それは言うなれば直感のようなものだった。

劣情の延長だとか甘ったるい恋情の終着だとか、そんな言葉で区切ってしまえるほどに単純な答えが出るわけでも、ましてやそんな答えを求めていたわけでもない。ただ、幸村の炯々と輝くような眼差しが真っ直ぐに己の心の臓を貫いた瞬間、直感的にああ、これは抜けねえなと政宗は思った。それだけだ。

(武田の若虎、か)

物狂おしい獣の眸。もしかしたら政宗自身も同じような眸をしていたのかもしれない。幸村の真っ直ぐな眼差しとかち合った瞬間に、今までどこか無意識のうちに引いてきた一線がぶつり、と切れた。それだけはわかった。
神経の端が焼き切れるような感覚に駆り立てられた。どちらが先に動いたかなどわからない。跳ね上がった腕が腕を掴み、爪先がぶつかって空の湯飲みが畳に転がる。(中身が空でよかったと思ったのはずっと後になってからのことだ。)考える余裕など無かった。衝撃と共に背中が畳にぶつかって、政宗は反射的に脚を蹴上げた。ぱし、と衝撃―――脇腹を狙ったそれを紙一重で受け止められる。
見上げればのしかかるような体勢のまま、幸村の燃えるような双眸が見下ろしていた。どうやら下になっているのは自分の方らしい。睨め上げるような視線で政宗は己に馬乗りになっている男を見上げて、言葉を促した。体勢とは逆に狼狽えるどころかむしろ睥睨するような強い眼差しに、しかし幸村は怯みもしなかった。
おもむろに開かれた幸村の唇が紡いだのは、極めて真剣で落ち着いた声音だった。

「……よろしいか」

なにが、かは言わずもがな。所詮双方の内心に渦巻くものは同じようなものに決まっているのだ。幸村の言葉に独眼竜は形の良い唇を吊り上げてみせた。

「Ha……!それを訊くたぁ、アンタも大概狡い奴だな」

挑発そのものの台詞に、しかし幸村は憤るではなく大きな焦げ茶の双眸を瞬いた。次の瞬間にはその眸がぐ、と眇められ、それと一緒に唇が笑みの形に歪められる。嗚呼、この男の笑みが心地良いのだと政宗は内心で認めざるを得ない。戦場で血塗れのままに微笑むこの武田の一番槍の姿は記憶に鮮やかすぎるほど鮮烈で、政宗の心を捕らえて離さない。

「そうでござろうか」
「ああ、そうさ。こんな状況で今更同意を得ようってえのがな」

有無を言わせず奪ってしまえばよいのにそれをしないのは、政宗をも「共犯」にするためだ。ここで拒絶しなければそれはすでに同意であり、「被害者」ではなくなる。指摘されても動じることなく幸村はそうだな、と頷いてみせた。そうして飄々と嘯いた。

「だとすれば、わかっていながらこのようなことを仰る独眼竜殿もまた狡うござろう」

言ってのけるその言葉にく、と政宗は微笑った。そうだ、まさしくそのとおり。互いに強気に出ていながらどこか畏れを隠し得ぬ滑稽なやりとり。

(だとしたら?)

だとしたらいっそのこと「共犯」になってしまえばよいのだ。少なくとも本能はそう叫んでいる。そうでなければこの一つ眼の竜が甘んじて男に組み敷かれたままで居るものか。

「Ok……幸村。共犯だ」

『好きだ』なんて言葉は似合わない。もっと激しい渇望だった。
眦の吊り上がった眸をきゅう、と細めて政宗が囁いた。ひそめられた声音が妙に熱っぽく響く。滴るような艶に染まった眼差しにひくり、と幸村の手が震えた瞬間を狙いすまして政宗は身を撓めた。腹筋の力を使って勢いよく上半身を跳ね上げる。振り解いた片腕で乱暴に幸村の肩を掴んで引き寄せ、そのまま唇に咬みついた。がち、と牙がぶつかって耳障りな音を上げる。驚きに薄く開いた唇に舌を突っ込めば、すぐさま応えるように舌が絡んできた。
曲げた肘がぶつかり、掴んだ腕を振り払う。取っ組み合うような勢いで互いの帯を引き解き、邪魔な衣を毟り取る。 鳩尾を狙う膝蹴りに振り上げた踵で応戦し、がりり、と爪が畳を毟った。剥き出しの肌がぶつかって熱が混じり合い、抱きついたまま床の上を転がる躰。膝を強か打ち付ける。それでも唇は離さない。情事というよりも喧嘩に近いような暴虐さで、二匹の竜と虎は絡み合った。
『愛してる』などという有り触れた言葉は必要ない。ただただ喰らい尽くすように求め合うことが、そのままに想いを伝え合う唯一の術だった。色気も雰囲気の欠片もない、息継ぐ暇さえない食い付くような接吻。唇を合わせたまま、舌を咬み合うようなそれは、肉食獣の捕食に似ていた。
嗚呼、飢えているのだろう。互いが、互いの魂に。

