後生大事に抱えておるのよ。
そう言った大谷吉継の声音は低く掠れて卑屈に響いた。毎回、耳にするたびに思うがこの男のこの喋り口は巧妙に思考を惑わせて本心を読ませない。実に面倒で忌々しい類の輩だ。実際、今まさに発言したその現状に対しても、どう思っているのか。からかう様にも聞こえたが、その話題の中心に据えられた人物と大谷自身との関係を鑑みれば、そういうわけでもなさそうである。
軽んじても揶揄してもいないのだろう。けれど憂うべき事態なのだからもっとこう、言い方はないのか。不快感だけが神経を刺激してくる。
要求したとて無駄なことなど既に承知している元就は、そのことについては何も触れずにさっさと意識の中から追い出した。大谷相手の会話では注意を払うべき要素を次々と取捨選択していかねば、煙に巻かれる。口八丁の舌先三寸。安芸の智将はその点、この男との会話に遜色なく太刀打ちできる数少ない人物である。
「もう一年ぞ。冗談にしては笑えぬ話よ、大谷」
「オウ、もうそんなに経ちよったか」
相変わらず飄々としていながら粘ついた大谷の声音は、本音をくらましたままでそんな風に嘯いた。あっという間に思えてまだ時間は重々しく暗雲を引き連れてじりじりと進んでいる。もう一年。いや、まだ一年しか経っていないというのに、か。時の経過など人の感覚で計るものではない。それは個々の基準で計ったものに過ぎない。意味などない。
意味があるのはその事実だけだ。
神だろうが物の怪だろうが憶測は自体それは瑣末なことにすぎない。
もう、一年。血で血を洗い憎悪と怨嗟で巨星を落とした、あの天下分け目の大戦から一年が経とうとしている。「もう」だとか「まだ」だとかは問題ではない。
苛苛と伏せていた目を上げて元就は敢えてそれを口にした。
「我が言っているのはその、後生大事に抱えているものの処分が遅れているということよ」
時の経つのが早いのだとか、そんな他愛もない会話をしに大谷が此処にいるわけではあるまい。
「腐れも朽ちもせぬ敗軍大将の首級なぞ、今の我等には醜聞でしかない」
「そうは言うても、ナァ」
大谷の声音はやはり最前とは然程変わらぬ調子ではあったが、其処に憂いにも似た何かが暫時過ぎった事を、見過ごすような元就ではなかった。
三成が斬り落として持ち帰って来た東軍大将・徳川家康の「御首級」(みしるし)のことは、限られた者しかその顛末を知らない。虚ろな目をした三成が血に濡れた青年の首を手に戻ってきたとき、それは特に異な光景ではないと思えた。確かに敵の息の根を止めたことを確認するには、首実検は至極当たり前の行為だ。寧ろ家康を殺すことしか考えていない三成が、わざわざ刎ねた首を西軍本陣まで持ち帰って来たことのほうが驚きでさえあった。捨て置いてきたらば、死亡確認のために配下の者をわざわざ差し向けねばならないと、そう思っていた元就は、だからこそそのときのやりとりをよく覚えている。
動かない、と三成は言った。惰弱にも卑怯にも家康が私に応えない。私の声に耳を貸さずこいつはまた逃げた。だから私が無理やり連れて来た。まだだ、まだ、まだまだ、殺さなければ。何度も、まだ、まだ終わってなどいない。燻る火はまだ、消えていない。私の死色の火はまだ、こんなにも。三成の返り血にまみれた薄い唇から漏れ出づる独白は、呪詛のようだった。
三成は首級を手放そうとしなかった。
家康配下の武将達の処刑にも、東軍についた諸国領主の処分にも、残党狩りの戦場にも。常に三成は首を傍らに携えた。家康を慕った大勢の臣下や諸兄の矜持と心を折るため、ではない。ただ、片時も離さずに傍に置いているだけだ。
元就は三成から家康の首級を取り上げることを早々に諦めた。本来ならば三条河原に晒し首にしてもよかったのだが、三成が頑として離さないので致し方あるまい。
同時に薄々感じてはいたのだ、取り上げてはならないと。そのことをより深刻に感じていたのは大谷だろう。三成に表立って反対する者はなかった。それでも生首を持ち歩くなどという奇行は目立つ上に噂と醜聞の格好の的になる。まだ未熟で内外に敵も多い新政権において、世間体を考えれば隠しておかねばならないこと火を見るより明らかだ。
普段は人目があるからとようよう説得して、自室以外では桐の箱に入れさせた。
