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「神羽振」一部抜粋
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(前略)


あたりはやはり静まり返っていた。閉じた障子越しに鳥の鳴く声が聞こえる。
三成の身を寄せている寺は街からは少し離れた場所にあった。田畑の広がる平地を過ぎて小さな村落から続く道を山に分け入ってすぐのところにある禅寺だ。村人が訪れたり時折、街のほうからの参拝者も来るが、それほど多くもない。
住職をはじめとする寺の関係者以外には四国との連絡係を務める元親の部下が一人と、雑賀衆から遣わされている男が一人。酷く静かだ。乱世のざわめきなど夢のように遠ざかった場所だ。けれど、三成の胸の火は消えることはない。轟々と耳の奥で渦巻く音は止むことがない。目を閉じれば赤と黒と金が斑に世界を占め、鋭く研ぎ澄まされたままやり場のない神経の切っ先を苛む。目を開けば物狂おしいほどの空虚が三成の心臓を食んだ。
震えをとめるため刀を握ったまま、三成は午後の遅い光が差し込む室内を見回した。質素な文机の上に開いたままの書簡が所在なげに置いてある。以前に届いた元親からの文だ。定期的に寄越される手紙には聞いてもいないのに四国の様子や海の話、雑賀のことなどが記されている。
今回の手紙には近々三成に会いに来るということが書いてあった。予定の日は今日のはずだったが西海の鬼はまだ姿を現していない。暫く前から海が荒れていると噂があったから嵐のせいで船足が遅れているのかもしれない。
徐に立ち上がると三成は刀を携えたままからりと障子を開けた。
傾きだした陽が簡素な庭を照らしている。青々と茂る枝葉の影が庭石の上に落ちている。まだぼんやりとした輪郭しか描いていないその影を三成はじっと見た。光が強くなればなるほど、影は濃くなる。目映い光は深い闇なしにはいられないのだ。三成には憎悪と障気の闇しかなかった。光ばかりに包まれた家康、貴様は本当はどうだったのだ。
再び襲い来る震えを止めるために刀を握る左手に力が籠る。藤と竜胆の螺鈿と象嵌の少し剥がれた凹凸が、掌の肉に食い込んだ。痛みは幸いだ。赤と黒の狂気に囚われぬよう、三成を現実に繋ぎとめる感覚はもうこれしかない。けれど痛みさえもが家康が三成に遺したものの一つだ。

(貴様はどこまで、私を)

乱暴に障子を閉めると三成は廊下を歩きだした。空虚を埋めるための何かがなければ、このままでは気が触れてしまう。けれど開いた掌に一体何が残っているというのだろうか。年代を刻む手入れの行きとどいた廊下を通り、建物を出る。禅堂の方から読経の声が遠く聞こえてくるのを耳にしながら履物をつっかけ、当てもなくぼんやりと山門の方へと足を向けた。
掃き清められた石段を下っていると、山門の脇に人影があることに気付いた。参拝者、ではない。見覚えがあるような後ろ姿は寺の雲水だった。何するともなしに門へと近づけば、三成の姿に気づいた青年は慌てて深く一礼した。

「石田様」

彼は手に何かを持っていた。袱紗か何かのようだ。上品な墨色の布地に何かの文様が透かし入れられている。
「あの、客人を御見かけになりませんでしたか」
参拝者のことだろうか。無言のまま視線だけで返すと委縮したらしい雲水は困ったように手にした袱紗に視線を落とした。

「先程までいらっしゃった客人だったのですが、忘れ物をされたようで」

三成は先程自室から出てきたばかりで参拝客など知らない。住職のところで話でもしていたのだろうか。ぼんやりと袱紗を眺めたとき、ふと珍しい種の香りが鼻に届いた。香だろうか。しかし抹香の匂いではない、もっと違う、上品だが何処となく不思議な香りだ。
反射的に三成は手を伸ばすと僧侶からその忘れ物とやらを取り上げた。

「石田様?どうされまし、」
「出たばかりならばまだ追いつけるか」

会話にしては粗雑な言葉の羅列だったが、言わんとしたことに気付いたのか慌てて男がまた頭を下げた。その時にはもう見向きもせず三成は石段を蹴っていた。黒のお召し物の背の高い男性でしたと声が背中に降ってきたが、三成は碌に聞いてはいなかった。
ひらりと音もなく山門をくぐって、木々の間を縫うように続く石段を駆け下りる。風と木の葉の擦れる音がして、耳元を掠めた。藤色と銀鼠の衣の裾を捌いて三成は山道を駆け下りた。やけに胸が騒ぐのは久しぶりに寺の外へと降りたからだろうか。外界が近付くとまだ心臓がざわつきだすのか、狂おしいような熱い火が腹の裡を焼く心地がした。
ぐっと迸る呼気を噛み潰して最後の階を飛び降り、まばらな木立の間を抜ける。
ひときわ強く、風が吹いて三成の白銀の髪をなぶる。
田畑は刈り入れにはまだ早く、青い海原のように風の中で穂先を波打たせて遠く広がっている。稲穂の海の間を、埃の立つ道がゆるい陽の光に照らされて村の方へと続いていた。
その道に男が一人、此方に背を向けて立っていた。やや上背のある男だ。墨色と蝋色の衣を纏い、腰に古風な太刀を佩いている。上品な佇まいに対してすうと伸びた背筋に滲む覇気がやけにちぐはぐで、無性に三成の神経を逆撫でた。
寺の客人とはこの男だろうか。胸にふと湧いた奇妙な違和感を持て余して、三成は一瞬声をかけるのを躊躇った。男は背後から来た三成の気配に気づいたのだろうか。歩き出すことなく振り返らぬまま、徐に口を開いた。

「久方ぶりだな、凶王」

直感と衝動が引鉄となる場合、思考よりも筋肉の収縮の方が遥かに速かった。低く響いた声音を聴覚が受容した時には信号が脊髄で折り返し、手指が動いていた。手にした袱紗が宙を舞うのと刹那の差で三成の手が刀の柄に触れた。
瞬きを超える刹那の早業、一条の銀光となった抜き放ちざまの居合いの一閃は頚椎と頸動脈を見事に横断して男の首を刎ね飛ばした。