ぶるぶると震える指先は、ともすれば何かを耐えているようでもあった。いや、実際そうなのかもしれない。手にした書簡をそのまま握り潰さない様に苦心惨憺しながら、元通り畳みなおすマリクの指はやはり震えていた。
犇めきあう家々に紛れてひっそりとあるエルサレム支部。ゆらゆらとくゆる香の心地よい薫りとカウンターの上に広げられた様々な書類。まるっきり普段と同じ光景のはずなのに、そこには確かに普段とは違う妙な緊張感があった。ダマスカスからの長旅を終えて無事に書簡を運んだ伝書鳩は、迎えてくれる優しい主がいつものようにいたわりをもって撫でてくれないのを不思議に思いながら、くるると鳴いた。その声にハッと我に返ったマリクは手元から顔を上げると、ぎこちなく強張った指で鳩の羽根を撫でる。それから大急ぎで鳩を支部の裏手にある小屋へと連れて行ったのだった。
カウンターの上に置き去りにされた、やや皺の寄った書面は同じ教団支部の管区長からのものだ。
『原因は不明だが、いや、なるようにしかならんよ。実害もないのだから、そう気を揉まんことだ。あんたは少々心配が過ぎる時がある。また何かあったら連絡しよう。安全と平和を。ダミャスカスよりエルサレムへ』
何の変哲もない文書はここエルサレム支部の管区長を思いやってのものだったが、何の気休めにもならないどころか、余計に不安を煽るものだった。あの皮肉屋の管区長の意図的なものかどうかはわからないが。
その日は朝から何処の教団支部でも前例を見ないほど多くの伝書鳩が飛び交った日であったという。
「何処も同じか……一体どうなっている……!」
思わずといったていで唸り声をあげたマリクの手中でとうとう、この日何通目かの手紙はぐしゃりと悲鳴を上げて潰れた。アッカの管区長からの手紙は、内容的には他支部からの書簡と変わりはない。
「あの……管区長。……マリク殿…」
遠慮がちにかけられた声に顔を上げると、扉の端から丁度、数日前に派遣されてきた同胞の青年が顔を出していた。階級は道半ばだが冷静で見込みのある男だ。だが。
「どうした」
「あの、今夜の食材を買い出しに行こうと思いまして」
言いながら珍しくそわそわとマリクの顔を伺っている。忙しなく上下する視線に溜息がでそうになるのを堪えて、マリクはそうか頼むと短く返した。
「それで……それで、ですね!燻製はニシンか……あ、カジキでも!」
「魚は却下だ!」
「そんな!それはいくらなんでもあんまりです!」
苦渋の決断だったのだが、予想通りの反応にマリクはううと唇を噛んだ。わかっている、意地のようなものなのだ。本当は魚がいい。こんな状況でなければ。
「マリク殿……」
「―――ああ、もうわかった!ただし目立つことは一切するな。ちゃんとフードをかぶっていけ。慎重にだ!くれぐれも気を抜くな!寄り道をするな!」
「はい!お任せください!」
嬉しそうに返事をした若きアサシンはぱっと一礼するとあっというまに部屋を飛び出していった。いつも以上に身軽になっているのか、天井の出入り口から出ていく音も気配も風のそよぐかのように微かなものだった。が、マリクは不安しか感じなかった。
魚屋の店先でアサシンが大乱闘。そんな予想が頭をよぎってがっくりと肩を落とす。心情を現すように短い黒髪の間からつき立っていた、同じく黒い毛並みのとがった耳がへんにゃりとしおれた。
猫の耳だった。これがすべての原因であった。
その日の朝、身支度をすべく水飲み場の水盤を覗き込んだマリクは思わず二度見、いや三度見した。それから暫く考えた挙句、既に耳が二つあるというのに更に二つも増えることに意味があるのだろうかという疑問に突き当たった。それは一種の現実逃避だったのだが、それも己の頭に生えた黒い猫耳を思い切り引っ張ってみて、その痛みに悶絶するまでのことだった。がっつり生えている。どうしてこうなった。