元就は時が解決するだろうと踏んでいた。生首は暫くすれば朽ちる。悪臭を放ち、血が枯れて肉が腐り骨から剥がれ、脳髄は流れ出て面影は消えうせる。誰のものともつかぬされこうべと成り果てた頃には、三成の中の家康の影も薄れてしまうはずだ。首に固執するなら尚更、面影が消えるとともに薄眩んでしまう。
もしも、それでまだ妄執に囚われて狂うてしまうのならば、石田三成とは其処までの男だったということなのだ。それでも元就は構わなかった。揺るがぬ安芸の安泰、その基盤は既に掌中にある。
元就の誤算はひとつだけだった。
家康の首は朽ちなかった。そして今もまだ、皆がその処断に困っている。
神か悪鬼か、東軍総大将。首となってまでも彼は西軍を苦しめている。
「何故あの時、ひったくってでも荼毘の火に投げ込んでしまわなかったのか」
「それはならぬなア」
間髪いれずにさらりと返された大谷の言葉に然様であろうとも、と元就は忌々しげに息を吐いた。取り上げることはかなわないとわかってはいるのだ。
あれを取り上げたならば、恐らく三成は壊れる。
あの首が朽ちることのないお陰で、三成はまだ此岸に立っている。
「死んでからも忌々しいものよな」
大谷の呟きは自嘲にも諦観にも聞こえてそれが余計苛立たしく、元就は珍しく乱暴に書簡を巻き上げた。
*
足元で枯草の折れる音がする。
風は強く土埃を巻き上げて夕陽の赤をけぶらせている。気がつけばいつも三成の足は無意識にこの荒れた丘に向かっていた。今は目に移る日々の景色もすっかり色褪せてしまったが、この場所だけは三成の目にはまだぼんやりと色を孕んで映る。
この場所からの景色は似ているのだ。天下分け目と謳われた、あの最後の戦いの場所に似ている。
「家康、家康、家康……貴様は、何故返事をしない。また、私から逃げるか」
唇と歯の間から軋る様に漏れる呼吸は、怨嗟と似て異なる色で言葉を紡いだ。獣の呼吸ではなく、人語をなしている。けれど、三成の手の中にある首はそれに答えはしなかった。持ち上げて、光に翳すと、青ざめた頬に落日の赤が血のように滴った。
血は全て流れてしまったというのに、肌の張りは失われていない。土気色をして腐臭を漂わせることもなく、細胞が壊れ、腐り落ちて骨から剥がれてゆく様子もない。温度の消えた肌は、まるで物の様な手触りで三成の手指に触れる。
いつか触れたのと同じように三成はその頬に額に耳に唇に瞼に何度も触れてみた。指先で掌で唇で舌で。感触は昔日の記憶を裏切らず三成に応えた。けれど其処には温度もなければ応えもない。
これはモノか、それともヒトだろうか。
夢現の狭間に立ち眩んで独り嗚咽を漏らす三成は、己が何処に居るのかさえ分からなくなる。
同時に、家康のこの首を見るたびに三成は幾度となくあの日あの場所へと立ち返る。落日が血を染め、梔子色の陣旗と、葵を染め抜いた戦装束が、にび色の篭手が、あの、金色の目が、狂おしいほど目映く三成の網膜を焼いた。あの時とまったく変わらないのだ。
「目を開けろ。私を見ろ」
硬く閉ざされた瞼の下で、動かない眼球は枯れ萎むこともなく、眼窩は落ち窪むこともない。風にそよぐ睫毛が急に動いて、今にもゆっくりと目を開けるのではないかと思う。いや、開けるに違いない。家康は狸だ。三成を化かして、死んだふりをしているのだ。
今にも目を開けて、そうしていつもの声でなあ、三成と、あの笑顔とぬけぬけとした喋り方で名を呼ぶに違いない。そうでなくてはならないのだ。あらゆるものを根絶して三成の全てを奪っておきながら、生き地獄でのたうつ三成の前からまた、自分だけ消えうせるなど赦されないのだ。殺したい。殺さなければならない。激甚な憎悪を心臓の火にくべ続けなければならない。家康は三成の為だけに贖い続けなければならないのだ。目を開けろ。さあもう一度、殺してやる。何度だって。終わりはしないのだ。私は貴様を許さないと言っただろう。
空気が震えた。獣の咆哮に似た歪なそれが、己の喉笛から生じたものだと三成は自覚していなかった。慟哭ではなく失笑でもない。ただの吠え声だ。頸を抱いたまま肩を震わせた三成の影が、長く地面を穿って落ちた。
「いえ……や、す…、」
軋るようなそれが影と一緒に地に落ちる、その刹那。ふ、とその背中に影が伸びた。
「探したよ、凶王」
上質な毛皮を指の腹でそっと撫でるような声音だった。いつの間にか斜陽に濡れた枯れ草を音もなく踏みしだく影があった。のろりと振り返った三成の目に長身の男の姿が映る。
墨染と蝋色の衣の裾が残り日の色に染まっている。
「ごきげんよう」
