにはおれない中毒性のようなものがあるのだ。この声が滔々と複雑な論理を説き、煩雑な化学式を唱えてみろ。
(とんでもねえ子守唄じゃねェか)
室内に流れる声音を聞きながら、政宗は重くなってきた瞼に抗うことをやめた。薄荷ももうないし、どうせノートは家康が取っている。講義時間もあと少しで終わるところだ。
うとうととしながら、難解を極める爆破推進力の定義をBGMにしていると、やがて、時計の針が講義終了時刻を指した。
「故に、この爆薬の含有成分は下表のようになる。ふむ、時間になったようだな」
分厚いテキストを片手でぱたんと閉じると、火薬学講義担当教授である松永久秀は、古風なモノクルをかけた片目をやや眇めて、とっておきの低い声音でさらりと爆弾発言をした。
「では来週は第一回経過考査を行なう。卿らの健闘を祈るよ」
ごきげんよう、と優雅に挨拶をして教室から去って行った松永の通告は、即座に教室内を死に至らしめた。
※
試験範囲の告知無しで試験だとか、抜き打ちとほぼ変わらないだろ、というのが元親の言だ。その場に集まった面々は概ね、その意見に同意する。
昼を過ぎたこの時間は、食堂やカフェは人がまばらだ。大学構内のカフェでテーブルを囲んだ面々は、外の陽気に反して暗雲垂れこめる様相で顔を見合わせた。
「っつうか、それならいっそ抜き打ちにしろよおお」
「Stupid!そんなのわざとに決まってんだろうが。告知しておいてテストまで生徒が苦しむのを楽しんでんだよ、松永は!」
呻いて再びテーブルに額をぶつける元親の横で、行儀悪く政宗が舌打ちをした。目の前のアイスコーヒーは氷が半分ほど溶けている。正直、テスト範囲なんて想像がつかない。講義のノートを開いていた家康が顔を上げて、眉を寄せたまま少し笑った。
「普段から講義に出ていれば解けるような設問内容なんじゃないか?」
「…おい、それ本気で思ってるわけじゃねえよな?相手はあの松永だぜ?」
即座に目の据わりきった政宗に額もくっつかんばかりに詰め寄られて、家康は一瞬の空漠の後、真顔で返した。
「すまん、思っていない」
「このやろう」
食えない青年の額にでこぴんをかまして、再び椅子に座りなおした政宗の横で、元親が呻き声のような唸り声のようなものを上げている。
「もーいいじゃねえかよー。経過テスト一つ駄目だったところで期末があるだろー」
投げ遣りな方針に、それもそうかと同意したくなるのを慌てて振り切る。思い返すのは学期初めに嫌々捲っていたシラバスだ。講義概要を記してある、あのくそ分厚い冊子の火薬学講義の詳細欄が政宗の脳裏をよぎる。ふと横を見れば家康も神妙な顔で政宗を見返したところだった。視線を交わしただけで互いの考えていることがわかるのは、結構な腐れ縁の所為か。
「なあ、家康……成績の反映方法は?」
「出席日数と経過テスト及び期末…レポート、じゃないか?」
「Oh my!」
からん、とグラスの中の氷が音を立てて崩れる。
「テストの点はやはりワシらの死活問題だな」
こめかみを押さえた家康の言葉が耳に痛い。松永のレポート採点は過酷で有名だ。出席日数はそこそこであっても、それで及第点をカバーできるか非常に怪しい。テストは逆に救済措置なのだ。ちくしょうと呻いた政宗はそこではっとして、斜め向かいで我関せずと雑誌を広げている橙色の髪の男を睨みつけた。
「そういや猿飛、お前去年この講義取ってたよな?」
「ああ、過去問知りたいって?俺様に聞いたところで無駄無駄」
「んでだよ」
あっさりと一蹴した佐助は、手にした雑誌を捲りながら軽く肩を竦めてみせた。意地悪とは違うなにやら悟ったような面持ちなのは、どういう了見だろうと家康が眉をひそめる。その横で元親がもはやどうでもよさそうに、家康の抹茶フロートのアイスを掬っていた。
「しかし猿飛、昨年はちゃんと単位は取ったんだろう?」
「俺様が落とすわけないでしょ。ちゃあんといただきましたよっと」
「じゃあどうしたんだよ」
凶悪に眉を寄せる政宗に佐助はそりゃあ弛まぬ努力、と嘘っぽいしたり顔で返した。明らかに愉しんでいる。
「あっちにも聞いてみなって。過去問なんてあてになんないんだよね、あの講義」
家康と政宗の二人が揃って視線で追った佐助の指の先に、絶妙のタイミングでばかでかい長身の見知った姿があった。高く括った茶色の髪に、今日は鳥の羽飾りがささっている。おなごの付けるものではござらぬか?と疑問を呈していた幸村の言葉がまさにその通りなのだが、違和感がないのが問題だ。
肩に鞄をひっかけた派手ななりの慶次は一同に気づいたのか、これまたばかでかい声で手を振った。
「あれーみんな揃ってる?」