しかし、マリクの懊悩はそれがはじまりに過ぎなかった。早朝からエルサレムの教団支部には次々と同じ症状の仲間たちが殺到したのだ。普段から周囲より人望の篤い性格が災いして、支部は助言と相談を求める暗殺者たちでちょっとした騒ぎになった。自分でも把握しきれない状況の中で、マリクは猫耳をぴんと立てながら実態を掴むべく、各所に鳩をとばして情報の収集に血道をあげた。その結果が先程のアレだ。
扉を出て、先程買い出しに出かけた青年の去った天井の戸口を見上げてもう一度嘆息する。色々と精神的にも疲れ果てて、ずるずるとクッションの山に背を持たせて座り込んだ。
「わけがわからん」
今現在、判明していることは、この猫耳が生えるというふざけた現象は教団の中だけで起こっているということ。この状態に陥った者は嗜好や性質が猫に近くなっているということ。その二つだけだ。
ダマスカスからの書簡を思い出してマリクは顔を顰める。実害はない?そんなわけがない。舞い込んでくる報告は酷かった。曰く、ターゲット尾行中に魚屋の店先に気を取られて見失った。屋根の上に群がる鳩につい飛びかかってしまい暗殺目標に気付かれて追い回された。藁の中に隠れてたままうっかりうとうとしてしまった。
猫の性質のせいか身のこなしが軽くなり、足音を消すのも易くなったと前向きに喜ぶ者もいたが、これではお釣りがくるどころか大損害だ。
無意識に猫耳をはたりと揺らしながら、出て行った兄弟ははたして魚屋で理性を保っていられるだろうかと考えていると、天井の入り口に俄かに影が差した。
「安全と平和を……マリク」
ひょいとそれこそ猫のように飛び降りてきた人影にぴく、とマリクの黒い毛並みが逆立つ。警戒の動きだがマリク自身はそれに自覚はなかった。
「何故お前が此処に来る?任務の話は届いていない」
「随分な言い方だな」
白い衣の裾を棚引かせて床に降り立ったアルタイルはマリクの辛辣な挨拶にも軽く肩を竦めただけだった。それどころか目深にかぶったフードの下からのぞく、精悍な口元は何故か楽しげに緩んでさえいるようだった。
「着いたばかりの俺をたまには労わってくれないのか、管区長」
「お前がくると毎回騒ぎが起こるこっちの身になれ」
「今日は既に騒ぎになっている。同じじゃないか」
やはり知っているのか。アルタイルの言葉にマリクは憮然とする。今朝エルサレムに着いたというのなら、昨夜は道中だったのかもしれない。しかしそつのない男は支部に来る道すがら、しっかり情報収集は済ませていたとみえる。
だが、知っていてなおこの平静さはどうだとマリクはアルタイルを見返して、ふと違和感に気がついた。あまりにも普段通りすぎるのだ。
「……アルタイル、お前もしかしてなんともないのか?」
「―――マリク、耳が動いている」
「それは関係ないだろう。おい」
「触っても?」
「は?!」
斜め上の発言に耳を疑った時には既にアルタイルは脚を踏み出していた。間合いの内に入られるとマリクの身体は嫌でも反応する。それはアサシンのさがだ。ぴりりと猫の耳が毛並みを逆立たせるのをアルタイルの視線が追う。身をかがめて手を伸ばしてくるその刹那、咄嗟に脚が出た。
「ぐふっ」
「人の話を聞け!」
顔面に入った蹴りは辛うじてアルタイルが一歩退いたお陰で威力は落ちたようだが、なかなか小気味のいい音がした。流石にやりすぎたかと様子を窺うが、マリクの予想に反してアルタイルは怒るというよりも無念そうな声音で酷いなと呻いただけだった。
「酷いのはどっちだ」
悪態をついてさっさと立ち上がると、マリクは絨毯の上に膝をついて顔面を押さえている男を見下ろした。実は少し心配をしていたのだが杞憂だったようだ。鷲は気高き鷲のまま、猫にはならないのか。焦燥と安堵が混じる奇妙な気分に己の内での感情を持て余し、結局マリクはそのまま踵を返した。長衣の裾を払って隣室へ向かうと、アルタイルが後を追ってくる。
「ここに居ても今日は情報交換は見込めないぞ。皆使い物にならない。色々と」
鰹節につられて屋根から落ちたアサシンの話はしたくないなと思いながらカウンターの奥へと入ると、アルタイルは向かい側からカウンターテーブルに手をついて、マリクの傍へと身を寄せてきた。