投げられた声音は酷く穏やかで、気配は高貴でさえあった。けれどその気配が酷く剣呑に三成の神経を引掻く。男の顔に覚えはない。覚えはないのにやけに気に障る。黙ったままの三成に特に気分を害する様子もなく、男は世間話のように言葉をついで笑った。
「そんなに睨まないでくれたまえ。私は卿と争いに来たわけではないのだよ」
「……誰だ、貴様は」
正体を知りたかったわけではなく、得体のしれない怖気を問うて三成はそう、軋るように唸った。答えを求めているわけではない。
三成の言葉の本意を承知の上でなのかどうか、男は噛み合わない会話を繋げるつもりはないようだった。鷹揚な笑みで受け流したまま、世間話をするように口を開く。
「実は、一年ほど前にまたとない逸品を手に入れたのだ」
静かに響く低音はとても穏やかだが三成には悍ましく感じられた。酷く優しいが得体のしれない何かを孕んだそれは、注意深く聞きとらねばならないと直感的に判断する。酷く優しく穏やかな言葉は、そこに含まれた刃の鋭さに気づくのが遅れると、もうすでに心臓を抉り出された後なのだ。
「以前から手に入れたいと思っていた品でね、そこまではよかったのだが、残念なことに私が手に入れた時には欠けていたのだ」
何の話をしているのだろうか。三成にはわからない。わかろうとも思わない。ただ、ひたりと注がれる男の、黒い火のような眼差しに肌が粟立つ。禍火のような温度だった。覚えがある気がするのに、思い出せない。ぐるぐると回りだすとりとめもない思考と記憶の渦の向こう側で、男の講釈はまだ滔々と続いている。
「欠けて不完全な姿もまた、独特の趣を生む。意図的に一部の隙なく完成された美しさより、欠落し、いびつに歪んだその色合いの方が大層興味深い時もある」
だが、とそこで言葉を切って男は三成の手を見た。
「肝心の部分が欠けていては論外だ」
弦のない弓に意味はあるかね。水を留めおくことのできない水盤に意味は?奇妙な問答のような言葉を積み重ねていく男の口調に薄気味悪い心地を覚えて三成は身震いした。背筋を剣の峰で辿られるような際どい焦燥が、忙しなく神経を逆撫でる。
酷く婉曲に心の臓を狙う物言いが癇に障り、頭痛に似たものを引き起こす。
そしてそれら全てを予め仕組んで、この男は言葉を選んでいるのだろうということが、何よりもおぞましい。
「何の話を、している」
男の目は射抜くように見ていた。正確には三成の手に抱えられたものを見ている。猛禽の目だ。夜闇に紛れて鋭い嘴で獲物を啄む梟の目だ。
「凶王、それを返してはくれないかね」
ぎし、と骨が軋んで三成の手の中で首が揺れた。溢れる血はもうない。けれど指に返ってくるのは過度の圧力に負けて潰れるような脱け殻の脆さなどではない。生きている時と同じ弾力で手触りを返してくる――三成を狂わせるその感触だ。
そして同時に三成をこの世に唯一繋ぎ止める感触だった。
「貴様、なにを世迷い言をほざく」
「卿が損ねてしまったのだよ。お陰で私の元ではもう唄うことができない」
「黙れ」
だから返してくれたまえ、とそう言った男はゆっくりと家康の首に手を伸ばした。いつの間にか近づいた距離に硝煙の香りが漂う。
家康の首に触れようとしていた指先をただ呆然と睨み据えていた三成は、唐突にその名を思い出した。この男を、見たことがある。いつぞや、家康の屋敷で見かけた男だった。黒の衣で太刀を佩き、庭先に立っていた。偉丈夫というほどではないけれど、すらりと伸びた背筋は、妙なる覇気と威圧感を滲ませていた。
男の肩越しに見えた家康の表情は珍しくあの笑顔を浮かべてはいなかった。だから三成は覚えていたのだ。燃えるような黄金色の双眸が男を見上げて、それから伏せられた。家康の包帯の巻かれた首筋に、男は手を伸ばした。しかし家康は抵抗を見せなかった。三成が見たこともない顔だった。だから、だから。
「まつ、なが…、松永ァ……久秀!」
激昂にほど近いその声は、獣ではなく人の声をしていた。憎悪ににて異なるなにかを孕んだ声だった。松永の双眸がくう、と眇められた。酷く稀有な音色を聞いたような顔で三成の見下ろした。形のいい唇が見事な弦月に割れる。
「さあ、返したまえ、東照の首を」
首級
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20130616
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