しかもなんだか暗い顔してるねえ。そう言ってやってくる前田教授夫婦の甥っ子は場の空気もなんのその、極めて能天気だ。こいつが本当にあの苛烈極まりない松永の火薬学の単位を取ったというのだろうか。あからさまに半信半疑な顔をする政宗の、そのあからさますぎる眼差しを咎めるように、家康が脇腹を小突く。
「どうしちゃったの、政宗。色男が台無しだよ?」
「アンタも去年の松永のアレ、取ってたって?」
「あー、あの名物講義ね……ははは、あれは酷かったなー」
アレとかソレで通じてしまうほどの講義なのだ、と改めてげんなりしながら家康は頬杖をついた。知っていたらこんな講義は取らなかった、と言えてしまえば楽なのだが、自分の希望進路と照らし合わせるとどう転んでも必修分野なのだから仕方ない。世は無常である。
「うーん、見せるのは全然いいんだけど、あんまり参考にならないと思うよ?」
困ったように笑った慶次の様子に、答えは八割方予想できてしまい、家康はああと少し頬を引き攣らせた。佐助と同意見ということらしい。
「俺もテスト対策のために、前の年に受けてた風魔に過去問借りたんだけどさ……」
範囲と問題の傾向がさっぱり掴めなかったんだ、と頭を掻く。元親がマジかと呟いた。小首を傾げた家康が、此方は純粋な疑問というように尋ねる。
「ちなみにどうやって突破したんだ?」
途端に慶次の相好が崩れた。どうやら踏んではいけない地雷を踏んでしまったと気付いた瞬間、テーブルの下で政宗のブーツの先が家康のカーキ色のカーゴパンツの脛を蹴っ飛ばす。
「えへへー、孫市に教えてもらったんだ」
代わりに一ヶ月間、研究室の使いっ走りになってたけどね。肩を竦めながらも顔はにやけているのだから、これは利害の一致というやつだろう。成程、非常勤講師の雑賀孫市ならば火薬学も専門分野に近い。この上ない相談相手だが如何せん、スパルタに尽きるだろうなと想像ができて、そちらに縋るルートは一同の頭の中で即座に遮断された。
そのまま慶次の惚気が始まるが、収拾がつかなくなる前に横合いから入った声がそれを上手い具合に遮ってくれた。
「つまりさ、出席もテストもレポートもどれも手が抜けないようになってんの。すっごいバランスで組まれてるよね」
火薬の調合みたいだと皮肉をまぶした佐助の言葉に、一同の間で沈黙が起きる。鬼だ悪魔だ。
「オーケー、こうなりゃ作戦変更だ」
お通夜の様相になったカフェのテーブルを政宗の拳がどんと叩いた。
スマホを取り出してなにやら始めながらきっぱりと言い放った声音は、采配し慣れた者特有の、傲慢さと安心感を感じさせるものだった。持って生まれた素質もあるのか。戦国の世でも彼はカリスマと決断力の抜きん出た男であったのだが、勿論それは当人の知るところではない。大切なのは今、この場でのその発言力の大きさと影響について、だろう。
「直接テストのヤマを聞きにいって来い、家康」
「え、えええええ?!ワシがあああ?!」
政宗の落とした爆弾の爆轟威力は軽々と家康の思考を吹っ飛ばした。
※
重厚な扉の前で、徳川家康はかれこれもう十分以上は悩んでいた。
時折、廊下を通りかかる他の学生に不審そうな眼差しでちらちらと見られていたのだが、当人は気付いていない。というか気付く余裕もないほど切羽詰まっていた。この目の前の扉をノックするかどうか、それが問題だった。To be or not to be.である。正直、生きるか死ぬかよりも深刻な問題だ。
他の教授の研究室よりも聊か重厚すぎるきらいのある扉は、どういった理由で取り付けられたものなのか、家康は知らない。確かにその分野では高名な教授だし、学会でも確かナントカカントカという小難しい肩書があった筈である。だが、だからといってこの研究室は他と比べて特異すぎる。ゼミの学生控室とはやや離れているが、確か特別に設えられた個人実験室が隣に繋がっていた覚えがある。
「ううう、やっぱりやめたほうが無難だよなあ……」
政宗の課した使命をもう十回くらい反芻した家康の唇からは、深い深い溜息が落ちる。確かに単位は欲しい。講義内容的にも落としたくはない。けれど、あの松永相手にテストのヤマを聞き出せというミッションの方が単位を取るより遥かに難しい気がする。これでは本末転倒ではないか。
何故か政宗はお前なら大丈夫だ、などと根拠もない太鼓判を勝手に押してくれたが、さっぱりだ。むしろ家康自身は自分では特に何もしていないつもりなのに、松永にうっすら目をつけられている気がして警戒してさえいるというのに。
(ワシが行った方が余計に逆鱗に触れるんじゃないだろうか……)
松永教授が激怒する姿は想像がつかないが、冷やかな笑顔で微笑む姿は簡単に想像がついた。そのあとは恐らくえぐい展開しか待ち受けていないだろう。あんなのに心酔している学生は皆、ドエムなのだ。きっとそうだ、ワシは違う!思わず涙が滲みそうになって、家康は拳を握りしめた。
素直に聞いて教えると思うか?あの男が?