「構わない」
「ここは油を売る場所じゃないぞ」
「開店休業なんだろう?邪魔はしないさ」
淡々とした口調だが何処となく熱っぽく、確実にマリクの内に踏み入るような低い声音だった。完全な拒絶の言葉が出なくてマリクは反撃の糸口を見失い押し黙る。忙しなく猫の耳が揺れるのを、フードの蔭からアルタイルの猛禽の眼差しがじっと見つめている。
「マリク……」
「好きにしろ」
折れることを知っていたのではないかと疑うような完璧なタイミングでアルタイルが傷跡のある唇の端を吊り上げる。同性でも一瞬見惚れるようなその食えない笑みが酷く癪に障るのはきっと、己の余裕の無さなのだ。
確かにアルタイルは言葉通り邪魔はしてこなかった。だとしたら或いはこれはマリクの鍛錬不足なのかもしれない。
(いや……しかし、…それでもだ)
黙々と資料を整理し書簡を片づけて情報と指示を纏めている間、アルタイルは部屋の端で壁に背をもたせかけてじっとマリクの様子を眺めていた。正直すぐに飽きて出ていくと思っていたのだが、アルタイルは結局昼を過ぎてもずっとそこにいた。最初は休むなら何故隣室や奥の部屋を使わないのだろうかと訝っていたマリクではあった。だが、そのうち猫耳の生えた兄弟たちがちらほらと出入りしてはニャーニャーと魚の燻製やらを置いて行ったり、やってきた伝書鳩を獲物を見るような眼で狙うので追い出したりしているうちに、気にならなくなってしまった。
時折、年下の兄弟たちが緊張しながらもアルタイルに挨拶をしていくのを聞き流しながら、ふと考える。何故アルタイルだけ影響がないのだろうか。マシャフからの伝書鳩はまだ着いていないから、或いは場所によっては異常がないのかもしれない。
街路図の修正を一段落させて顔を上げると室内にはマリク以外誰もいなかった。開きっぱなしの扉から差し込む光の長さと角度で大体の時刻が把握できた。
(居なくなれば居なくなったで物足りないもんだな)
ペンを置き、眉間を指で揉みながら、内心で嘆息するのは自分に対してだ。別にあの男を探すわけではないが、とわざわざ前置きをしてからマリクはカウンターを出て戸口へ向かった。
陽は中天を過ぎたところで天井から差し込む光が壁の蔦を鮮やかに照らしている。
クッションの積まれた絨毯の上に腰を下ろすと、長時間同じ姿勢だったためか身体が軋んだ。ニャーと屋根から猫の鳴き声が聞こえた。散々な一日た。どうせならば猫耳のアルタイルを見たかったなと自身も無意識に猫のように欠伸を一つしたところで、床に投げ出したブーツの爪先に影が落ちた。
「終わったのか」
「アルタイ、ル……」
何故この男はこうも容易にマリクの間合いの内へと滑り込んでくるのだろうか。足音と気配に気付かなかったのは己の慢心なのかそれとも不注意なのかマリクは戸惑う。逡巡の隙にアルタイルは近寄ると絨毯に膝をついた。流れるような所作はマリクの警戒線をいともたやすく突っ切る。近づく視線と距離に何の用だと強い視線を投げ返すが、アルタイルはやはり怯むことなく手を伸ばしてきた。
「じゃあ、もう触ってもいいか?」
「だからわけがわからん」
「マリク、そんなに緊張しないでくれ」
「していない」
「している」
「お前と押し問答をするつもりは、な……」
後ずさるように身を引いたが背中がクッションにぶつかる。フードに隠れたアルタイルの表情は見えない。なにを考えているのかわからないと思う。いや、わからないふりをしているのはマリクなのかもしれない。猫の耳に伸ばされる傷だらけの手指に触れられたら何か外れてしまうような恐ろしい予感がして、咄嗟に隻腕でその手を遮った。同時にもう片方の手を伸ばしたアルタイルがマリクの首に触れた。急所を触れられると神経が逆立つのはどうしようもない。そのままするりと後頭部まで掌で掴まれて、今度は豹変したような強さで引き寄せられた。
「アルタイル!何をしてい、……っ」
「舌も猫みたいなのか?」
「だから、人の話を!」
「熱いものは?」