惚れた腫れたの言葉などでは足りやしない。そんな単純な言葉では括れない、何か。もっと直接的で純粋で、相容れぬとわかっていながら惹かれ合い求め合う、狂おしいほどに激しい何か。それを満たすために、二人は身体を繋げて貪り合う。それ以外にこの惹かれ合う魂を満たす術を、政宗も幸村も知らなかった。
それでも充分だった。そうすることが望みであるのならば、それがこの竜と虎の術であるのだと、二人共に理解していた。だから例えこの想いがどのような末路を辿ることになっても、決して悔いることなどないと知っていたのだ。



*


虚空を裂いた穂先は少しのぶれもなく竜の鱗を貫いた。
痛みは無い。いや、あまりの衝撃の大きさに感覚が麻痺してしまったのかもしれない。肺腑を突き破った冷たい刃は肋骨をくぐり抜けて背中を抜けた。直感的にああ、これは抜けねえなと妙に覚めた思考の片隅で政宗は理解した。
鎧をも砕く迷いの無い切っ先、貫かれたまま隻眼に蒼穹が映った。
無念はあれど悔いは無い。この六爪が折れるまで全力を尽くしたし、相手も同様に全力をぶつけてきた。互いに喉首を抉ろうと生死の狭間を駆け、肌に触れる死の呼吸を嗤って相手の血に濡れるのを善しとした。そこに今更ためらいを見つけようなどもはや無駄なこと。それは互いに対する冒涜になると、彼等は気づいていたからだ。そう、互いを何よりも知るがゆえに。
僅か呼気を求めて政宗は喉をそらした。空気のかわりに喉を焼くような熱い塊が逆流し、気道を塞ぐ。そのまま体が傾ぐ。槍の刃と鎖帷子が擦れ合ってぎし、と耳障りな音が鳴った。胸を槍に貫かれたまま倒れるなら仰向けに倒れたいと願う。そうでないとあの空が見えない。
だが、政宗の体は倒れることを許されなかった。伸ばされた紅い腕が二本、力を失った政宗の体を抱いた。倒れ掛かる背が受け止められ、赤い衣の肩越しに蒼穹が広がった。雲ひとつ無く晴れ渡っているというのに、政宗の血に汚れた頬に透明な雫が降りかかる。それは肌にこびりついた血と交じり合って流れ、政宗の頬に幾筋も血涙のように赤い痕を残した。
霞みはじめる視界に真紅に塗れた若武者の顔を映して政宗は微かに微笑った。声どころか口の端を上げることさえできなかったが、笑って見せた。

(なんてツラしてやがる。それでも武田の一番槍か)
もっと誇らしげに笑ってくれ。この独眼竜を斃したんだ、胸を張って勝ち鬨を上げろ。そんなガキみたいに顔歪ませて泣くんじゃねえ。声も出さずに泣きやがって。いつもの威勢はどこに置いてきた。
言いたいことはまだたくさんあった。言葉にして伝えていないこと、他愛ないこと、言葉にしてもきっと伝わらないだろうこと。でも今更に悔いることなどありはしない。初めからこうなることがわかっていた、敵対する身の上。それでいて互いの魂に魅かれあい、その精一杯できるかぎりでもって求め合った。それがやがて殺しあう時の枷になるくらいに軟弱な意志しか持ち合わせていないというのだったら、初めからわかっていて愛しなどしない。そこまで揺らぐような弱さでは在りたくない。
生死のように愛情の裏表が殺意だというのではなく。この上なく想い希求するからこそ互いの生き方を認め合い譲り合わない。敵対する運命ならば己を貫くことこそが、相手への対等たる想いの証だ。互いに譲れぬ信念を貫こうとする、その強ささえもが惹かれ合う理由の一部だからだ。それが導く未来がこのように永久の離別であっても、なにをもって悲恋だというのか。
もう政宗の唇は動かない。その茶色のくせっ毛の頭を撫でてやろうにも腕が動かない。敵である己を抱きしめたまま、声も上げずに見開いた双眸からぼろぼろと涙を零す幸村に、心の中で悪態をつく。

(なあ、笑ってくれよ幸村。俺ぁアンタの笑顔が嫌いじゃなかった)

ひゅう、と風が鳴くように喉が鳴った。胸が動くたび、喉を呼気が抜けていく。ひどい耳鳴りがして周囲の音がもうよく聞こえない。溢れる血潮と一緒に力が抜けていく。ざらざらと音を立てて流れていく。これは己の命か。止め処もなく止め処もなく、やがて空っぽになるまで。
冷えていく体に比例するように政宗は抱きしめてくる幸村の体温を感じた。僅かに残った神経の先で爪を立てるように、その温度にしがみつく。まるで灼熱のように紅く燃ゆる幸村の焔に焼き尽くされる心地がした。このままこの焔に灰となってゆく。影さえもが凍りついて揺らめく―――蜃気楼のように儚く。見上げた視界にはもう蒼穹は映らない。ただ、紅く赤く赫く染まる空が見える。かの男の色をした空だった。

(悪くねえな。なあ、幸村?)

灼熱の、消えることのない朱雀の焔。この身を心を捉えて離さなかった彼の色が、再び己が全てを解き放ってくれる。魂が満たされる。彼の刃にかかって果てるこの命、これ以上の幸いが何処にあるという?


朱雀の赫を映す空が悲鳴を上げて泣いているようだ。
慟哭をさえ許されないかの若武者の代わりに。
蒼穹を愛する竜の死を悼むように。











朱雀の空







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20061209