「ないな」
「なにがないのかね」
「ひいっ!」
思わず変な声をあげてしまったが、絶叫しなかっただけまだましだと思う。反射的に飛び下がった家康の背中が、何故か焦げ跡のある重厚な研究室の扉にぶつかる。少々勢いがよすぎた気もするが、その点について声をかけた張本人である松永久秀教授は特段咎めるつもりはないようだった。
軽く黒革の手袋をはめた指先で己の顎をさすって、ふむと呟く。
「ま、ま、松永……教授…」
取ってつけたような「教授」になってしまったのは、家康の動揺が大きかった所為だろう。漆黒のスーツに身を固めた松永は、いつものモノクルを嵌めた左目だけをくっと僅かに動かして家康を見た。表情に特別なものは無いように見える。けれど、本来の直感というか嫌な経験からしてそれが松永自身の内心と等価ではないということを、家康は瞬時に嗅ぎ取ってしまった。そうだ、この男はそういう男だ。
「質問に答えたまえ」
「いや……すみません、独り言です…」
「そうかね」
大概苦しい言い逃れだったが松永は特に追求はしなかった。あっさりとした返答に、身構えていた家康は肩透かしを食らったように目を瞬く。
その一瞬の隙に松永が脚を踏み出した。急なことに油断をしていた家康は動けなかった。ぐっと縮まる距離に一瞬でパーソナルスペースを侵される。低温の黒い焔のような眼差しが近づいたと思った刹那、がちゃりと音がした。松永の片手が扉の取っ手を動かした音だ。
同時に背中にぶつかっていた扉がそのまま内側へ開かれる。ひっくり返らなかったのは家康の運動神経の賜物だろうが、よろける脚を踏みとどまるまではいかなかった。
「遠慮せずに入りたまえ。突っ立っていられると邪魔だ」
「えっ、ちょっ……ワシはそういうつもりではないんだ、がっ!」
「ではどういうつもりで私の研究室前に長々と立っていたのかね」
「って、いつから見てたんだアンタ!」
「卿がノックをしようとして握った拳で壁を叩いたあたりからだよ」
「最初っからじゃないか!声くらいかけてくれ!ワシはずかしい!」
拒絶の選択肢どころか隙さえない追い打ちの嵐だ。そのまま問答は滔々と流れるままに、松永は動作を止めない。掴んだ取っ手を押して更に一歩前へ進む。まるで狙ったかのように顔が近づく。唇が触れそうになるまで近づけられる、年齢の読めない端正ながら凄味のある松永の顔に魅入られそうになって、家康は寸前で我に返る。なんなのだこの男。
当然のように間に家康を挟んだままで扉を押し開ける松永の長身に押されて、反射的に家康はそのまま後ろへ下がってしまった。言葉通りに自ら研究室内に飛び込んでしまったと気付いたのは、男の背後でばたんと扉を閉める音が響いた時だった。
「妙な顔をするなあ、卿は。私に用があったのではないのかね」
後ろ手にそのまま鍵を締める手つきが自然過ぎていやらしい。ここにきて家康は、飄々とした松永の目つきが獲物を前に甚振る猫のような眼差しであることを確信した。ていうかどうして鍵をかけたし。
(なんであそこで脇に避けなかったんだ、ワシは……)
思わずがっくりと膝をつきそうになってしまうのを堪えて、家康は己を奮い立たせるために密かに拳を握りしめた。袋の鼠だろうがなんだろうが、実際に目的があって松永の研究室まで来たのは事実だ。……どうして留守なのを確かめて、さっさと帰らなかったのだろうか。すぐさま十分前の己を恨んで、折角奮い立たせた心はすぐに半分ほど打ちひしがれる。
居心地が悪くて恐る恐る室内を見回す。家康の知る他の教授達の研究室よりやや広いと思われる室内は、至って普通の様相をしていた。専門書のぎっしりと詰まった書架に、広い書き物机とパソコン。鍵付きの薬品棚。電気ポットや食器棚といったものもある。
目を引くものといえば骨董品らしき茶碗が並ぶ飾り棚と、アンティークの燭台。ふと見上げた壁にかかった額には、実に癖のある達筆で「天我独尊」としたためられている。ぐるりと一周視線を巡らせてみて、一瞬家康はこの部屋の主の専門学が何だったのか、見失いそうになった。
「え、ええと。ワシは……その、」
言葉に詰まるのも致し方ないだろう。面と向かってこの男にテストのヤマを探り入れるような奴が居るなら、見てみたい。真っ向から松永の視線を受けて家康は内心冷や汗をかいた。