聞け、と口を開いた瞬間アルタイルはマリクの唇を盗んだ。一瞬、触れるように。一度離れた唇が不遜な囁きでマリクを追い詰める。フードの影からぎらついた双眸は瞳孔が縦に割れた猫の目のように見えた。
「くちづけても?」
「な、」
行動と台詞が逆だ。罵倒の前に狼狽した所為で更に隙を与えてしまった。刹那の差でもう一度唇が塞がれる。今度は触れるだけでは済まなかった。
ぬるりと口中に這い込んだアルタイルの舌は熱くマリクの舌先を蛇のように絡め取った。甘えかかるのと貪るのと紙一重の加減で絡まるそれに、不覚にもマリクは思考を一瞬持って行かれそうになる。擦り合わさった舌先のざらざらした感触に思わず溜息を漏らしかけて、同時にそれにはっとした。
「っつ、!」
掴まれていた手を振りほどけたのはアルタイルがくちづけに気を取られていた所為かも知れない。解けた手指をアルタイルの襟元に突っ込んでマリクはその白いフードを引き摺り下ろした。執拗な唇を膝で鳩尾を押しのけることで引き剥がしたマリクは、ばさり、と落ちた布の下から砂色に近い短い髪と一緒に零れ落ちたそれに目を剥く。
「お前もじゃないか!」
思わずといった様子で低く唸ったマリクの声に悪びれずアルタイルは濡れた唇をべろりと舐めて微笑った。仕草に合わせて彼の頭の上で真っ白い猫の耳が得意げに揺れている。
「俺は別に影響がなかったとは言っていない」
「それはそうだが、たちが悪い!」
「なにか問題でも?」
言いながらマリクの上から退こうともせずアルタイルは楽しげに笑う。狙った獲物を捕まえた猫のような様子だった。反撃の言葉が珍しくすぐ出てこなくてマリクはそのまま精悍な顔を顰めて歯軋りをした。一杯食わされたというのかこれは。同時に気がつく。間合いに滑り込まれるのは、マリク自身の問題だ。強固な境界線もその主が許さなければ誰も踏み込むことができない。
「……何が舌も猫みたいなのか?だ。自分で分かっているだろう!」
「そんなのはキスの口実だ」
「うるさい、用がすんだらどけ!」
「終わっていない。耳を触らせてくれ。……耳以外も」
「断る!」
「聞けない」
く、とまた唇の端を吊り上げるようにして笑ったアルタイルは遠慮会釈もなくマリクに覆いかぶさってくる。今度は遮られることのなくなった指がビロードのような黒猫の耳を優しく摘まんだ。ひゅ、と息が止まりそうになるマリクの様子に気をよくしながらアルタイルは可愛いなと呟いた。面目丸潰れでマリクはぐるぐるする思考の中で思う。既によく知っていたのだ、いくら学んだとしてもアルタイルのこういう時のマリクに対する傲慢さは変わらない。理由は薄々勘付いているけれど、言葉にするのを躊躇っているだけだ。お互いに。
少しずつ余裕の色が消えていくアルタイルの声音は低く掠れた。
「今日はマリクが可愛いから、下に」
「ふざけるな。却下だ。却下!」
「嘘はそろそろやめてくれ」
「嘘じゃない!なんでお前はいつもそう決めつけるんだ!慎め!」
猫の耳を弄られながらも暴れて、のしかかるアルタイルの腰を膝で蹴ってくるマリクの言葉に苦笑を零す。だって、と背中を屈めてマリクの本来の耳朶の方に唇を寄せて、囁く。
「猫の耳は素直だからすぐわかる」
いつの間にかくったりと寝ていた黒い毛並みの耳の先をびくりと揺らしてマリクは反撃の台詞を探した。そんな本来自分の身体に無かった器官のことなぞ知るか。怒鳴りかけて視界の端でアルタイルの白い猫耳が嬉しげに揺れているのを見る。ああ、そういうことか。納得してしまった途端に言葉は喉でつっかえて止まり、反撃の機会は失われた。
アルタイルの肩越しに天井の戸口が見えた。空は快晴で何処からか猫の鳴き声が聞こえる。
どうしてこうなった。
伸ばした隻腕で得意げなでかい白猫の背中を抱きながら、そこでマリクは今日の日付を思い出した。
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20140222
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