透明な水の中をゆたりと影が流れる。
ぽたりと水に落とした墨が解けて広がるように。いや、それよりも確たる黒をもって水中を流れる、影。不可視の流れを可視化したらこう見えるのかと思えるほど、流麗に靡くそれ。だがこれは紛れもなく実体だ。水を隔ててそれはそこに居る。

「……あれ、増えてんじゃん、金魚」
「No! Golden Fishじゃねェ、Rumble Fishだ」
「あーあー、それそれ」

ダイニングキッチンの向こうから返された政宗の言葉におざなりに返事をしながら成実は目の前の大きな水槽を覗き込んだ。兎角難しい話はわからない。成実にとってはどっちも魚だ。水中を悠々と横切るベタは硝子板の向こうから視線を注ぐ成実の存在など歯牙にも掛けぬ。
挑むように見つめる成実の横に、キッチンから出てきた政宗がひょいと覗き込んでくる。しなやかな指先がつう、と硝子を撫でてぴたりと遊泳するベタに照準を合わせた。

「Darkblueのが元から居たヤツだ。あっちの、ほら一回り大きいBlackのが俺の買ってきたヤツ」
「なんでわざわざ二匹も?大体元のヤツって小十郎が買ってきたやつだろ」

此処には居ない男の名を口にして成実はややうんざりしたように眉を顰めた。余計なことまで思い出したのだ。この蒼いベタを買ってきた小十郎に、どういう風の吹き回しだと聞いたところ、彼は真顔で返しやがった。

政宗様に似てるだろう。

どれだけ莫迦なんだ。いや、聡い男なのだけれど、政宗のこととなると莫迦だ、大莫迦だ。それはもはや昔から傅役として仕えてきた若頭が次期総代と謳われる若き竜に惚れ込んでいるという以上に、こう、なんというかもう行きすぎているのだ。末期だ。

「小十郎がよ、俺に似てるってんで『政宗様』とか勝手に名前つけてただろ」
「……梵天も知ってたんだ」
「いつもの仏頂面で水槽睨んでちィとも動かねェんだ、気になんだろが」

あいつ思ってても顔に出ないよな。便利だよな。違うよ梵天、ああいうのむっつりって言うんだぜ。そのうち真顔で鼻血出しても俺驚かねーよ。伊達家の狂犬二匹は額を突き合わせて言いたい放題言い合った。(ここに小十郎本人が居たら間違いなく拳骨落雷だ)
ゆたり、とベタが泳ぐ。ダークブルーの尾ひれを動かす一匹の傍らをたゆたう、漆黒のベタ。きゅう、と切れ上がった隻眼を眇めて政宗はそれを眺めた。

「だからさ、こいつ買ってきたんだ」
「うん?」
「こっちの『政宗』にも右目が要るだろ」

漆黒の身体は闇に似ている。混じりけなしの、純一の黒。あらゆるものを呑み込んでもそれは揺るがない。小十郎にそっくりだと政宗は思う。
肉親から疎まれた半生、失われた片眼。組の抗争は血で血を洗い、弟とは既に決別した。政宗を慕う者は多いが、厭う者も少なくはない。けして美しいと言えないこの竜を前に、あの男は揺るがないのだ。どんな誹謗中傷も凄惨なさだめさえも、全て呑み込んで一緒くたにして、政宗を抱きしめる強い腕。小十郎が政宗に注ぐものは一片たりとも混じり気のない、心だ。それが竜の右目。
こつり、と硝子を指先で叩いて政宗は唇を開いた。

「なあ、成実。Rumble Fishってな、何匹も同じ水槽では飼えねェんだとさ」

唐突な言葉に成実はくるりと眸を瞬いた。水槽から視線を外して傍らの政宗を見る。彼の整った横顔には特に表情は見えない。ひたりと注がれる一つきりの眼差しの先は、悠然と泳ぐベタ。けれど、彼の視線は漆黒の尾鰭を通して、なにか別のものを見ている。

「別名で闘魚……fighting fishってんだが、同じ水槽に入れちまうと互いを食い殺す」
Crazyじゃねえか。そう言って政宗は唇の端を吊り上げた。
「一緒に飼う方法はつがいで飼うしか無ェ。他にはなにも要らないなんて情熱的だろ?」

孤高の魚だ。不要なものなど一切削ぎ落とし、ただ独り悠然と泳ぐ。狭い水槽でさえ酸素を与えられる必要もなく、自ら水面に顔を出して外界の空気を吸う。勁いいきものだ。
なにものにも流されず自らの世界の主たる、その、強さ。

「……ああ」

似ているな、と成実は従兄の横顔をぼんやりと眺めた。ぎらつく隻眼はいつもなにかに飢えているようだ。己の身を削るようにしがらみと戦い、無駄なものは要らぬと捨てる。政宗が頑ななのは、きっと、与えられるはずのものを与えられなかった、その過去の所為だ。母の温もり、愛情―――失うくらいならば最初から要らないと、そうすることで彼は生きてきた。唯一手に入れた右目以外、もうなにもいらない、と。それは強さかもしれないが、弱さかもしれない。闘い続けることで己を繋ぎ止める、一途で孤高の竜。そのことが良いことなのか悪いことなのか、成実にはわからない。

「なあ、梵天」

耐えきれずに成実が口を開きかけたとき、玄関で物音がした。ふる、と肩を震わせて政宗が顔を上げる。小十郎だ。そう呟いた彼に応えるようにリビングの扉が開いて男が姿を現す。切れ上がった双眸を眇めて小十郎は水槽と二人を見遣った。

「ただいま、戻りました」
「おかえり小十郎。茶でも呑むか?」
「有り難うございます。政宗様は何事もありませんでしたか」
「Ah、ツナから伝言あったぜ。今度の会合の件。まあ、座れや。疲れてんだろ」

男の帰宅が嬉しいのだろう、素直に微笑う政宗。コートを脱がせようと手を伸ばした政宗の手を小十郎が掴む。軽く身を屈めて愛しい竜のこめかみにくちづけ。嫌味なほどさらりと無造作にやってのけるだけにたちが悪い。俺、居るんですけど!と言いたいけれど言えば言ったで「邪魔だコラ」と氷の視線が飛んでくること請け合いだったので、成実は肩を竦めて水槽に向き直った。馬に蹴られたくはない。
透明な水の中を泳ぐ蒼と黒のベタ。成実の視線も双竜の会話も関係なく、ゆるりと優雅に尾鰭を揺らめかせる。彼らの世界は此処にある。互い以外に他の侵略を許さない。いついかなる時も彼らは彼らの世界の主であるのだ。孤高であれ。それはどれほど簡単そうに見えて困難なことか。

「こっちの双竜はどうかねー。ちゃんと卵は産みなよ」
成実の呟きが耳に入ったのか、小十郎の腕の中で政宗がくいと首をねじ曲げて水槽を見た。

「What? 産まねェだろ。そいつら雄だぜ」
「え?だって梵天、雄同士だと戦って食い殺すんだろ?」
「まあそうだけどな」
「じゃあなんで共生してんの?!」

わけがわからない、と頭を抱える成実に、小十郎が平然と返した。
まるで当然のことのように。

「つがいだからに決まってんじゃあねえか」
「余計にわけわからねーって!あれ、これのろけなの?小十郎、これってのろけ!?」

がうがうと吼える成実の横、水槽の中で二匹のベタがゆったりと尾鰭を翻した。








Rumble Fish







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20080707