あからさまに威圧的ではないのに、総毛立つような覇気が肌を刺す。低く柔らかな声音が穏やかに聞こえながらその実、甘い毒を含んでいるように感じるのは、その奥に隠された悪意にほど近い何かを、本能的に嗅ぎ取っているからか。松永の言葉は歪な凶器に似ている。それが刃だと気付いた時には既に手遅れなほど、抉られていて助からない。
真っ向から視線を受け止めるので精一杯だ。それでも逸らされぬ眼差しに充分満足がいったのか、松永はふ、と唇を見事に吊り上げて、片手を傍らのテーブルの上に伸ばした。其処には凝った細工の葉巻入れが置いてあった。
「そう固くならなくてもいい。大体の想像はつく」
「え」
「卿は次の考査の出題範囲が知りたいのだろう?」
逆にあっさりと言いあてられてしまい、家康はぽかんとした。葉巻入れを開けて葉巻を取り出しながら嘯く松永は、なんでもないことのように言葉を継ぐ。どうやら怒ってはいないらしい。
「えー、参考までに知りたいのだが……」
「たしか、卿は」
存外あっさり教えて貰えるかもしれないという一縷の望みは、しかし早速次の瞬間に打ち砕かれた。というのも、ちらりと視線だけ上げた松永の、その形のいい唇が凶悪に吊り上がる瞬間を、家康は確実に見てしまったからだ。
「前半の私の講義は、ほとんど出席していないね」
「……っ」
ぐうの音も出なかった。この男、生徒の顔を見ただけで出席割合を紐付けられるのだろうか。実はそれは否であり、相手が家康だったからだというのが答えなのだが、当然ながら当の家康はそんなことは知る由もない。再び空気が凍りつく心地の家康を、追い詰めた獲物でも見るようにしながら、松永は取り出した葉巻をゆっくりと持ち上げた。
「結構、結構。咎めているわけではないよ、出席については自己責任だ。ただ、基本的な内容ぐらい理解していなければ考査範囲を聞いても無駄なのではないかと思ってね、東照」
「……御心配痛み居る。しかし自己責任ならどうこう言わなくてもいいじゃないか。それこそ貴方にわざわざ指摘される筋合いはないぞ。テスト範囲と出席率は関係ない」
しかし鋭い嫌味に屈服するほど家康も素直な方ではない。なるべく関わり合いになりたくないと言っていても、松永との付き合いは二年目だ。苦手なのは変わりないが、どう出ればいいのかくらいはある程度、掴めてきたつもりだった。加えて逆境において度胸と咄嗟の判断に秀でているのは、家康の強みだ。
出席していれば点数の取れるテスト問題を出す気はないんだろう?そう言ってカマを掛けてみる。
そもそも講義を欠席していようとも、テキストはあるのだから自習くらい出来る。出席点が足りないと指摘するならまだしも、講義に出ていないから基礎ができていないのではないか、などということを今この場でわざわざ言及する松永は、一体何を言いたいのだろうか。この男のことだから、本心から心配しての言葉ではないだろう。嫌味にしても浅い。
言葉通りの意味ではないならば、これは次に続く布石だろう。
開き直って正面から相対してやれば、松永は悪びれた風もない家康の態度にくっくっと喉奥で笑った。
「その点については否定はしないよ。ただの親切心だ。私も鬼や悪魔ではない」
(嘘つけ……)
思わず出かかった言葉を呑みこんだのは英断だ。じとりの睨みつける家康の視線を平然と躱して、松永は火の点いていない葉巻を長い指先で弄んだ。そういえば彼がこの黒革の手袋を外しているのを見たことがない。そんなことをぼんやりと考えていた所為で、松永の次の科白にうっかり惰性で頷きかけてしまった。
「わざわざ考査範囲を乞いに来た熱心さに免じて、基礎のなっていないだろう卿に個人授業をしてあげよう」
「……はあ、……は?!」
「御足労頂いたのだから、手ぶらで返すわけにはいかないからな」
「遠慮するっ!」
吃驚するほどの斜め上の展開だったが、お陰で家康の次の行動は即決だった。三十六計なんとやら。至極楽しそうな松永の文字通りの爆弾発言に全力で返しながら、即座に扉までの距離を目で測る。大股で駆けて七歩、しかし直線上には松永が立っている。反対側にある大窓は蹴破るには問題ないが、ここは五階だ。結論的に正面突破しかない。
「火薬といっても多種多様だが、一概には破壊を目的として使用するものではない」
「―――っ!」
瞬発力には定評のある家康の、強脚が床を蹴った。それよりもはじまりの合図の方が更に半瞬早かった。ぱちんと指が鳴った。以前に何処かで聞いた音かもしれなかった。瞬きの瞬間に目の前を真紅の火が壁の如く塗り潰し、焔が天井を舐めた。
(は?!)
