ふと瞼を撫でるその気配に、微睡みの淵で竜はふるりと身を震わせた。

誰かがこの身に触れている。睡魔に侵される思考の波間で政宗はそんなことを思う。けれど意志に反して身体は思うように反応を起こさない。
肌の上にひとしずく、殺気の欠片さえ滴り落ちれば身体は速やかに覚醒するだろう。幾たびもの戦場を踏み越えてきた身体に染みついた血なまぐさい習慣は、そうそう自身を裏切らない。疎ましいと思うと同時にそれが政宗の頸を繋ぎ、血肉の蠢くままこの場にこの身体を生かしているのだ。
ゆっくりと、触れる何か。動かぬ四肢にもどかしさと気怠さ覚えながら政宗の思考が息をして藻掻く。瞼に触れるそれがこめかみを伝い頬の輪郭をなぞったところで、漸く形を顕した。
これは、人の指だ。

(誰だ、だれ、)

不遜にも竜に触れるのは誰だ。けれども政宗の身体はその指先を厭わない。抵抗どころか身じろぎ一つできないまま、指先は掌へと形を成し、顎を落ちて喉、胸元へと這い落ちる。そうしてどくどくと脈を打つ左胸に辿り着いた瞬間、ずるりとそれは皮膚を抉って沈み込んだ。

「、」

咄嗟に政宗は息を詰めた。四肢が強張る。だが見開いた隻眼には覆い尽くす漆黒の闇の帳しか映らない。皮膚を突き破り肉をくぐって沈み込む手指、なのにあの錆び付くような血の匂いは一向に届かない。傷口から溢れる血も、流れ落ちる赤も、何もなくただただ浸食する圧迫感に胸が詰まる。
指先が内臓の筋を辿り肋骨をかき分けてゆく。(嗚呼、これは吐き気か、目眩か、それとも、)くい、と曲げられた指先が猛禽の鉤爪のように曲がり―――竜の心臓を鷲掴んだ。

「……、っァ!」

無音の悲鳴を吐いて四肢が跳ねた。どろりと溶けてゆく感覚が肌の上を伝った。肋骨の隙間に這入りこみ触れてくる誰かの手と己の心の臓が鉄のように溶けて混じり合い、境界を無くして繋がっていく。得体の知れぬ誰かの一部が、身体の内にだくだくと流れ込んでくる。
胸元を掻き毟ろうとしてできず、政宗の身体は打ち震えた。恐ろしいのか。恐ろしいのは溶け合い侵され底知れぬ闇と混じり合うことか、それとも浸食されることを拒絶しない己自身か。
自由のきく意識をかき立て必死で逃げようと政宗は身を捩る。投げ出されたままの腕がぬばたまの底を引き毟ろうとした刹那、肌の上を何かがぞろりと這った。

(だれ、だ?……なに、?)

身体を覆うようにして触れたのは柔らかな毛皮のようなものだった。闇と一体化する漆黒の毛並みが剥き出しの身体の上を蠢いている。何故己が裸であるのかさえ、頭が回らなかった。ただ、ひとつだけわかった。
これは、獣。けものだ。
政宗の左胸から繋がって、漆黒のしなやかな毛並みを備えた大きな獣が、政宗自身に覆い被さっている。
触れるだけで政宗の意志とは反対に剥き出しの肌はざっと熱の華を咲かせた。這い回る毛皮の感触、掠める爪。ねっとりとした舌先が喉仏から顎先をぬるりと舐め上げてきて政宗は熱っぽい呼気を吐いた。嘘だ、夢だと思う。獣に犯されて昂ぶるなど、理由がない。我が身は気高き竜、なのになぜ。堕ちたのか。ここは闇の底か。周囲は真っ暗でなにも見えない。まともに足掻けぬうちにぐいと両脚を割られる。内腿を伝う冷たい空気の流れに身が竦んだ。蹴倒そうと跳ね上げた脚は虚空を蹴るにとどまる。
また獣が低く唸った。耳に注ぎ込まれる響きに政宗の獣と繋がった左胸がぎゅうと収縮する。恐ろしい。獣に食い荒らされようというのにこの身は、なぜ、こんなにも。

「っ、う」

脚の狭間を割って灼熱の塊が身の裡に突き込まれた。隘路をくぐる圧迫感に政宗の鞭のような身体がぐう、としなる。ざわり、また獣の蠢く気配。低く喉を鳴らして牙ががちがちと歓喜に震える。

(けものに、くわれる)

咄嗟に開いた唇で政宗は己の右目たる男の名を呼んだ。
声なき声で闇の底、伸ばした指先で覆い被さる漆黒の毛並みを掴み締める。

同時に、ぞろりとまた闇が流れた。

手指で掴んだ部分から獣の毛並みが感触を変えていく。豪奢な毛皮は消えぬくもりを備えた人間の肌に成り代わる。連なる背骨、肩胛骨、しなやかで無駄のない筋肉の凹凸から、皮膚を隔てて血管の中を流れる血流の胎動が指先に伝わる。
呆然とする政宗の頬にふと、暖かな掌が触れた。
大きくて暖かく、少し固い皮膚。刀を持って人を屠る者の、手の感触だ。宥めるように慈しむように触れてくるその手を政宗は視線で辿った。漆黒の肌に螺鈿と黄金の長い長い爪。無駄のない筋肉に覆われた腕、肘、肩―――無骨にして優美な線を描くその腕の形を政宗は誰よりも知っていた。この腕が政宗を護り、支え、時に背中を押して、そうして雲を呼び天を翔る竜を空へと解き放つのだ。
肩から続く首筋、そうして覗き込んでくるその、顔。
隻眼を見開いて政宗は自分の身体を貫く獣の顔を見上げた。漆黒の肌でも見間違う筈など無い。精悍な顔立ちに通った鼻筋、左頬に刀傷。寸分違わず「彼」だ。愕然と息を呑む政宗を見下ろす獣の金色の双眸がきゅう、と細められる。