思考よりも身体的反射の方が遥かに早い。押し寄せる熱風が頬を焦がすのを感じた時には、家康の体は最前の意図に反して横っ跳びに床を駆け抜けていた。咄嗟に床に転がって低姿勢で熱波を躱し、伸ばした手に触れた近くの椅子を引き摺り寄せて盾にする。
「このように爆燃の力によって推進力を得るのが主だ。また軽度の破砕に利用する」
揺らめく焔の向こう側で松永の声が聞こえる。赤々と周囲を照らす火がさっと割れた、刹那にもの凄い覇気が家康の頬を叩いた。次に耳に届いたのは空気の膨張する音だったのかもしれない。明るい色が揺らめいてその間隙から焔が鞭のように伸びた。
「使用火薬は硝酸エステルを主成分とするものだ。ちなみにこれはダブルベース。特徴は覚えているかね?自然分解が起こるので安定剤が必要となる。一方、過塩素酸アンモニウムを酸化剤として使用したものもあるが。此方は自然分解の懸念はない」
陽炎のように歪んだ空気層の向こうに、室内の光景とは違うものが一瞬見えた気がして家康は息を呑む。掴んだ椅子を足場に飛ぶ。手近の机の端を蹴って壁を斜めに駆けあがり、虚空を跳躍したその直下を、蛇のように赤い火の軌跡が蛇行して舐めつくした。
「だが、一番の利点は屋内で使用できることだな。無煙火薬のよいところだよ、東照」
「ちょ、待っ……!」
宙返りをうって飛び降りた床で火の粉が散る。振り返った家康の目の前に松永の伸ばした片腕があった。何時の間に、と思った時には腰が書き物机の縁にぶつかっていて、そのまま後ろに倒れそうになる。宙に泳いだ家康の腕を松永の腕が掴む。強く引き戻されて再び距離が狭まったと自覚した刹那、にやりと笑った松永の唇が口に含んだ葉巻の煙を家康の顔めがけて吹きかけた。
「黒色火薬のほうが安定しているし着火性が高いのだが。有毒ガスの発生はこのような屋内には少々不利だと思わないかね」
「な、なにをするんですかアンタ……っ!」
噎せ返って身を折りながら松永を睨みやった家康は、愕然とする。先程まで燃え盛っていた焔が消えていた。うっすらと漂う煙と硝煙の香りだけが酷く鼻を刺す。かき曇る視界に、どこか知らない焦土が見えたような気がして涙で滲んだ目を擦った。
いつの間にか火の点いた葉巻を咥えたまま、松永は滔々と喋り続けている。
「しかし私は爆薬を奨励するよ。破壊を目的とした使用が可能だ。東照、爆轟の定義を?」
「……衝撃波を伴う超音速反応の伝播。2000〜8000m/sec」
「よろしい」
冷や汗が喉を伝うのを拭いもせず、家康は戸棚へ向かって歩き出す松永の背中を見つめた。漆黒のスーツの背に緩く編んだ髪の先が揺れている。すらりと伸びた強靭な背中に白と黒の着物を着た背中が被って見えた気がして、心臓が変な音をたてた。
この胸騒ぎはなんだというのだろうか。拳を握って漸く己の体が震えていたことに気付く。視線をさまよわせて部屋の扉を確認するが、其処へ向かうために脚が動かなかった。
「爆薬にも複数の分類があるが、使い勝手の良さは含水爆薬とダイナマイトをお勧めする。これらは総じて威力も大きく」
言葉が途切れて松永が振り返る。手袋をはめた掌に無造作に乗せられた細長い棒状の固形物が何であるかを判断するより先に、その手が持ち上がる方が早かった。
「このように衝撃を与え……」
「うっわああああ!!」
まるでナイフのように投擲されたそれに、全力で家康は飛び下がった。受け止める余裕はなかった。正直、その大きさの膠質ダイナマイトとスラリー爆薬がどのくらいの猛度を伴うかなんてわかるはずがない。遮蔽物に成り得る書き物机の影に飛び込み、来るべき衝撃波に備えるために床に転がって低く伏せる。次には爆音と熱衝撃波が研究室内を揺るがす筈だった。
だが、爆轟は発生せず、代わりに頭上から落ちてきたのは松永の皮肉げな含み笑いだけだった。
「……与えても、問題がない。打撃摩擦及び火に極めて強いのは知るところだと思うが…。ああ、安心したまえ雷管は外してあるよ」
「アンタ最低だ……」
「よく言われるね」
蹲って恨めしげに唸った家康を視線だけで見下ろした松永が、底意地の悪い笑みを浮かべて葉巻の煙を吐いた。
どんな作用か部屋の壁にめり込むように突き立った、円筒形のダイナマイトと含水爆薬を視線の端で見ながら、家康は一刻も早くここから逃げたいと思う。この教授がわからない。そもそも火薬爆薬類は規則で決められた造りの火薬庫で保管され、実験のために持ち出すとしてもこのような扱いをしていいはずがない。
ぱしぱしと強く瞬けば、相変わらず上品な黒のスーツを纏う教授は、講義中に目が合った時と同様の焦げ付く様な眼差しで家康を見返してくる。これが現実なのか夢なのか一瞬惑って、また息を呑んだ。
「立ちたまえ、東照。講義を続けよう」
「ワシ、もう帰りたいんだが」
「さて、これらは耐水性にも優れているが、深水中では水圧による死圧現象に注意する必要がある」
「……せめて普通に講義してくれ」
無駄だとわかっていながら一応、意見を申し立ててみるが、松永は優雅な笑みを浮かべるだけで取り合おうとしなかった。彼が片手で指し示す椅子に、腰を下ろす気にはやはりなれない。ふいと横を向いた松永の向こうに、夕日が落ちる荒野に似た風景が見えた気がして家康はまた首を振った。今日の自分はおかしい。全てはやはり幻なのだろうか。鼻先を突く硝煙の残り香はまだ幻というにはきつすぎるのに。
「これらの爆薬は知っての通り火をつけても燃えるのみ。爆発させるには雷管が必要になるわけだ」
急に近くに聞こえた低いざらついた声音にびくりと身を震わせて、家康は思考を引き戻された。いつの間にか傍らに立った松永の手が家康の右手を掴む。自分の手にはいつの間にかたくさんの傷跡が浮かんでいた。おかしい、いつの怪我の痕だろうか。最近家康は手に怪我をした覚えはなかった。何度も傷付いては癒え、癒えたところから傷がついて、そうして歪に固まったような、夥しい赤い痕だった。それが家康の手指を甲を覆っている。一体、どうやってついた傷だろうか。
筋の強いしっかりとした指先に、松永の黒革の手袋をはめた手が雷管をそっと握らせる。そのまま重ねて握られた手指を、振りほどきたいのに動けなくて、家康は戦慄した。
「金属管体に点火薬、延時薬、起爆薬、添装薬を充填させているわけだが、ここで重要なのものは起爆薬だ」
耳元で囁く松永の声音が神経の深いところを刺激する。強い硝煙の香りと混じる伽羅のような香木の匂いに、家康は心臓が早鐘を打つのをとめられない。覚えがない、筈なのにこの薫りを何処かで知っている。耳朶を舐めるような深いこの囁きを、知っている。
「爆薬の類ではあるが、通常の爆薬との最大の違いは、起爆薬は名の通り火をつけると即座に爆轟するという点だ」
「……松永……」
「ジアゾジニトロフェノールで180度、アジ化鉛で345度……さて」
「……松永、久秀」
「卿の発火点ははたして何度だろうかね」
ぐいと顎を掴まれたと思った時には唇が触れていた。同時に仰け反った喉に松永の黒手袋の嵌った指が食い込んだ。猛禽の爪のように喉笛を掴みあげる。絡んだ舌が呼吸を奪った。
(松永……弾正久秀)
苦痛の中で咄嗟に見開いた家康の目に松永の視線が毒の滴るように落ちてくる。暗い火のような目だ。影を纏って立つ男の背に紅蓮の炎が燃え上がる。燃えているのは旗印だ。櫓も見える。刀のぶつかりあう音も、きつい血の匂いも、それから誰かの声が家康の名を呼んでいるのも。
『東照』
そういえば、この男は何故いつも家康をそう呼ぶのだろうか。
「……う、っ」
唇を塞がれて息ができない。視界の端で松永の指から火の点いた葉巻が傾くのが見えた。家康の手には雷管が握られている。起爆の準備は既に整っている。あとは、火をつけるだけだ。そう、簡単なこと。
「…あ……あ、ぁ、」
解放は唐突だった。
不意に接触が離れた。喉首を掴む松永の片手が、無造作に物でも放り出すように家康の体を突き飛ばす。勢いよく反転して傾いた視界で松永の片手が四角い固形のものを投げるのが見えた。似たものをこの前どこかで観た映画の銀幕で観た覚えがあると家康は一瞬、他人事のように思った。確かTNT爆弾。
『トリニトロトルエンはニトロ基が三つ以上結合して出来た安定性の高いニトロ化合物。刺激に鈍感だが威力は大きくて、軍用にも用いられている爆薬だ。酸素バランスがマイナスとなり……』
無意味に脳裏で松永の講義の光景が巻き戻っていく。昨日、一昨日の朝、どんどんとコマ落としが速くなりフィルムが巻き戻るように記憶が混乱していく。どこまで巻き戻るのだろうか。夕日が落ちた焦土が見えた。戦場のようだと思った。家康の知らない景色だ。なのに知っている気がする。
ガラスの割れる音がした。家康の体は勢いよく床に倒れて転がった。受け身を取り損ね床に叩きつけられた痛みで我に返って、慌てて身を起こす。
顔を上げた家康の眼前に研究室の割れた窓がある。逆光で見えないけれど誰かが立っている。羽織った衣の裾が天使の翼のように広がり、蝕の如く斃れている家康を覆っている。すらりとした脚が地面を踏みしめ、手にした剣は赤々と血を吸っている。滴り、地面を穿ち貫く殺気は切ないほど鋭くいつだって家康の胸を貫いた。お前はワシを殺すと言うが、もう、お前のその眼差しは何度だってワシを殺しているのに。
(ああ、綺麗だなあ、お前は)
銀光が虚空を斜に両断する。一拍遅れて響き渡った爆発音に押し流されて、家康はそのまま気を失った。
※
目が覚めた時にも長い影が揺れていた。
夢の続きが現実かよくわからないままの心地で、家康はゆっくりと目を開いた。直前まで夢を見ていたというのに、覚醒すると途端に薄ぼんやりと記憶が曖昧になって思い出せないのは、一体どういう作用なのだろうか。たしか一学年上の毛利がそんなことを研究していたはずだ。実験に付き合えと言われて元親と一緒に無理矢理研究室に呼ばれたことがあった。まだ夢うつつの状態から抜け出せないまま、家康はそんなことを思った。
夢を見ていた気がするのだが、思い出せない。
(あれ、ワシなにしてたんだ?)