「小十、郎……」

頬を撫でる手が首を辿り後頭部へと回されて。
そうして咬みつくような接吻が唇を塞いできた。





開けた視界に真っ先に飛び込んできたのはよく見慣れた部屋の天井だった。木目も模様も、槍の穂先に突かれて残っている傷痕も(随分前に成実が付けた槍の跡だ)全てがうつつ、慣れ親しんだ己の自室だ。

「……あ、」

夢、だったのだろうか。それにしてはあまりにもあまりな夢の中身に、政宗はぼんやりと微睡みから醒めたまま身じろぎできなかった。獣の姿をした小十郎と繋がっていた左胸が、まだどきどきと早鐘を打っている。
どろりと熱っぽい何かが心の臓のあたりに溜まっているような気さえしている。秘やかに呼気を吐いて政宗は夢の残滓を反芻した。黒い獣との交合。
あれは己の奥底に蟠る願望の表れか。だとしたらあの獣は小十郎ではなく政宗自身の抱える業か。
重い瞼を瞬いたとき、政宗の頬にふと、暖かな掌が触れた。
大きくて暖かく、少し固い皮膚。刀を持って人を屠る者の、手の感触だ。宥めるように慈しむように触れてくるその手を政宗は視線で辿った。無駄のない筋肉に覆われた腕、肘、肩―――無骨にして優美な線を描くその腕の形を政宗は誰よりも知っていた。
嗚呼、これは既視感だ。けれどその肌は漆黒などではなく、今は留紺の着物の袖に覆われていた。小十郎の手がゆっくりと頬を撫で、こめかみを辿る。
隻眼を開いて政宗は覗き込んでくる男の顔を見上げた。

「どうなされた、政宗様」
「こじゅう、ろう……」
「魘されておいでだ。お疲れか」

いつもなら部下相手には凶悪に切れ上がっている双眸が今はやや緩まって穏やかだ。少しだけ眉を眇めて笑みを浮かべる小十郎を見上げて、政宗は夢の余韻が薄らぎ四肢の強張りが抜けていくのを感じた。
そうだ、馬鹿馬鹿しい。小十郎が獣の筈がない。あれはきっと政宗自身の内面の望みが見せた夢だ。己自身の浅ましい想いを政宗は目を伏せて無言で恥じた。
そうとは知らぬ小十郎が手を滑らせて優しく髪を梳いてくる。

「sorry.大丈夫だ。……もうちょい、寝る」
「またそのようなことを。こんなところでうたた寝をするからですぞ」

お疲れならば床をのべましょう。そう言って立ち上がろうとするその手を掴んで強く引く。少し驚いたように小十郎が見下ろしてくる。彼が立ち上がらぬのを確認して、政宗はそのまま寝返りをうつと身体を丸めた。

「政宗様?」
「眠るまで此処にいろ」

後は返事も聞かず目を瞑る。掴んだ手はそのままに、やや身じろぐ気配がしてから微かに笑いを含んだ溜息が聞こえてきて、政宗は満足する。身体にかけられた羽織にくるまって(きっとこれも小十郎が掛けてくれたのだろう)もう一度微睡みに落ちる。
きっとあの夢はもう見ないだろう。傍に小十郎が居るのだ。それで、充分だ。充分なはずだ。あんな、あんな浅ましいゆめなんて、みてはならないのだ。
あれは、夢。
浅ましいの獣が見る、夢だ。






目を閉じて二度目の眠りについてしまった竜を眺めながら、小十郎は静かに息をついた。
政宗に握られている指の先が、熱い。先程眠りに落ちている彼の閉じた瞼に、頬に、唇に触れていた指先だった。
唸り声が聞こえる。
じっと主君の寝姿を見つめる小十郎の眸に、奥底へ沈めたはずの獰猛な色がじわりと滲む。低い、低い唸り声が小十郎の身の裡で響いている。ぐるぐると渦を巻き、左胸の鼓動に合わせて胎動し、がちがちと牙を鳴らして胸を食い破る好機を狙っている。ざわり、と漆黒の毛皮が擦れる音がする。
愛おしさに狂って、目の前の年若い主のすべてを奪い尽くしたいと、本能のままに牙を剥く獣が蠢いている。

(政宗、様、)

全てを捧げてただ、この竜の傍に在ることができるのだ。それで、充分だ。充分な筈だ。こんな想いなど抱いてはならないのだ。こんな、こんな浅ましく途方もない想いなんて、いだいてはならないのだ。
この身の裡には黒い獣が、居る。
焦がれる獰猛な獣を押し殺して、小十郎はもう一度小さく息を吐いた。



ぎりり、と理性の糸が軋む音がした。








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20061211