ぱしぱしと瞬きをすると、焦点を結んだ視界に見覚えのある天井が映る。自室の見慣れた天井ではないが、それだけですぐに此処が何処かを家康は理解した。そのタイミングで、導き出した答えを肯定するかのように陰鬱な声が聞こえた。
「寝汚いぞ、狸め」
「み、っ!?」
反射的に声の方へ寝返りを打って、そのまま家康は転げ落ちそうになった。自分が寝転んでいたのはソファの上だったらしい。
おざなりにかけられた毛布をまきつけたままがばりと顔を上げると、ゆらゆら風に揺れるカーテンの影が見えた。パソコンの並んだ机とソファ、それから専門書の詰まった書棚。壁のコルクボードに様々な色のメモや付箋紙が貼り付けられている。学部学科は同じだが専攻が違う。しかも学部生ではなくマスターの控室だ。けれど家康が此処を訪れた回数はもう片手では数えきれない。見覚えのある室内には、思った通りの人物の姿があった。
「み、三成!」
「煩い、聞こえている」
黒い椅子を引いて此方を振り返った三成は相変わらず、眉間に皺を刻んだままでソファの上の家康を睨み返した。
手にしていたペンとレポート用紙を机の上に放り出すと徐に立ち上がる。そのままぼうっと見ていると、三成はソファまで近づいて無造作に手を伸ばしてきた。男にしては細い筋張った指先が、見た目に反する乱暴な強い力で家康の額に落ちていた前髪を掻き上げる。
「ワシ、寝てたのか?」
「迷惑をかけていて覚えていないとは虫が良すぎるな。貴様自身の尻は自分で拭え」
「あ……」
「何故、あの男の研究室になど行ったんだ」
三成の声音は質問より詰問に聞こえた。
怒っているようだけれど、それだけではないように家康には聞こえる。見上げた三成の険しく整った顔立ちは、苛立ちと焦燥に似た色を湛えている。銀色の髪の間から覗く翡翠に似た色の目が、家康を映して物狂おしそうに瞬いた。理由はわからないけれど、この二つ年上の幼馴染は昔から、家康を前にするとこんな顔をすることがある。それが家康は少し怖かったけれど酷く愛おしかった。
松永の研究室での一連の出来事は、やはり夢ではなかったのかと思いながら、家康は少し口ごもった。
「それは、……テスト範囲を聞きに…」
「のこのこと一人でか」
「ワシだって行きたくなかったんだが……テストがな」
言葉を濁すのは三成の咎めるような口ぶりと、単位の危ういことの後ろめたさだ。三成は勤勉だから出席率の事にいい顔をしないだろう。テストだってヤマをはらなければならないなんて、努力不足だと言われそうだ。眉をハの字に下げる家康の様子に、三成は事情を理解したらしい。
溜息と一緒にぐしゃりと頭を押さえつけられて、家康は毛布に顔面を埋めた。
「わっ…!急になんだ、三成!」
「松永久秀のところには二度と行くな」
「え……?」
「あの男には二度と近づくなと、そう言っている。返事をしろ家康!」
「も、勿論ワシだって松永にはあんまり近づきたくないんだが……」
しかし単位が、と毛布に塞がれたまま徐々に小さくなる声音に苛々したように、三成が吐き捨てた。
「では何故、私のところに聞きに来ない」
「お、教えてくれるのか!?」
次に聞こえた、投げつけるようなセリフに家康は吃驚して再びがばりと顔を上げた。同時に顔面にクッションが投げ落とされる。
「貴様、私の専攻分野を知らんとは言わんだろうな?断罪に値するぞ」
「知ってる知ってる!ワシ、受けたい!三成の個人授業……っ!」
喜びのあまり思わず声のトーンが上がってしまった。ついでに自分で言った「個人授業」の言葉に、うっかり余計な期待までいだいてしまったのは秘密だ。
煩そうに眉を顰めて立ち上がる三成の、その表情にさえ顔がにやけてしまって、家康は慌てて片手で自分の頬を押さえた。いつも厳しい三成がたまに家康にだけ見せてくれる甘さが凄く嬉しい。肝心のテスト勉強のことが半ば頭から吹っ飛んでしまっているのも気付かず、毛布を退けてソファの上に起き上がる。カットソーの上に羽織った山吹色のパーカーの裾を引っ張りながら立ち上がる家康を一瞥すると、三成は踵を返して戸口の方へ歩き出した。
「三成、ここでするのか?ワシ、テキストとか取ってくるぞ」
「数時間で終われると思うな。暫く私の家でカンヅメだ」
「三成の家?泊まっていいのか?!」
「二度言わせるな。そしてその間は貴様が飯を作れ」
「勿論だ!三成の好きなものにしような!」
「ふん、当然だ」
三十分後に南門前に来いと一方的に吐き捨てて扉を開く。その三成のすらりとした後姿が、廊下の端から射す夕陽の逆光に映える。黒のカットソーとボトムといった、シンプルで変わり映えのしない服装の上に羽織った白衣が、風に煽られて揺らめいた。白衣の裾が天使の翼のように広がり家康の足元に伸びる。そういえば気を失う前に似たような光景を見たような気がして家康はく、と黄金色の双眸を細めた。
(ああ、綺麗だなあ、三成は)
覚えがあるような光景に、何故か切ない胸の痛みが呼吸を暫時奪った。
※
控室を出て、迷いもなく三成は廊下を右に曲がった。
階段を二つ上がり廊下を更に進みながら、我知らず左手を握りしめる。ぎりりと食い縛った奥歯が軋みを上げる。鋭い眼差しで睨みつける先は屋上の扉だった。
沸々と煮え滾るような怒りがこめかみを刺して、目の前を赤く染める。何度も繰り返す感覚に、焦燥ばかりが募るのは果たして己がこの先にあり得る展開を、既に知っているからだろうか。
鍵のかかっていない鉄の扉を強脚で蹴っ飛ばして、開いたそこを駆け抜ける。屋上に出た瞬間、強い風が吹いて三成の白衣の裾を煽った。風に弄られる銀髪の間から睨み据えた夕陽の滴る屋上に、黒く伸びる影がある。思った通りだ。
風に紛れて硝煙の香りが鼻を突いた。
「ご機嫌麗しく、とはいかないかな。いやはや、相変わらず酷い顔をしているね、凶王」
「貴様、またか」
「それは私の台詞でもあると思うのだが」
冷ややかに笑って松永がゆっくりと振り返る。動きに合わせて手にした葉巻の煙が緩く棚引いた。いつの間にか三成の左手に握られている柄の長い二重鍔の刀を目にしても、驚く様子もなくゆっくりと葉巻を口元にもって行く。ゆるりと編んだ黒髪が背中で揺れている。
「家康に近づくな。手を出すな」
「それは出来ない相談だ。私は「東照」が欲しいのだよ」
「無駄だ。私が居る限り、好きにはさせんといっただろう」
隠しもしない殺気を纏わりつかせた三成の痩身にじっとりと視線を返しながら、しかし松永は鷹揚に笑うだけだ。
「さて、その台詞を聞くのはこれで何度目だったかね」
「ま、つなが……弾正、きさまああああ!」
次の刹那は閃光と爆砕だった。
指が鳴り、喝采にも似たそれは虚空を揺るがし空気を斬り裂いた。三成の抜き打ちざまの神速の一撃を、松永の片手の一振りが阻んだ。正確には両者の間合いを貫いた爆轟であった。白刃が爆圧を両断すると同時に火炎と煙が噴き上がる。熱風を跳躍で躱して屋上の床を疾走し、煙の向こうへ飛び込んだ三成を嘲笑うように、松永の姿はもう其処にはない。
舌打ちをして三成は白刃を鞘に納めた。藤と竜胆色の象嵌が施された鞘を強く握ると、澄んだ音を響かせて、二重の鍔が三成の激情を宥めるように震える。
愛刀を握りしめてその場に膝をついた三成の白衣の裾がざらり、と地面に蟠った。唇から零れ落ちる息は燃えるように熱いのに、頬は凍りついたように冷たい。瞼を閉じては脳裏を巡り唇を震わせる名などとうに、何百年も昔から一つしかなかった。変わりはしない。
「家康……」
思い出させてなるものか。
何度目になるかの誓いを喉奥で磨り潰して三成は囁く。
それが、三成が希うものへの唯一の手段だからだ。
「貴様は、思い出さなくていい」
DiazoDiNitroPhenol
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戦煌4無配。
夏頃に火取試験を受けるにあたって火薬学関係の試験対策講習会に通っていた際、講義内容を全て脳内で松永仕様に変換していました。そして「私、火取試験に合格したら火薬学教授松永久秀の話を書くんだ…」などと一人で立てたフラグ回収。
現パロの関ヶ原はどっちも攻で互いに相手のことを「俺の嫁は最高だ」と真顔で思っていればいいと思います。かわいい。
詳細については勉強したとはいえ付け焼刃の知識なので間違っていても流していただけますように…。しかし超常現象が「BSRだから」で済まされる世界ですが、松永の固有技って塵晦と黒禍と葬炉が爆薬で焔界と虚空と劫火と昇華が火薬ですね?とか、無響って火薬だけと見せかけて爆薬使ってますか?とか劫火長押しだと爆薬も使ってるね?とか考えてみるとちょっと楽しいなと思いました。松永つんは歩く火薬庫ですね。
201403307
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